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第6話 走れ、白金光

 願いを取り消したあとも、レースは終わらなかった。


 むしろ、そこからが本番だった。


 旧市場の石畳を蹴って走り出した瞬間、俺ははっきり理解した。


 爆々ねこレースは、ただの観光イベントではない。


 走れば走るほど、自分の中身が見えてくる。


 息が上がる。


 足が重くなる。


 隣の相手との距離が気になる。


 勝ちたい理由が、少しずつ削られていく。


 最初は、広報のためだった。


 次に、明日菜さんにいいところを見せるためになった。


 その次に、恋愛成就の願いを手に入れるためになった。


 そして、さっき。


 俺は、自分の願いが明日菜さんの気持ちに触れかけたのを見た。


 金色の光の紐。


 猫鈴バンドから伸びた、俺の願い。


 好きになってほしい。


 選んでほしい。


 俺と走ってほしい。


 その全部が、明日菜さんの意思を置き去りにして、彼女へ絡みつこうとしていた。


 思い出すだけで、胸の奥が重くなる。


 俺は、そんなつもりではなかった。


 けれど、そんなつもりではない、という言葉だけでは何も止まらなかった。


 止めたのは、那々美さんの声で、鳴海会長の判断で、ローズマリーの言葉で、そして猫神ハルカの小さな声だった。


 好きにさせる願いは、叶えちゃだめです。


 あの眠そうな猫神様の声が、まだ耳に残っている。


「光さま」


 隣から、姫扇あやめさんの声がした。


「はい」


「足が遅くなっております」


「精神的に反省しているところです」


「反省は走りながらでも可能でございます」


「厳しい」


「レース中ですので」


 あやめさんは相変わらず涼しい顔で走っていた。


 メイド風ガイド服。


 黒猫耳。


 白薔薇のブローチ。


 息ひとつ乱していない。


 俺はというと、猫耳は少しずれ、ケープは肩からずれかけ、額には汗が浮かんでいる。


 絵面だけなら、完全に俺の方が後輩で、あやめさんが引率者だ。


 いや、実際そうかもしれない。


 猫鈴バンドがちりんと鳴る。


 俺とあやめさんをつなぐ光は、さっきより少し落ち着いていた。


 俺の願いが暴走しかけた時のような、金色の強い輝きはない。


 ただ、淡く白く光っている。


「この先は?」


 俺が聞くと、あやめさんは前方を見た。


「旧市場を抜けると、紅薔薇劇場前の即興演技エリア。その後、水路沿いの跳ね橋を渡り、サン・ハルカ広場へ戻ります」


「終盤ですね」


「はい。ですが」


 あやめさんは少しだけ声を落とした。


「今年のレースは、通常の終盤では済まないでしょう」


「でしょうね」


 もう驚かない。


 巨大タコ、逃げる猫パン、自我を持つゴンドラ、踊る猫像、願いの暴走。


 ここまで来て、普通の障害物が出てくる方が逆に怖い。


 旧市場を抜けると、道は少し広くなった。


 赤い布で飾られた石畳の通り。


 その先に、紅薔薇劇場が見える。


 白い外壁と赤い装飾。


 バルコニーの上には、猫神ハルカの像。


 劇場前には小さな仮設ステージが設けられており、そこが次の障害物の会場らしい。


『紅薔薇劇場前・即興演技エリア』


 掲示板にそう書かれている。


 嫌な予感がする。


 即興演技。


 つまり、何かを演じろということだ。


 俺は広報補佐だ。


 人前で笑うことには慣れている。


 だが、即興演技となると別である。


「光さま、顔が逃げています」


「逃げてません」


「声も逃げています」


「精神は少し逃げています」


「戻してください」


「はい」


 前方では、ローズマリーと明日菜さんがすでにステージへ上がっていた。


 ローズマリーは当然のように様になっている。


 猫耳に日傘、祭礼衣装。


 ステージの中央に立つだけで、周囲の空気が劇になる。


 明日菜さんはその隣で、やや緊張した顔をしていた。


 それでも、資料を抱えていた昨日の彼女とは少し違う。


 今は、参加者としてステージに立っている。


 ローズマリーが明日菜さんに何か囁く。


 明日菜さんは戸惑いながらも頷いた。


 審判役の白薔薇保存会スタッフが札を掲げる。


『お題:猫神様に願いを捧げる旅人』


 ローズマリーはすぐに片膝をつき、日傘を置いた。


 明日菜さんは驚いた顔をしたが、すぐに両手を胸の前で組む。


 即興なのに、二人の動きはまとまっていた。


 ローズマリーが、旅人の声で言う。


「湖を渡る猫神よ。僕の願いを聞いてくれ」


 明日菜さんが小さく息を吸う。


「その願いは、あなたひとりのものですか?」


 声は少し震えていた。


 でも、ちゃんと届いた。


「誰かを縛る願いではありませんか?」


 俺の胸が、ちくりと痛んだ。


 明日菜さんの言葉は、即興演技のお題に沿ったものだ。


 でも、さっきの俺の願いにも向いているように聞こえた。


 ローズマリーは一瞬だけ俺の方を見た。


 そして、旅人として答える。


「縛りたいと願ったこともある。振り向いてほしいと願ったこともある。けれど、旅の終わりに持っていけるのは、自分の足と、自分の言葉だけだ」


 観客が静まり返った。


 即興演技のはずなのに、妙に刺さる。


 ローズマリーは、やっぱりすごい。


 認めたくないが、すごい。


 明日菜さんも、その言葉に少し驚いたようだった。


 でも、すぐに表情を作り直す。


「ならば、走りなさい。願いを持って。けれど、誰かの心を奪わずに」


 拍手が起きた。


 審判が旗を振る。


「通過!」


 ローズマリーと明日菜さんがステージを降りる。


 ローズマリーは余裕の笑みを浮かべているが、明日菜さんは少し頬を赤くしている。


 頑張っていた。


 それを見て、俺は胸の奥がまた鳴った。


 ちりん。


 でも、さっきとは違う。


 引っ張りたい音ではない。


 ただ、見ていたい音だった。


「あやめさん」


「はい」


「俺たちも行きましょう」


「よろしい心構えでございます」


 俺たちはステージに上がった。


 観客の視線が集まる。


 猫耳の観光客たち。


 鏡星学園の生徒たち。


 玉藻先生のカメラドローン。


 愛会長の監視の目。


 直樹先輩の「面倒くさそうだな」という視線。


 全部が一斉に刺さる。


 審判が札を掲げる。


『お題:白薔薇の騎士と、湖の案内人』


 俺は一瞬固まった。


「騎士?」


 あやめさんが隣で優雅に一礼する。


「光さま。わたくしが案内人を務めます」


「つまり、俺が騎士?」


「他におりません」


「急に責任が重い」


「光さまなら、言葉だけは得意でございましょう」


「だけ?」


「お早く」


 観客が待っている。


 俺は息を吸った。


 騎士。


 騎士とは何か。


 守る者。


 導く者。


 願いのために走る者。


 いや、いま思いついたことを全部混ぜれば何とかなる。


 俺は片膝をつき、片手を胸に当てた。


「湖の案内人よ」


 声を張る。


 広報補佐の本領発揮だ。


「俺は、白薔薇の騎士。願いを追って、この水上都市へ来た」


 あやめさんが静かに答える。


「騎士さま。その願いは、あなたをどこへ導くものでございましょう」


「最初は、誰かに見てほしかった」


 自分で言って、少し驚いた。


 台詞のつもりだった。


 でも、出てきた言葉は本音に近かった。


「勝てば見てもらえる。願えば届く。そう思っていた」


 あやめさんの目が、ほんの少し柔らかくなる。


「では、今は?」


「今は」


 俺は一瞬、明日菜さんを見た。


 彼女はステージ下で、こちらを見ている。


 困った顔ではない。


 心配そうで、でもちゃんと聞こうとしている顔。


 俺は正面を向いた。


「誰かを引っ張るためじゃなく、誰かが走りたい時に、隣を走れる男になりたい」


 拍手が起きた。


 自分でも少し恥ずかしい。


 だが、言ってしまった。


 あやめさんは、深く一礼した。


「ならば、走りましょう。騎士さま。願いを奪うためではなく、届けるために」


 審判の旗が振られる。


「通過!」


 観客の歓声が上がった。


 俺はステージを降りながら、顔が熱くなっているのを感じた。


「今の、ちょっとカッコよくなかったですか」


「最後の一言を口に出さなければ、もう少しカッコよかったかと」


「厳しい」


「褒めております」


「どの部分が?」


「半分ほど」


「半分ばっかりだな、この世界」


 そこへ、後方から派手な音がした。


 ステージ上で、アリス先輩が即興演技をしていた。


 お題は『迷子の猫と森の勇者』。


 アリス先輩は、迷子の猫役を拒否し、勇者役も拒否し、最終的に「猫を探す神」になっていた。


「迷子なら、世界の方からわたしの前に出てきなさい!」


「演技ってそういうものじゃないだろ!」


 パックが叫ぶ。


 ステージ横の審判が頭を抱えている。


 しかし、観客は大喜びだ。


 なぜか通過になった。


 鏡星学園は強い。


 いや、アリス先輩が強い。


 レースはさらに進む。


 紅薔薇劇場を抜けると、コースは水路沿いの跳ね橋へ向かう。


 ここを越えれば、ゴールのサン・ハルカ広場まではあと少し。


 しかし、その跳ね橋が問題だった。


 橋が、上がったまま戻っていない。


 本来なら、タイミングよく下がる仕掛けらしい。


 だが、ハルカの幻実因子と玉藻先生の可学ギミックが共鳴したせいで、橋の両端にある猫像が勝手に踊り続けている。


 踊る猫像。


 鳴る鈴。


 上下に揺れる橋。


 水路の向こうに、ゴールへ続く道。


 先頭集団が立ち往生していた。


「また猫像か!」


 俺は叫んだ。


 あやめさんが橋を見上げる。


「通常は、猫像のリズムに合わせて鈴を鳴らすと橋が下がります」


「では鳴らしましょう」


「ただし、今はリズムが暴走しております」


 猫像たちは、明らかにおかしなテンポで踊っていた。


 右。


 左。


 回転。


 謎のジャンプ。


 尻尾振り。


 鈴。


 鈴。


 鈴。


 目が追いつかない。


 前方で、ローズマリーが日傘を閉じた。


「これは面倒だね」


「どうしますか?」


 明日菜さんが聞く。


「踊るしかないかな」


「えっ」


「猫神様の祭りだからね」


 ローズマリーは猫像の動きに合わせて、軽くステップを踏んだ。


 華麗。


 悔しいが、華麗。


 猫像の一体が、ローズマリーの動きに反応して、鈴を鳴らした。


 橋が少し下がる。


「反応した!」


 観客が歓声を上げる。


 ローズマリーは明日菜さんへ手を差し出す。


「明日菜くん、いける?」


「は、はい」


 二人がステップを合わせる。


 猫鈴バンドが光る。


 橋がさらに下がる。


 俺はそれを見て、感心してしまった。


「すげぇ……」


「光さま、見とれている場合ではございません」


「あやめさん、俺たちも踊るんですか」


「必要なら」


「踊れるんですか」


「メイドのたしなみでございます」


「範囲が広すぎる」


 あやめさんが俺の手を取ろうとした、その時だった。


 猫像の目が金色に強く光った。


 鈴の音が乱れる。


 ちりん、ちりん、ちりん。


 橋が急に跳ねた。


「危ない!」


 誰かが叫んだ。


 ローズマリーと明日菜さんの足元が揺れる。


 明日菜さんがバランスを崩した。


 ローズマリーがすぐに支えようとする。


 だが、同時に猫鈴バンドが強く引っ張られ、二人の足並みがずれた。


 ローズマリーの猫耳が、ふわりと頭から外れた。


「あ」


 その小さな声は、明日菜さんのものだった。


 猫耳は空中を舞い、水路へ落ちた。


 ぽちゃん。


 観客が息をのむ。


 審判の旗が上がった。


「ローズマリーペア、猫耳脱落により失格!」


 広場がざわめく。


「ええっ!」


「ローズマリーさまが失格!?」


「そんな!」


 ローズマリーは一瞬だけ水路を見た。


 それから、小さく笑った。


「やられたね」


 余裕の声だったが、少しだけ悔しそうだった。


 明日菜さんは顔を青くする。


「ローズマリーさま、私がバランスを崩したから……」


「違うよ。猫神様のいたずらだ」


 ローズマリーは明日菜さんの肩に手を置いた。


「でも、ボクたちはここまでだ」


 その言葉に、明日菜さんの表情が揺れた。


 レースは終盤。


 彼女はまだ走れる。


 でも、ペアが失格になれば一緒に失格だ。


 そのはずだった。


 俺がそう思った瞬間、橋の猫像たちが一斉に止まった。


 空気が変わる。


 水路の上に、金色の光が集まる。


 屋根の上でも、橋の上でもなく、今度は跳ね橋の中央。


 そこに、羽の生えた小さな猫が姿を現した。


 猫神ハルカ。


 さっきより少しだけ輪郭がはっきりしている。


 でも、まだ半透明で、眠そうで、ふらふらしている。


「えっと」


 ハルカは前足で顔を洗った。


「試練です」


 突然だった。


 観客も参加者も、全員が固まった。


 ハルカは続ける。


「願いを叶えたい人と、願いを聞かれる人が、同じ道を走れるか見ます」


 その金色の目が、俺を見た。


 次に、明日菜さんを見る。


 胸が鳴った。


 ちりん。


 でも、今度は暴走ではなかった。


 ハルカの声は小さいのに、橋の上に響く。


「白金光さん」


「はい」


「鈴木明日菜さん」


「は、はい」


「ふたりで走りますか?」


 全員が俺を見る。


 全員が明日菜さんを見る。


 あやめさんも。


 ローズマリーも。


 那々美さんも。


 愛会長も。


 玉藻先生でさえ、何も言わなかった。


 俺は、心臓が大きく跳ねるのを感じた。


 明日菜さんと走れる。


 さっき、願いかけたことだ。


 でも今は違う。


 ハルカは聞いている。


 俺だけではなく、明日菜さんにも。


 同じ道を走るか。


 それは、俺の願いだけでは決められない。


 俺は明日菜さんを見た。


 明日菜さんは戸惑っていた。


 当然だ。


 ついさっき、俺の願いに引っ張られかけたばかりなのだから。


 俺は一歩下がった。


「明日菜さん」


「はい」


「嫌なら、断ってください」


 言った。


 言えた。


 明日菜さんが目を見開く。


「俺は、走りたいです」


 正直に言った。


「でも、明日菜さんが嫌なら、走りません」


 心臓がうるさい。


 怖い。


 断られるのが怖い。


 でも、これは明日菜さんが決めることだ。


 明日菜さんは、少しの間、俺を見ていた。


 それから、ローズマリーを見た。


 ローズマリーは穏やかに頷く。


「明日菜くんが決めることだよ」


 あやめさんも、静かに俺の猫鈴バンドを外した。


 白薔薇保存会のペアとしては、ここで俺を走らせるべきではないのかもしれない。


 でも、あやめさんは何も言わなかった。


「光さま」


「はい」


「わたくしは、ここで白薔薇保存会の代表としての役目を終えます」


「え?」


 見れば、あやめさんの足首から血がにじんでいた。


 さっきの橋の揺れで、足をひねったのだ。


「怪我してるじゃないですか!」


「軽傷でございます」


「軽傷の顔で走ってました!?」


「メイドのたしなみでございます」


「そのたしなみ万能すぎる!」


 あやめさんは笑った。


「ですが、この足では終盤の跳ね橋は厳しいでしょう」


「言ってくださいよ!」


「光さまが反省と恋と猫像に忙しそうでしたので」


「すみません!」


「謝罪は結構です」


 あやめさんは、明日菜さんを見た。


「鈴木さま。お決めください。走るか、ここで終えるか」


 明日菜さんは自分の足元を見た。


 彼女の膝にも、擦り傷ができている。


 さっきバランスを崩した時にぶつけたのだろう。


 痛そうだった。


 それでも、明日菜さんは顔を上げた。


「走ります」


 小さな声だった。


 でも、はっきりしていた。


「わたしも、最後まで走りたいです」


 俺の胸が熱くなった。


 ハルカが小さく鈴を鳴らす。


 ちりん。


 俺と明日菜さんの手首に、新しい光の猫鈴バンドが現れた。


 今度の光は、金色ではなく、淡い白と赤が混ざった色だった。


 俺の願いだけではない。


 明日菜さんの意思もそこにある。


 そう感じた。


「では」


 ハルカは眠そうに言った。


「走ってください」


 跳ね橋がゆっくり下がり始める。


 ただし、完全には下がらない。


 途中で止まった。


 橋は斜め。


 足場は不安定。


 猫像たちはまた踊り始める。


 最後の試練、というわけか。


「明日菜さん、行けますか」


「はい」


 明日菜さんは頷いた。


 しかし、一歩踏み出した瞬間、顔をしかめた。


 膝の傷と足首への負担が響いたのだろう。


「無理しないでください」


「大丈夫です。走れます」


 彼女はそう言った。


 でも、足が少し震えている。


 俺は迷った。


 レースだ。


 勝つには走るしかない。


 でも、今の彼女に無理をさせていいのか。


 その時、ハルカの言葉が頭をよぎった。


 願いを叶えたい人と、願いを聞かれる人が、同じ道を走れるか見ます。


 同じ道を走る。


 それは、同じ速さで走ることだけじゃない。


 相手が遅れたら待つこと。


 相手が痛ければ支えること。


 相手が走れないなら、どうするか一緒に考えること。


 俺は明日菜さんの前でしゃがんだ。


「白金さん?」


「乗ってください」


「えっ?」


「俺が抱えて走ります」


 言ってから、顔が熱くなった。


 これはかなり大胆な台詞だ。


 しかし、今は格好つけている場合ではない。


 明日菜さんは驚いている。


「でも、それじゃ白金さんが」


「俺は走れます」


「重いです」


「軽い重いの話じゃありません」


「でも」


 俺は振り返った。


「明日菜さんをゴールまで連れていくために走ります」


 言った瞬間、自分の中で何かが変わった。


 最初の俺なら、きっとこう考えただろう。


 明日菜さんを抱えて走れば、いいところを見せられる。


 惚れられるかもしれない。


 猫神様も認めてくれるかもしれない。


 でも今、そこは少し違った。


 もちろん、格好よく見られたい気持ちはある。


 それは消えない。


 俺は白金光だ。


 見栄はある。


 好かれたい気持ちもある。


 でも、それよりも今は。


 明日菜さんに、ここで終わってほしくなかった。


 彼女が走りたいと言ったから。


 最後まで行きたいと言ったから。


 その願いを、勝手に奪うのではなく、支えたいと思った。


 明日菜さんは、しばらく俺を見ていた。


 そして、静かに頷いた。


「お願いします」


「はい」


 俺は慎重に、明日菜さんを抱え上げた。


 いわゆる横抱きではない。


 走るために、できるだけ安定するように支える。


 彼女は驚いたように息をのんだが、すぐに俺の肩に手を回した。


 近い。


 心臓がまたうるさくなる。


 しかし、ここで意識しすぎると転ぶ。


 それは本当にまずい。


「白金さん」


「はい」


「無理はしないでください」


「それ、俺の台詞です」


 明日菜さんが少し笑った。


 その笑顔を見て、俺は足に力を込めた。


 跳ね橋の向こうで、ローズマリーが叫ぶ。


「光くん!」


「何ですか!」


「落としたら許さないよ!」


「落としません!」


 あやめさんも声を張った。


「光さま!」


「はい!」


「白薔薇保存会の名にかけて、無様な転倒は許されません!」


「プレッシャー!」


「ですが」


 あやめさんは少しだけ笑った。


「今の光さまなら、走れます」


 那々美さんが、コース脇から両手を握って叫ぶ。


「白金くん、明日菜さんを大事に!」


「はい!」


 愛会長の声も飛ぶ。


「危険と判断したら、即座に止める」


「止められないように走ります!」


「安全にだ」


「はい!」


 直樹先輩がスタッフエリアからぼそっと言った。


「ここで転んだら一生言われるぞ」


「それが一番怖いです!」


 ナオキが笑う。


「走れ、白金光!」


 美咲も続ける。


「ちゃんと前見て!」


 アリス先輩の声。


「派手に行きなさい!」


 パックの声。


「派手すぎるな!」


 全員うるさい。


 でも、不思議と力が湧いた。


 俺は斜めになった跳ね橋へ足を踏み出した。


 一歩目。


 橋が揺れる。


 猫像が鈴を鳴らす。


 ちりん。


 二歩目。


 明日菜さんが俺の肩をぎゅっと掴む。


「大丈夫です」


 俺は言った。


 誰に言ったのかわからない。


 明日菜さんにか。


 自分にか。


 三歩目。


 橋がさらに傾く。


 猫像たちが踊る。


 足元が滑る。


 俺は歯を食いしばった。


「白金さん!」


「大丈夫!」


 今度ははっきり言った。


「俺、走れます!」


 四歩目。


 五歩目。


 息が苦しい。


 腕が重い。


 足が震える。


 でも、止まらない。


 明日菜さんを落とすわけにはいかない。


 ここで止まったら、彼女の「走りたい」を途中で終わらせてしまう。


 それは嫌だった。


 俺が手に入れたいからではない。


 彼女をゴールへ連れていきたいからだ。


 橋を越えた。


 その瞬間、観客から大きな歓声が上がった。


 だが、まだ終わりではない。


 ゴールのサン・ハルカ広場までは、最後の直線が残っている。


 石畳の道。


 両側には観客。


 白薔薇と紅薔薇の旗。


 鐘楼。


 ゴールゲート。


 その上で、羽の生えた猫のマークが光っている。


 俺は走った。


 明日菜さんを抱えて。


 腕が痛い。


 肺が熱い。


 猫耳がずれそうになる。


 猫鈴バンドが鳴り続ける。


 ちりん。


 ちりん。


 ちりん。


 でも、その音はもう暴走ではなかった。


 俺と明日菜さんの距離を測る音。


 同じ道を走っていることを知らせる音。


 そんなふうに聞こえた。


「白金さん」


 明日菜さんが小さく言った。


「はい」


「重くないですか」


「重くないです」


「嘘ですよね」


「少しだけ」


 明日菜さんが笑った。


 俺も笑った。


「でも、走れます」


 ゴールが近づく。


 後ろから他の参加者たちの足音が聞こえる。


 ナオキと美咲のペアが追い上げている。


 アリス先輩とパックも、なぜか石猫たちを引き連れている。


 ローズマリーは失格になったはずなのに、コース脇を走って声援を送っている。


 あやめさんは足を引きずりながらも、姿勢よく立ってこちらを見ている。


 愛会長は端末を見ながら、安全確認を続けている。


 那々美さんは祈るように手を握っている。


 宙は猫像のそばで、静かに見ている。


 人形のアリスが笑う。


「願い、形が変わったナ」


 その声が聞こえた気がした。


 ゴールゲートの上に、金色の光が集まる。


 猫神ハルカが、ふわりと姿を現した。


 今度は、さっきよりはっきりしている。


 眠そうだけれど、目はちゃんと開いている。


「走ってます」


 ハルカが言った。


「ちゃんと、同じ道を」


 俺は返事をする余裕がなかった。


 でも、足は動いた。


 最後の十メートル。


 五メートル。


 三メートル。


 明日菜さんの手が、俺の肩をぎゅっと握る。


「白金さん、あと少し!」


「はい!」


 最後の一歩を踏み出した。


 ゴールゲートをくぐる。


 鈴が鳴った。


 これまで聞いたどの鈴よりも大きく、澄んだ音だった。


 ちりん。


 その音が、水上都市アクアリウムの空へ広がっていく。


 俺はゴール直後、膝から崩れそうになった。


 それでも、明日菜さんを落とさないように踏ん張った。


 スタッフが駆け寄ってくる。


 那々美さんも走ってくる。


「白金くん! 明日菜さん!」


「大丈夫……です……」


 俺はどうにか答えた。


 明日菜さんをそっと降ろす。


 彼女は足をついたが、少しふらついた。


 俺は慌てて支えた。


「大丈夫ですか」


「はい。……白金さんこそ」


「俺は」


 息が切れている。


 腕が痛い。


 足が震える。


 でも。


「大丈夫です」


 明日菜さんは俺を見た。


 そして、小さく笑った。


「ありがとうございました。最後まで、連れてきてくれて」


 その笑顔は、さっきまで俺が欲しがっていた笑顔だった。


 でも、今は少し違って見えた。


 手に入れた、とは思わなかった。


 俺に向けてくれた、と思った。


 その違いが、たぶん大事なのだ。


 ゴール広場に歓声が満ちる。


 誰が一位なのか、正直わからない。


 途中で試練が入り、ペアも組み替わり、猫神様まで出てきた。


 記録としては、どう処理されるのか不明だ。


 鳴海会長が頭を抱えている。


 玉藻先生は興奮している。


 あやめさんは足を押さえながらも、満足そうに微笑んでいる。


 ローズマリーは、失格になった猫耳なしの頭で拍手している。


 その拍手は、からかいではなかった。


 ちゃんと、認める拍手だった。


 そして、ゴールゲートの上。


 猫神ハルカが、俺たちを見下ろしていた。


「白金光さん」


 呼ばれた。


 俺は顔を上げる。


「はい」


「願い、少し見えました」


「俺の願いですか」


「はい」


 ハルカは眠そうに、でも柔らかく笑った。


「最初は、好きになってほしい願いでした」


「……はい」


「でも今は、届けたい願いになりました」


 胸の奥が、また鳴った。


 ちりん。


 小さく、でもはっきりと。


 俺は明日菜さんを見る。


 彼女は俺を見ている。


 まだ恋人ではない。


 まだ何も始まっていない。


 でも、さっきより少しだけ、同じ場所に立っている気がした。


 走ったからだ。


 同じ道を。


 たとえ途中からでも。


 猫神ハルカは、ふわりと羽を広げた。


「では、次は願いを聞きます」


 その声に、広場が静かになる。


 俺の心臓が、また大きく鳴った。


 願い。


 猫神様に願うこと。


 恋愛成就。


 運命の後押し。


 自然な追い風。


 いろいろ考えていた言葉が、頭の中に浮かんでは消える。


 でも、今なら少しだけわかる。


 俺が本当に願うべきことは、明日菜さんの気持ちを変えることではない。


 彼女の心を手に入れることでもない。


 きっと。


 俺自身が、ちゃんと伝えることだ。


 その勇気を、持つことだ。


 ただ、その言葉を口にするのは、次の瞬間になりそうだった。


 俺は息を整えながら、猫神ハルカを見上げた。


 走りきった足が震えている。


 でも、逃げるつもりはなかった。

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