第6話 走れ、白金光
願いを取り消したあとも、レースは終わらなかった。
むしろ、そこからが本番だった。
旧市場の石畳を蹴って走り出した瞬間、俺ははっきり理解した。
爆々ねこレースは、ただの観光イベントではない。
走れば走るほど、自分の中身が見えてくる。
息が上がる。
足が重くなる。
隣の相手との距離が気になる。
勝ちたい理由が、少しずつ削られていく。
最初は、広報のためだった。
次に、明日菜さんにいいところを見せるためになった。
その次に、恋愛成就の願いを手に入れるためになった。
そして、さっき。
俺は、自分の願いが明日菜さんの気持ちに触れかけたのを見た。
金色の光の紐。
猫鈴バンドから伸びた、俺の願い。
好きになってほしい。
選んでほしい。
俺と走ってほしい。
その全部が、明日菜さんの意思を置き去りにして、彼女へ絡みつこうとしていた。
思い出すだけで、胸の奥が重くなる。
俺は、そんなつもりではなかった。
けれど、そんなつもりではない、という言葉だけでは何も止まらなかった。
止めたのは、那々美さんの声で、鳴海会長の判断で、ローズマリーの言葉で、そして猫神ハルカの小さな声だった。
好きにさせる願いは、叶えちゃだめです。
あの眠そうな猫神様の声が、まだ耳に残っている。
「光さま」
隣から、姫扇あやめさんの声がした。
「はい」
「足が遅くなっております」
「精神的に反省しているところです」
「反省は走りながらでも可能でございます」
「厳しい」
「レース中ですので」
あやめさんは相変わらず涼しい顔で走っていた。
メイド風ガイド服。
黒猫耳。
白薔薇のブローチ。
息ひとつ乱していない。
俺はというと、猫耳は少しずれ、ケープは肩からずれかけ、額には汗が浮かんでいる。
絵面だけなら、完全に俺の方が後輩で、あやめさんが引率者だ。
いや、実際そうかもしれない。
猫鈴バンドがちりんと鳴る。
俺とあやめさんをつなぐ光は、さっきより少し落ち着いていた。
俺の願いが暴走しかけた時のような、金色の強い輝きはない。
ただ、淡く白く光っている。
「この先は?」
俺が聞くと、あやめさんは前方を見た。
「旧市場を抜けると、紅薔薇劇場前の即興演技エリア。その後、水路沿いの跳ね橋を渡り、サン・ハルカ広場へ戻ります」
「終盤ですね」
「はい。ですが」
あやめさんは少しだけ声を落とした。
「今年のレースは、通常の終盤では済まないでしょう」
「でしょうね」
もう驚かない。
巨大タコ、逃げる猫パン、自我を持つゴンドラ、踊る猫像、願いの暴走。
ここまで来て、普通の障害物が出てくる方が逆に怖い。
旧市場を抜けると、道は少し広くなった。
赤い布で飾られた石畳の通り。
その先に、紅薔薇劇場が見える。
白い外壁と赤い装飾。
バルコニーの上には、猫神ハルカの像。
劇場前には小さな仮設ステージが設けられており、そこが次の障害物の会場らしい。
『紅薔薇劇場前・即興演技エリア』
掲示板にそう書かれている。
嫌な予感がする。
即興演技。
つまり、何かを演じろということだ。
俺は広報補佐だ。
人前で笑うことには慣れている。
だが、即興演技となると別である。
「光さま、顔が逃げています」
「逃げてません」
「声も逃げています」
「精神は少し逃げています」
「戻してください」
「はい」
前方では、ローズマリーと明日菜さんがすでにステージへ上がっていた。
ローズマリーは当然のように様になっている。
猫耳に日傘、祭礼衣装。
ステージの中央に立つだけで、周囲の空気が劇になる。
明日菜さんはその隣で、やや緊張した顔をしていた。
それでも、資料を抱えていた昨日の彼女とは少し違う。
今は、参加者としてステージに立っている。
ローズマリーが明日菜さんに何か囁く。
明日菜さんは戸惑いながらも頷いた。
審判役の白薔薇保存会スタッフが札を掲げる。
『お題:猫神様に願いを捧げる旅人』
ローズマリーはすぐに片膝をつき、日傘を置いた。
明日菜さんは驚いた顔をしたが、すぐに両手を胸の前で組む。
即興なのに、二人の動きはまとまっていた。
ローズマリーが、旅人の声で言う。
「湖を渡る猫神よ。僕の願いを聞いてくれ」
明日菜さんが小さく息を吸う。
「その願いは、あなたひとりのものですか?」
声は少し震えていた。
でも、ちゃんと届いた。
「誰かを縛る願いではありませんか?」
俺の胸が、ちくりと痛んだ。
明日菜さんの言葉は、即興演技のお題に沿ったものだ。
でも、さっきの俺の願いにも向いているように聞こえた。
ローズマリーは一瞬だけ俺の方を見た。
そして、旅人として答える。
「縛りたいと願ったこともある。振り向いてほしいと願ったこともある。けれど、旅の終わりに持っていけるのは、自分の足と、自分の言葉だけだ」
観客が静まり返った。
即興演技のはずなのに、妙に刺さる。
ローズマリーは、やっぱりすごい。
認めたくないが、すごい。
明日菜さんも、その言葉に少し驚いたようだった。
でも、すぐに表情を作り直す。
「ならば、走りなさい。願いを持って。けれど、誰かの心を奪わずに」
拍手が起きた。
審判が旗を振る。
「通過!」
ローズマリーと明日菜さんがステージを降りる。
ローズマリーは余裕の笑みを浮かべているが、明日菜さんは少し頬を赤くしている。
頑張っていた。
それを見て、俺は胸の奥がまた鳴った。
ちりん。
でも、さっきとは違う。
引っ張りたい音ではない。
ただ、見ていたい音だった。
「あやめさん」
「はい」
「俺たちも行きましょう」
「よろしい心構えでございます」
俺たちはステージに上がった。
観客の視線が集まる。
猫耳の観光客たち。
鏡星学園の生徒たち。
玉藻先生のカメラドローン。
愛会長の監視の目。
直樹先輩の「面倒くさそうだな」という視線。
全部が一斉に刺さる。
審判が札を掲げる。
『お題:白薔薇の騎士と、湖の案内人』
俺は一瞬固まった。
「騎士?」
あやめさんが隣で優雅に一礼する。
「光さま。わたくしが案内人を務めます」
「つまり、俺が騎士?」
「他におりません」
「急に責任が重い」
「光さまなら、言葉だけは得意でございましょう」
「だけ?」
「お早く」
観客が待っている。
俺は息を吸った。
騎士。
騎士とは何か。
守る者。
導く者。
願いのために走る者。
いや、いま思いついたことを全部混ぜれば何とかなる。
俺は片膝をつき、片手を胸に当てた。
「湖の案内人よ」
声を張る。
広報補佐の本領発揮だ。
「俺は、白薔薇の騎士。願いを追って、この水上都市へ来た」
あやめさんが静かに答える。
「騎士さま。その願いは、あなたをどこへ導くものでございましょう」
「最初は、誰かに見てほしかった」
自分で言って、少し驚いた。
台詞のつもりだった。
でも、出てきた言葉は本音に近かった。
「勝てば見てもらえる。願えば届く。そう思っていた」
あやめさんの目が、ほんの少し柔らかくなる。
「では、今は?」
「今は」
俺は一瞬、明日菜さんを見た。
彼女はステージ下で、こちらを見ている。
困った顔ではない。
心配そうで、でもちゃんと聞こうとしている顔。
俺は正面を向いた。
「誰かを引っ張るためじゃなく、誰かが走りたい時に、隣を走れる男になりたい」
拍手が起きた。
自分でも少し恥ずかしい。
だが、言ってしまった。
あやめさんは、深く一礼した。
「ならば、走りましょう。騎士さま。願いを奪うためではなく、届けるために」
審判の旗が振られる。
「通過!」
観客の歓声が上がった。
俺はステージを降りながら、顔が熱くなっているのを感じた。
「今の、ちょっとカッコよくなかったですか」
「最後の一言を口に出さなければ、もう少しカッコよかったかと」
「厳しい」
「褒めております」
「どの部分が?」
「半分ほど」
「半分ばっかりだな、この世界」
そこへ、後方から派手な音がした。
ステージ上で、アリス先輩が即興演技をしていた。
お題は『迷子の猫と森の勇者』。
アリス先輩は、迷子の猫役を拒否し、勇者役も拒否し、最終的に「猫を探す神」になっていた。
「迷子なら、世界の方からわたしの前に出てきなさい!」
「演技ってそういうものじゃないだろ!」
パックが叫ぶ。
ステージ横の審判が頭を抱えている。
しかし、観客は大喜びだ。
なぜか通過になった。
鏡星学園は強い。
いや、アリス先輩が強い。
レースはさらに進む。
紅薔薇劇場を抜けると、コースは水路沿いの跳ね橋へ向かう。
ここを越えれば、ゴールのサン・ハルカ広場まではあと少し。
しかし、その跳ね橋が問題だった。
橋が、上がったまま戻っていない。
本来なら、タイミングよく下がる仕掛けらしい。
だが、ハルカの幻実因子と玉藻先生の可学ギミックが共鳴したせいで、橋の両端にある猫像が勝手に踊り続けている。
踊る猫像。
鳴る鈴。
上下に揺れる橋。
水路の向こうに、ゴールへ続く道。
先頭集団が立ち往生していた。
「また猫像か!」
俺は叫んだ。
あやめさんが橋を見上げる。
「通常は、猫像のリズムに合わせて鈴を鳴らすと橋が下がります」
「では鳴らしましょう」
「ただし、今はリズムが暴走しております」
猫像たちは、明らかにおかしなテンポで踊っていた。
右。
左。
回転。
謎のジャンプ。
尻尾振り。
鈴。
鈴。
鈴。
目が追いつかない。
前方で、ローズマリーが日傘を閉じた。
「これは面倒だね」
「どうしますか?」
明日菜さんが聞く。
「踊るしかないかな」
「えっ」
「猫神様の祭りだからね」
ローズマリーは猫像の動きに合わせて、軽くステップを踏んだ。
華麗。
悔しいが、華麗。
猫像の一体が、ローズマリーの動きに反応して、鈴を鳴らした。
橋が少し下がる。
「反応した!」
観客が歓声を上げる。
ローズマリーは明日菜さんへ手を差し出す。
「明日菜くん、いける?」
「は、はい」
二人がステップを合わせる。
猫鈴バンドが光る。
橋がさらに下がる。
俺はそれを見て、感心してしまった。
「すげぇ……」
「光さま、見とれている場合ではございません」
「あやめさん、俺たちも踊るんですか」
「必要なら」
「踊れるんですか」
「メイドのたしなみでございます」
「範囲が広すぎる」
あやめさんが俺の手を取ろうとした、その時だった。
猫像の目が金色に強く光った。
鈴の音が乱れる。
ちりん、ちりん、ちりん。
橋が急に跳ねた。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
ローズマリーと明日菜さんの足元が揺れる。
明日菜さんがバランスを崩した。
ローズマリーがすぐに支えようとする。
だが、同時に猫鈴バンドが強く引っ張られ、二人の足並みがずれた。
ローズマリーの猫耳が、ふわりと頭から外れた。
「あ」
その小さな声は、明日菜さんのものだった。
猫耳は空中を舞い、水路へ落ちた。
ぽちゃん。
観客が息をのむ。
審判の旗が上がった。
「ローズマリーペア、猫耳脱落により失格!」
広場がざわめく。
「ええっ!」
「ローズマリーさまが失格!?」
「そんな!」
ローズマリーは一瞬だけ水路を見た。
それから、小さく笑った。
「やられたね」
余裕の声だったが、少しだけ悔しそうだった。
明日菜さんは顔を青くする。
「ローズマリーさま、私がバランスを崩したから……」
「違うよ。猫神様のいたずらだ」
ローズマリーは明日菜さんの肩に手を置いた。
「でも、ボクたちはここまでだ」
その言葉に、明日菜さんの表情が揺れた。
レースは終盤。
彼女はまだ走れる。
でも、ペアが失格になれば一緒に失格だ。
そのはずだった。
俺がそう思った瞬間、橋の猫像たちが一斉に止まった。
空気が変わる。
水路の上に、金色の光が集まる。
屋根の上でも、橋の上でもなく、今度は跳ね橋の中央。
そこに、羽の生えた小さな猫が姿を現した。
猫神ハルカ。
さっきより少しだけ輪郭がはっきりしている。
でも、まだ半透明で、眠そうで、ふらふらしている。
「えっと」
ハルカは前足で顔を洗った。
「試練です」
突然だった。
観客も参加者も、全員が固まった。
ハルカは続ける。
「願いを叶えたい人と、願いを聞かれる人が、同じ道を走れるか見ます」
その金色の目が、俺を見た。
次に、明日菜さんを見る。
胸が鳴った。
ちりん。
でも、今度は暴走ではなかった。
ハルカの声は小さいのに、橋の上に響く。
「白金光さん」
「はい」
「鈴木明日菜さん」
「は、はい」
「ふたりで走りますか?」
全員が俺を見る。
全員が明日菜さんを見る。
あやめさんも。
ローズマリーも。
那々美さんも。
愛会長も。
玉藻先生でさえ、何も言わなかった。
俺は、心臓が大きく跳ねるのを感じた。
明日菜さんと走れる。
さっき、願いかけたことだ。
でも今は違う。
ハルカは聞いている。
俺だけではなく、明日菜さんにも。
同じ道を走るか。
それは、俺の願いだけでは決められない。
俺は明日菜さんを見た。
明日菜さんは戸惑っていた。
当然だ。
ついさっき、俺の願いに引っ張られかけたばかりなのだから。
俺は一歩下がった。
「明日菜さん」
「はい」
「嫌なら、断ってください」
言った。
言えた。
明日菜さんが目を見開く。
「俺は、走りたいです」
正直に言った。
「でも、明日菜さんが嫌なら、走りません」
心臓がうるさい。
怖い。
断られるのが怖い。
でも、これは明日菜さんが決めることだ。
明日菜さんは、少しの間、俺を見ていた。
それから、ローズマリーを見た。
ローズマリーは穏やかに頷く。
「明日菜くんが決めることだよ」
あやめさんも、静かに俺の猫鈴バンドを外した。
白薔薇保存会のペアとしては、ここで俺を走らせるべきではないのかもしれない。
でも、あやめさんは何も言わなかった。
「光さま」
「はい」
「わたくしは、ここで白薔薇保存会の代表としての役目を終えます」
「え?」
見れば、あやめさんの足首から血がにじんでいた。
さっきの橋の揺れで、足をひねったのだ。
「怪我してるじゃないですか!」
「軽傷でございます」
「軽傷の顔で走ってました!?」
「メイドのたしなみでございます」
「そのたしなみ万能すぎる!」
あやめさんは笑った。
「ですが、この足では終盤の跳ね橋は厳しいでしょう」
「言ってくださいよ!」
「光さまが反省と恋と猫像に忙しそうでしたので」
「すみません!」
「謝罪は結構です」
あやめさんは、明日菜さんを見た。
「鈴木さま。お決めください。走るか、ここで終えるか」
明日菜さんは自分の足元を見た。
彼女の膝にも、擦り傷ができている。
さっきバランスを崩した時にぶつけたのだろう。
痛そうだった。
それでも、明日菜さんは顔を上げた。
「走ります」
小さな声だった。
でも、はっきりしていた。
「わたしも、最後まで走りたいです」
俺の胸が熱くなった。
ハルカが小さく鈴を鳴らす。
ちりん。
俺と明日菜さんの手首に、新しい光の猫鈴バンドが現れた。
今度の光は、金色ではなく、淡い白と赤が混ざった色だった。
俺の願いだけではない。
明日菜さんの意思もそこにある。
そう感じた。
「では」
ハルカは眠そうに言った。
「走ってください」
跳ね橋がゆっくり下がり始める。
ただし、完全には下がらない。
途中で止まった。
橋は斜め。
足場は不安定。
猫像たちはまた踊り始める。
最後の試練、というわけか。
「明日菜さん、行けますか」
「はい」
明日菜さんは頷いた。
しかし、一歩踏み出した瞬間、顔をしかめた。
膝の傷と足首への負担が響いたのだろう。
「無理しないでください」
「大丈夫です。走れます」
彼女はそう言った。
でも、足が少し震えている。
俺は迷った。
レースだ。
勝つには走るしかない。
でも、今の彼女に無理をさせていいのか。
その時、ハルカの言葉が頭をよぎった。
願いを叶えたい人と、願いを聞かれる人が、同じ道を走れるか見ます。
同じ道を走る。
それは、同じ速さで走ることだけじゃない。
相手が遅れたら待つこと。
相手が痛ければ支えること。
相手が走れないなら、どうするか一緒に考えること。
俺は明日菜さんの前でしゃがんだ。
「白金さん?」
「乗ってください」
「えっ?」
「俺が抱えて走ります」
言ってから、顔が熱くなった。
これはかなり大胆な台詞だ。
しかし、今は格好つけている場合ではない。
明日菜さんは驚いている。
「でも、それじゃ白金さんが」
「俺は走れます」
「重いです」
「軽い重いの話じゃありません」
「でも」
俺は振り返った。
「明日菜さんをゴールまで連れていくために走ります」
言った瞬間、自分の中で何かが変わった。
最初の俺なら、きっとこう考えただろう。
明日菜さんを抱えて走れば、いいところを見せられる。
惚れられるかもしれない。
猫神様も認めてくれるかもしれない。
でも今、そこは少し違った。
もちろん、格好よく見られたい気持ちはある。
それは消えない。
俺は白金光だ。
見栄はある。
好かれたい気持ちもある。
でも、それよりも今は。
明日菜さんに、ここで終わってほしくなかった。
彼女が走りたいと言ったから。
最後まで行きたいと言ったから。
その願いを、勝手に奪うのではなく、支えたいと思った。
明日菜さんは、しばらく俺を見ていた。
そして、静かに頷いた。
「お願いします」
「はい」
俺は慎重に、明日菜さんを抱え上げた。
いわゆる横抱きではない。
走るために、できるだけ安定するように支える。
彼女は驚いたように息をのんだが、すぐに俺の肩に手を回した。
近い。
心臓がまたうるさくなる。
しかし、ここで意識しすぎると転ぶ。
それは本当にまずい。
「白金さん」
「はい」
「無理はしないでください」
「それ、俺の台詞です」
明日菜さんが少し笑った。
その笑顔を見て、俺は足に力を込めた。
跳ね橋の向こうで、ローズマリーが叫ぶ。
「光くん!」
「何ですか!」
「落としたら許さないよ!」
「落としません!」
あやめさんも声を張った。
「光さま!」
「はい!」
「白薔薇保存会の名にかけて、無様な転倒は許されません!」
「プレッシャー!」
「ですが」
あやめさんは少しだけ笑った。
「今の光さまなら、走れます」
那々美さんが、コース脇から両手を握って叫ぶ。
「白金くん、明日菜さんを大事に!」
「はい!」
愛会長の声も飛ぶ。
「危険と判断したら、即座に止める」
「止められないように走ります!」
「安全にだ」
「はい!」
直樹先輩がスタッフエリアからぼそっと言った。
「ここで転んだら一生言われるぞ」
「それが一番怖いです!」
ナオキが笑う。
「走れ、白金光!」
美咲も続ける。
「ちゃんと前見て!」
アリス先輩の声。
「派手に行きなさい!」
パックの声。
「派手すぎるな!」
全員うるさい。
でも、不思議と力が湧いた。
俺は斜めになった跳ね橋へ足を踏み出した。
一歩目。
橋が揺れる。
猫像が鈴を鳴らす。
ちりん。
二歩目。
明日菜さんが俺の肩をぎゅっと掴む。
「大丈夫です」
俺は言った。
誰に言ったのかわからない。
明日菜さんにか。
自分にか。
三歩目。
橋がさらに傾く。
猫像たちが踊る。
足元が滑る。
俺は歯を食いしばった。
「白金さん!」
「大丈夫!」
今度ははっきり言った。
「俺、走れます!」
四歩目。
五歩目。
息が苦しい。
腕が重い。
足が震える。
でも、止まらない。
明日菜さんを落とすわけにはいかない。
ここで止まったら、彼女の「走りたい」を途中で終わらせてしまう。
それは嫌だった。
俺が手に入れたいからではない。
彼女をゴールへ連れていきたいからだ。
橋を越えた。
その瞬間、観客から大きな歓声が上がった。
だが、まだ終わりではない。
ゴールのサン・ハルカ広場までは、最後の直線が残っている。
石畳の道。
両側には観客。
白薔薇と紅薔薇の旗。
鐘楼。
ゴールゲート。
その上で、羽の生えた猫のマークが光っている。
俺は走った。
明日菜さんを抱えて。
腕が痛い。
肺が熱い。
猫耳がずれそうになる。
猫鈴バンドが鳴り続ける。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
でも、その音はもう暴走ではなかった。
俺と明日菜さんの距離を測る音。
同じ道を走っていることを知らせる音。
そんなふうに聞こえた。
「白金さん」
明日菜さんが小さく言った。
「はい」
「重くないですか」
「重くないです」
「嘘ですよね」
「少しだけ」
明日菜さんが笑った。
俺も笑った。
「でも、走れます」
ゴールが近づく。
後ろから他の参加者たちの足音が聞こえる。
ナオキと美咲のペアが追い上げている。
アリス先輩とパックも、なぜか石猫たちを引き連れている。
ローズマリーは失格になったはずなのに、コース脇を走って声援を送っている。
あやめさんは足を引きずりながらも、姿勢よく立ってこちらを見ている。
愛会長は端末を見ながら、安全確認を続けている。
那々美さんは祈るように手を握っている。
宙は猫像のそばで、静かに見ている。
人形のアリスが笑う。
「願い、形が変わったナ」
その声が聞こえた気がした。
ゴールゲートの上に、金色の光が集まる。
猫神ハルカが、ふわりと姿を現した。
今度は、さっきよりはっきりしている。
眠そうだけれど、目はちゃんと開いている。
「走ってます」
ハルカが言った。
「ちゃんと、同じ道を」
俺は返事をする余裕がなかった。
でも、足は動いた。
最後の十メートル。
五メートル。
三メートル。
明日菜さんの手が、俺の肩をぎゅっと握る。
「白金さん、あと少し!」
「はい!」
最後の一歩を踏み出した。
ゴールゲートをくぐる。
鈴が鳴った。
これまで聞いたどの鈴よりも大きく、澄んだ音だった。
ちりん。
その音が、水上都市アクアリウムの空へ広がっていく。
俺はゴール直後、膝から崩れそうになった。
それでも、明日菜さんを落とさないように踏ん張った。
スタッフが駆け寄ってくる。
那々美さんも走ってくる。
「白金くん! 明日菜さん!」
「大丈夫……です……」
俺はどうにか答えた。
明日菜さんをそっと降ろす。
彼女は足をついたが、少しふらついた。
俺は慌てて支えた。
「大丈夫ですか」
「はい。……白金さんこそ」
「俺は」
息が切れている。
腕が痛い。
足が震える。
でも。
「大丈夫です」
明日菜さんは俺を見た。
そして、小さく笑った。
「ありがとうございました。最後まで、連れてきてくれて」
その笑顔は、さっきまで俺が欲しがっていた笑顔だった。
でも、今は少し違って見えた。
手に入れた、とは思わなかった。
俺に向けてくれた、と思った。
その違いが、たぶん大事なのだ。
ゴール広場に歓声が満ちる。
誰が一位なのか、正直わからない。
途中で試練が入り、ペアも組み替わり、猫神様まで出てきた。
記録としては、どう処理されるのか不明だ。
鳴海会長が頭を抱えている。
玉藻先生は興奮している。
あやめさんは足を押さえながらも、満足そうに微笑んでいる。
ローズマリーは、失格になった猫耳なしの頭で拍手している。
その拍手は、からかいではなかった。
ちゃんと、認める拍手だった。
そして、ゴールゲートの上。
猫神ハルカが、俺たちを見下ろしていた。
「白金光さん」
呼ばれた。
俺は顔を上げる。
「はい」
「願い、少し見えました」
「俺の願いですか」
「はい」
ハルカは眠そうに、でも柔らかく笑った。
「最初は、好きになってほしい願いでした」
「……はい」
「でも今は、届けたい願いになりました」
胸の奥が、また鳴った。
ちりん。
小さく、でもはっきりと。
俺は明日菜さんを見る。
彼女は俺を見ている。
まだ恋人ではない。
まだ何も始まっていない。
でも、さっきより少しだけ、同じ場所に立っている気がした。
走ったからだ。
同じ道を。
たとえ途中からでも。
猫神ハルカは、ふわりと羽を広げた。
「では、次は願いを聞きます」
その声に、広場が静かになる。
俺の心臓が、また大きく鳴った。
願い。
猫神様に願うこと。
恋愛成就。
運命の後押し。
自然な追い風。
いろいろ考えていた言葉が、頭の中に浮かんでは消える。
でも、今なら少しだけわかる。
俺が本当に願うべきことは、明日菜さんの気持ちを変えることではない。
彼女の心を手に入れることでもない。
きっと。
俺自身が、ちゃんと伝えることだ。
その勇気を、持つことだ。
ただ、その言葉を口にするのは、次の瞬間になりそうだった。
俺は息を整えながら、猫神ハルカを見上げた。
走りきった足が震えている。
でも、逃げるつもりはなかった。




