第16話 正しい距離
昼休み前の数学だった。
教室には少し眠そうな空気が流れている。
黒板いっぱいに数式を書き終え、先生が振り返った。
「じゃあ、この問題。分かる人いるか?」
手は上がらない。
難しいわけではないが、少し面倒な問題だった。
沈黙が続く。
数秒後。
椅子が静かに引かれる音がした。
「……はい」
教室の前方、窓側。
一ノ瀬さつきが立っていた。
背筋は真っ直ぐで、声は落ち着いている。
黒板へ歩き、迷いなく式を書き始めた。
無駄がない。
途中式も簡潔で、正確だった。
チョークの音だけが響く。
「……以上です」
先生が頷く。
「うん、完璧。解き方もきれいだな」
一ノ瀬は小さく会釈して席へ戻った。
拍手も歓声もない。
ただ、いつもの空気が戻る。
誰も何も言わない。
それが、少しだけ不自然だった。
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「さすが優等生」
後ろの席から小声が聞こえる。
「間違い探す方が難しそう」
「てか、あれ説明されたら余計分からんくね?」
笑い混じりの声。
悪意はない。
でも距離はあった。
裕翔はノートを見ながら、さっきの解答を追う。
(……分かりやすいけど)
どこか冷たい印象が残る。
正確すぎるからかもしれない。
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授業が終わる。
椅子が動き、ざわめきが戻る。
裕翔が立ち上がったとき、前の席からプリントが落ちた。
反射的に拾う。
「あ、これ――」
差し出した先にいたのは、一ノ瀬だった。
「……ありがとうございます」
表情は変わらない。
丁寧だが、距離のある声。
「いや、たまたま」
裕翔が笑う。
一瞬。
一ノ瀬の視線がわずかに揺れた。
ほんのわずか。
すぐに戻る。
「次から気をつけます」
そう言ってプリントを受け取り、席へ戻ろうとする。
会話は終わり。
自然に、線を引くように。
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(……真面目な人だな)
それが裕翔の感想だった。
嫌な感じではない。
ただ、話が続かない。
続けてはいけない気がする。
そんな空気。
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一ノ瀬は席に座り、ノートを開く。
周囲では昼休みの話題が始まっていた。
笑い声。
雑談。
誰も彼女に話しかけない。
彼女も顔を上げない。
その様子を、裕翔はなんとなく見てしまった。
理由は分からない。
ただ。
少しだけ気になった。
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一ノ瀬は視線を感じたのか、顔を上げる。
裕翔と目が合った。
一瞬。
そして――。
わずかに眉が動く。
評価するような視線。
すぐに逸らされた。
(……苦手、って思われたかも)
なぜかそう感じた。
根拠はない。
でも確信に近かった。
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一ノ瀬さつきにとって。
朝倉裕翔は――
少し曖昧で。
少し無駄が多くて。
理解しづらいタイプの人間だった。
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そして裕翔はまだ知らない。
その距離が、これから少しずつ変わっていくことを。
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