第7話 猫神様は恋を叶えない
ゴールゲートをくぐった瞬間、世界中の鈴が鳴ったような気がした。
ちりん。
それは、小さな鈴の音だった。
けれど、アクアリウムの水路に反響し、白い石橋の下を抜け、赤レンガの鐘楼まで上っていき、湖の向こうへ広がっていく。
サン・ハルカ広場に集まった人たちが、一瞬だけ声を失った。
俺も、声を失っていた。
走りきった。
明日菜さんを抱えて、あの跳ね橋を越えて、最後の直線を走りきった。
足が震えている。
腕も痛い。
肺が熱い。
猫耳はたぶん少し曲がっている。
ケープは肩から半分ずり落ちている。
広報補佐として見た目はかなり怪しい。
だが、俺は明日菜さんを落とさなかった。
それだけは、ちゃんとやった。
腕からそっと明日菜さんを降ろすと、彼女は石畳に足をついた。
少しふらつく。
俺は慌てて支えた。
「大丈夫ですか」
「はい。大丈夫です」
明日菜さんはそう言って、俺を見上げた。
頬が赤い。
走ったからか。
抱えられていたからか。
それとも、別の理由か。
俺は考えかけて、やめた。
勝手に意味を決めるな。
そう、自分に言い聞かせた。
彼女の顔に浮かんでいるものを、俺が勝手に「これは好意だ」と決めるのは、さっきの願いと同じ方向へ戻ってしまう。
俺はまだ、油断するとすぐに調子に乗る。
白金光という男は、そういうところがある。
自覚はある。
自覚した上で、胸を張るところは張るし、反省するところは反省する。
今は、たぶん反省七割、達成感二割、明日菜さんが近いという動揺一割だ。
いや、動揺三割くらいある。
合計が合わない。
恋をしている時の計算はだいたい狂う。
「白金くん!」
那々美さんが救護腕章を揺らしながら駆け寄ってきた。
その後ろに鳴海会長、椎凪先輩、そしてなぜか記録用端末を抱えた玉藻先生。
玉藻先生は目を輝かせている。
「すごいわぁん! 最後の願望反応、猫鈴バンドの同期率が急上昇して、それでいて干渉性は低下してたのよぉ! つまり、光くんの願いが所有欲から支援願望へ転化――」
「玉藻先生」
愛会長が静かに言った。
「今は救護確認が先です」
「はい」
玉藻先生は一瞬でしゅんとした。
白衣の上に発光猫耳をつけたままなので、しゅんとしてもあまり反省して見えない。
那々美さんは、まず明日菜さんの膝を見た。
「擦り傷ですね。足首は?」
「少し痛みますけど、歩けます」
「無理しないでください。すぐ冷やします」
「はい。ありがとうございます」
那々美さんの手つきは丁寧だった。
さっきまで俺の願いに対して強い声を出していた人と同じとは思えないくらい、柔らかい。
でも、たぶん同じなのだ。
優しいから、強く止めた。
そういう人なのだと思う。
愛会長は俺を見た。
「白金」
「はい」
「怪我は?」
「大丈夫です。足と腕と肺と心臓が限界に近いだけです」
「怪我ではないな」
「たぶん」
「ただし、心臓については後で自分で処理しろ」
「それが一番難しいです」
愛会長はわずかに目を細めた。
怒っているわけではない。
呆れている。
いつものやつだ。
その少し後ろで、ローズマリーが拍手をしていた。
猫耳はない。
水路に落ちたからだ。
猫耳を失ったローズマリーは、少しだけ祭礼衣装の完成度が下がっているはずなのに、なお絵になる。
腹立たしい。
いや、今は腹立たしくない。
不思議と。
「おめでとう、光くん」
ローズマリーは笑った。
「なかなか悪くなかったよ」
「悪くなかった、ですか」
「うん。五点満点で四点くらい」
「あと一点は?」
「最後に『俺はやったぞー!』みたいな顔をしたところ」
「しました?」
「してた」
「してたわね」
美咲さんが横から言った。
いつの間にかゴール近くまで来ている。
ナオキ先輩も隣にいた。
こちらは少し息が上がっているが、楽しそうだ。
「でも、悪くなかったぞ。最初の願い方は危なかったけどな」
「そこは反省しています」
「ならいい」
ナオキ先輩は、俺の猫耳をちらりと見た。
「あと猫耳は曲がっている」
「今それ言います?」
「大事だろ」
直樹先輩がスタッフ腕章をつけたまま、少し離れた場所から言う。
「俺なら途中で外して失格になってた」
「自慢になってません」
「つけて走っただけ、おまえはすごい」
「褒められてます?」
「半分くらい」
半分。
鏡星学園では、褒め言葉がだいたい半分で届く。
その時、ゴールゲートの上に光が集まり始めた。
さっきまで淡かった金色が、今度ははっきりと形を持つ。
観客がざわめく。
白薔薇保存会のスタッフも、紅薔薇保存会の関係者も、鏡星学園の生徒たちも、みんな空を見上げた。
羽の生えた小さな猫。
さっきは半透明で、寝起きで、輪郭もふらふらしていた。
今は違う。
小さな身体は金色の光をまとい、背中の白い羽はふわりと広がり、首の赤い鈴は澄んだ音を鳴らしている。
丸い目。
小さな前足。
ふわふわの尻尾。
石像や絵巻で見た姿そのままなのに、実物は思ったより小さくて、思ったより猫だった。
猫神ハルカ。
アクアリウムの祭りに伝わる、願いを聞く猫神様。
その本人が、ゴールゲートの上で前足をそろえ、少しだけ首を傾げた。
「こんにちは」
広場が静まり返る。
ハルカは一拍置いて、少し自信なさそうに続けた。
「えっと、カミサマやってます」
観客の何人かが、思わず「かわいい」と呟いた。
神様の第一声として、それでいいのか。
いや、可愛いのは事実だ。
俺も少し思った。
ハルカは自分の赤い鈴を前足でちょんと触った。
ちりん。
その音が、広場全体へ広がる。
直後、サン・ハルカ広場の猫像という猫像が、ほんの少し頭を下げた。
屋台の猫型看板も。
水路の欄干に座る石猫も。
鐘楼の上の猫像も。
街全体が、猫神様の出現に反応している。
その光景を見て、観光客たちは一斉に息をのんだ。
単なる演出ではない。
たぶん、誰もがそうわかった。
玉藻先生だけは、息をのむどころか端末を構えていた。
「すごい、すごいわぁん! 完全顕現に近い状態! 羽の発光パターン、鈴の共鳴周波数、幻実因子の密度、どれも記録しないと――」
「玉藻先生」
愛会長の声が飛ぶ。
「採取は禁止です」
「撮影は?」
「距離を保ってください」
「毛一本くらいは?」
「禁止です」
「抜け毛でも?」
「禁止です」
「厳しいわぁ」
猫神様の前でも、玉藻先生は玉藻先生だった。
ハルカは玉藻先生を見て、少しだけ尻尾を膨らませた。
「毛はだめです」
「ほら、神様も言ってます」
那々美さんが言う。
玉藻先生はしょんぼりした。
ハルカは次に、俺を見た。
小さな金色の目が、まっすぐこちらへ向く。
その瞬間、胸の奥の猫鈴が鳴った気がした。
ちりん。
「白金光さん」
「はい」
俺は思わず背筋を伸ばした。
神様に名前を呼ばれると、人間は自然と姿勢がよくなるらしい。
「鈴木明日菜さん」
「はい」
明日菜さんも少し緊張した声で返事をした。
ハルカは俺たちを交互に見た。
「ふたりは、同じ道を走りました」
「……はい」
「途中からですけど」
俺が正直に言うと、ハルカはこくんと頷いた。
「途中からでも、ちゃんと走りました」
それは、少し不思議な言葉だった。
最初からではない。
最初、俺は自分の願いだけで走っていた。
明日菜さんを見てほしいと願い、選んでほしいと願い、好きになってほしいと願った。
途中で間違えた。
猫鈴バンドが暴走しかけて、明日菜さんを困らせた。
那々美さんに止められた。
愛会長に止められた。
ローズマリーに指摘された。
ハルカに言われた。
そこから、やっと少しわかった。
だから、途中からだ。
俺の願いも、途中から変わった。
明日菜さんを手に入れるためではなく、明日菜さんが走りたいと言った場所まで一緒に行くために走った。
それがどれだけ立派なのかはわからない。
でも、少なくとも、最初の俺よりはましだったと思う。
ハルカは赤い鈴を鳴らした。
「それでは」
広場の空気が、すっと張りつめる。
「願いを聞きます」
願い。
その言葉に、俺の喉が乾いた。
観客の視線が集まる。
白薔薇保存会。
紅薔薇保存会。
鏡星学園。
あやめさん。
ローズマリー。
那々美さん。
愛会長。
明日菜さん。
そして、猫神ハルカ。
全員が俺を見ている。
いや、正確には俺たちを見ている。
でも、ハルカの目は俺に向いていた。
願いを言うのは、俺なのだろう。
最初の予定なら、ここで迷わず言っていた。
明日菜さんと――。
そこまで考えた瞬間、心臓が跳ねる。
口が勝手に動きかけた。
「明日菜ちゃんと――」
言いかけて、止まった。
広場の空気が固まる。
明日菜さんが目を丸くする。
俺は、自分の口を手で押さえそうになった。
危なかった。
危なかったというより、少し出た。
明日菜ちゃん、と呼んだ。
馴れ馴れしい。
かなり馴れ馴れしい。
後で謝ろう。
だが、今止まれたことの方が大きい。
俺は息を吸った。
頭の中に、いくつもの言葉が浮かんだ。
相手の気持ちを変える願いは認めない。
鳴海会長の声。
白金くんの気持ちは、白金くんのものです。でも、それを明日菜さんの気持ちにしちゃだめです。
那々美さんの声。
好きにさせる願いは、叶えちゃだめです。
ハルカの声。
好きって、自分の中から出すものです。
その言葉が、一つずつ胸の中で鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
俺は、明日菜さんを見た。
彼女は不安そうに、でも逃げずに俺を見ていた。
俺が何を願うのかを、ちゃんと聞こうとしている。
それを見て、わかった。
今ここで、明日菜さんの気持ちをどうにかする願いを言えば、俺は彼女を裏切る。
さっき一緒に走ったことも。
彼女が自分で「走ります」と言ったことも。
俺が「嫌なら断ってください」と言えたことも。
全部、無駄にしてしまう。
それは嫌だった。
俺は、明日菜さんを好きだ。
その気持ちは、もうごまかせない。
でも、その気持ちは俺の中にある。
明日菜さんの中へ勝手に入れるものではない。
なら、俺が願うべきことは。
俺は猫神ハルカを見上げた。
「俺が」
声が少し震えた。
でも、逃げなかった。
「俺が、自分の言葉で言う勇気をください」
広場が静かになった。
それは、派手な願いではなかった。
恋愛成就でもない。
勝利でもない。
有名になることでもない。
明日菜さんに好きになってもらうことでもない。
ただ、自分の言葉で言う勇気。
言ってしまえば、それだけだ。
でも、今の俺には、それが一番必要だった。
ハルカは、じっと俺を見た。
金色の目が少し細くなる。
やがて、小さな口元がふわっと緩んだ。
「それなら」
ハルカは笑った。
「ちょっとだけ」
猫神様は、羽をひらりと動かした。
次の瞬間、俺の目の前に降りてくる。
小さい。
本当に小さい。
両手で抱えられそうなくらいの大きさだ。
でも、そこにいるだけで広場の空気が変わる。
ハルカは俺の胸元まで浮かび上がり、小さな前足を伸ばした。
ぽん。
背中を押された。
軽い。
でも、その小さな力が、妙に深く届いた。
胸の奥の猫鈴が、一度だけ鳴る。
ちりん。
すると、不思議と足が前へ出た。
明日菜さんの方へ。
観客が息をのむ。
那々美さんが両手を握る。
愛会長は黙って見ている。
ローズマリーは少しだけ笑った。
あやめさんは姿勢を正した。
玉藻先生も、今だけは端末を下ろしていた。
明日菜さんは、俺を見ていた。
赤い猫耳。
少し乱れた髪。
膝の擦り傷。
それでも、ちゃんと立っている。
俺は彼女の前で立ち止まった。
心臓がうるさい。
ものすごくうるさい。
ゴール前の直線より、今の方が息が苦しい。
だが、俺はもう走っていない。
ここからは、足ではなく言葉だ。
「鈴木明日菜さん」
声が少し硬い。
敬語が変にかしこまっている。
でも、仕方ない。
俺は今、かなり必死だ。
「はい」
明日菜さんの返事も、小さかった。
俺は息を吸った。
そして、言った。
「俺は、明日菜さんが好きです」
言った。
言ってしまった。
広場の音が消えたように感じた。
でも、俺は続けた。
「今日、初めて会って、いきなり好きとか言って、たぶんかなり急だと思います。距離感も間違えました。願い方も間違えかけました。明日菜さんを困らせました」
言葉が止まりそうになる。
でも、止めなかった。
「それでも、俺は明日菜さんが好きです。神様にどうにかしてもらうんじゃなくて、俺が言います」
胸が熱い。
顔も熱い。
猫耳まで熱くなっている気がする。
「だから、返事を今すぐくださいとは言いません。好きになってくださいとも願いません。ただ、俺がそう思ったことを、俺の言葉で伝えたかったです」
言い終えた。
終わった。
俺の人生が終わったわけではない。
でも、一回何かが終わった感じはあった。
逃げ道が消えた。
ごまかしも消えた。
見栄とノリで飾っていた部分が剥がれて、残ったものをそのまま出した。
これが、自分の言葉で言うということなのだろう。
明日菜さんは、黙っていた。
当然だ。
突然すぎる。
俺でもわかる。
彼女は少しうつむき、両手を胸の前で握った。
その指が震えている。
やっぱり困らせたかもしれない。
胸が痛くなる。
でも、今度は待つしかない。
彼女の言葉を。
明日菜さんは、ゆっくり顔を上げた。
「白金さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「はい」
「とても、びっくりしました」
「はい」
「正直、今日会ったばかりなので、わたしもどう答えたらいいのか、まだわかりません」
「……はい」
少しだけ胸が沈む。
でも、それは当然だ。
むしろ、ちゃんと言ってくれている。
明日菜さんは続けた。
「でも、さっき一緒に走ってくれたことは、本当に嬉しかったです。わたしが走りたいって言ったことを、白金さんはちゃんと聞いてくれました」
「はい」
「それと、願いを変えてくれたことも」
彼女は少しだけ笑った。
「神様にどうにかしてもらうんじゃなくて、自分で言うって言ってくれたことも、嬉しかったです」
俺は、息をするのを忘れかけた。
明日菜さんは視線を少し落とし、それから覚悟を決めたように言った。
「それで、わたしも、ちゃんと言わないといけないことがあります」
「言わないといけないこと?」
明日菜さんは頷いた。
その表情が、さっきまでとは少し違った。
案内スタッフの顔でも、付き人の顔でもない。
背筋が伸びる。
赤い猫耳が揺れる。
彼女は、広場の中心で静かに言った。
「わたしは、鈴木明日菜です。アクアリウム分館の案内スタッフとして皆さんに接していましたけど、本当は、紅薔薇保存会の代表を務めています」
広場がざわめいた。
「紅薔薇の代表?」
「明日菜さんが?」
「ローズマリーさまじゃなくて?」
俺も固まった。
「え」
かなり間抜けな声が出た。
明日菜さんは少し申し訳なさそうに頭を下げる。
「隠していて、すみません」
「いや、え、明日菜さんが代表?」
「はい」
「ローズマリーは?」
俺はローズマリーを見る。
ローズマリーは肩をすくめた。
「ボクは教皇役。祭礼劇のスター俳優で、紅薔薇保存会の補佐役でもある。表に出るのが得意だから、代表みたいに見えるけどね」
「補佐?」
「そう。明日菜くんの補佐」
「逆だと思ってた」
「だろうね」
ローズマリーは楽しそうに笑った。
「光くん、最初からだいぶ勘違いしてたし」
「言ってくださいよ!」
「聞かれなかったから」
「ひどい!」
明日菜さんが慌てて言う。
「ローズマリーさま」
「ごめんごめん。でも、明日菜くんが自分で言うことだからね」
その言葉に、明日菜さんは少しだけ頷いた。
彼女は俺を見た。
「紅薔薇保存会は、ハルカ降臨祭の伝統や古い資料を守る役目です。わたしはまだ未熟ですし、代表と言っても支えてくれる人がたくさんいます。でも、肩書きだけで見られることが少し怖くて、今回の研修では案内スタッフとして接していました」
「肩書きだけで」
俺は呟いた。
代表。
紅薔薇保存会。
伝統を守る立場。
もし最初からそう知っていたら、俺はどうしていただろう。
たぶん、驚いただろう。
少し構えただろう。
もしかしたら、「代表ならすごい人だ」と勝手に持ち上げていたかもしれない。
あるいは、ローズマリーをライバルだと思ったように、勝手に役を決めていたかもしれない。
明日菜さんは、それが嫌だったのだろう。
普通の自分として話したかった。
案内スタッフとして。
ひとりの鈴木明日菜として。
俺は、少しだけ恥ずかしくなった。
俺も、彼女を見てすぐに「運命の人候補」として見てしまった。
肩書きとは違うが、やはり勝手に役を置こうとしていたのかもしれない。
「白金さん」
「はい」
「わたしは、まだ白金さんのことをよく知りません」
「はい」
「今日、会ったばかりです」
「はい」
「勢いがすごくて、少しびっくりしました」
「すみません」
「でも」
明日菜さんは、少しだけ笑った。
「ちゃんと止まってくれました。わたしの気持ちを勝手に願いにしないでくれました。最後は、わたしが走りたいと言ったことを聞いてくれました」
その笑顔は、柔らかかった。
「だから、わたしも、白金さんのことをもう少し知りたいです」
胸の奥で、何かが鳴った。
ちりん。
大きな歓声ではない。
劇的な恋人成立でもない。
でも、俺には十分すぎる音だった。
「……それは」
声が少し震えた。
「それは、かなり前進ということでいいんでしょうか」
明日菜さんは少し困ったように笑った。
「たぶん」
「たぶん」
「はい。たぶん」
「たぶん、好きです」
俺が勢いで言うと、明日菜さんの顔が赤くなった。
「そ、そこまではまだ言ってません!」
「すみません!」
広場が笑いに包まれた。
那々美さんがほっとしたように笑っている。
愛会長は小さく息を吐いた。
「成立、ではなく継続観察だな」
「生徒会長、恋を事件記録みたいに言わないでください」
「現状確認だ」
ナオキ先輩が笑った。
「白金らしいな。着地しても少し跳ねる」
直樹先輩がぼそっと言う。
「跳ねすぎるとまた転ぶぞ」
「今日は転びません!」
「さっき転びかけてただろ」
「転んでません!」
ローズマリーが俺の肩を軽く叩いた。
「よかったね、ライバルくん」
「あなたはライバルじゃなかったんですね」
「そうだよ」
「でも、なんか悔しいので、まだライバルでいてください」
「いいよ。舞台上のライバルなら歓迎する」
「舞台はちょっと」
「逃げた」
「広報で勝負します」
「じゃあ、それで」
ローズマリーは笑った。
あやめさんが近づいてきた。
足には応急処置がされている。
それでも姿勢は崩れていない。
「光さま」
「はい」
「無事に願いを言い換えられたようで、何よりでございます」
「ありがとうございます」
「ただし、明日菜さまをいきなり『明日菜ちゃん』と呼びかけた件については、後ほど反省文を」
「反省文!?」
「冗談でございます」
「冗談に聞こえない」
「半分ほど」
「どっちの半分ですか」
あやめさんは答えなかった。
怖い。
でも、少しだけ笑っていた。
猫神ハルカは、俺たちのやり取りを見て、満足そうに尻尾を揺らした。
「恋は叶えてません」
ハルカは言った。
「でも、言えました」
その言葉は、広場の上を柔らかく渡っていく。
「言えた願いは、ここから自分で歩きます」
ハルカは羽を広げる。
金色の光が、雪のように降った。
いや、雪ではない。
小さな猫の足跡の形をした光だ。
それが観客の頭上に降り、屋台の屋根に触れ、水路の水面に落ち、すぐに消えていく。
子どもたちが歓声を上げる。
観光客が手を伸ばす。
白薔薇保存会の人たちは頭を下げる。
紅薔薇保存会の人たちも同じように頭を下げる。
アクアリウムの街全体が、猫神の祝福を受けているみたいだった。
ハルカは俺に向かって、もう一度小さく鳴いた。
「にゃ」
「それは、何ですか」
「応援です」
「ありがとうございます」
「でも、調子に乗りすぎると転びます」
「神様にも言われた!」
広場にまた笑いが起きる。
俺は頭をかいた。
調子に乗りやすい。
それはたぶん、直らない。
でも、少しずつ止まれるようにはなるかもしれない。
相手の気持ちを勝手に決めずに。
願いを押しつけずに。
自分の言葉で言う。
そして、相手の言葉を待つ。
それが恋だというなら、確かに神様でも難しいのかもしれない。
明日菜さんが隣に立った。
まだ少し照れている。
俺もかなり照れている。
どちらからともなく、少し距離を空けて並ぶ。
近すぎず。
遠すぎず。
今日会ったばかりの距離としては、たぶんこれくらいがいい。
「白金さん」
「はい」
「さっきの言葉、ちゃんと受け取りました」
「はい」
「返事は、もう少し時間をください」
「もちろんです」
俺は即答した。
今度は、間違えないように。
「待ちます。ちゃんと」
明日菜さんは微笑んだ。
「ありがとうございます」
胸の猫鈴が鳴る。
ちりん。
今度の音は、急かしていなかった。
ただ、始まりを告げているようだった。
猫神ハルカは、ゴールゲートの上でふわりと丸くなった。
少し眠そうだ。
「じゃあ」
ハルカはあくびをした。
「レースの結果発表、お願いします」
全員が一瞬固まった。
そういえば。
レースだった。
誰が勝ったのか、どう判定するのか、ペア変更はどう扱うのか、失格と試練と顕現と告白は記録にどう残るのか。
問題は山積みだった。
愛会長がゆっくりと玉藻先生を見た。
玉藻先生は笑った。
「ええっとぉ」
「玉藻先生」
「はい」
「後で詳しく」
「はい」
水上観光都市アクアリウムの空に、白薔薇と紅薔薇の旗が揺れる。
猫耳だらけの観客が笑っている。
猫神様は眠そうに丸くなっている。
俺は、明日菜さんの隣に立っている。
恋は叶っていない。
でも、言えた。
それは、今の俺には、どんな願いよりも大きな一歩だった。




