第5話 願いは誰のものか
旧市場は、願いの匂いがする場所だった。
……と、言うと、少し詩的すぎるかもしれない。
正確に言えば、焼きたての猫型パンと、魚介の串焼きと、紅薔薇ジャムと、白薔薇紅茶と、湖水の湿った風と、可学装置が焦げかけたような匂いが混ざっていた。
その上で、空中に光る猫が走り回っている。
願いの匂いと言っても、たぶん許される。
俺と姫扇あやめさんは、猫鈴バンドでつながれたまま旧市場へ飛び込んだ。
石畳の左右に、屋台がずらりと並ぶ。
魚屋。
焼き菓子屋。
猫鈴アクセサリー屋。
白薔薇保存会の土産物屋。
紅薔薇保存会の古書屋台。
そして、それぞれの屋台の上を、金色の光でできた猫たちが跳ね回っていた。
にゃあ。
にゃあ。
にゃあ。
鳴き声まである。
ただの映像ではない。
さっきの踊る猫像や逃げる猫パンと同じく、幻実因子が現実側へにじみ出している。
つまり、かわいい顔をした異常事態だ。
「光さま、左でございます」
あやめさんの声が飛ぶ。
「左?」
俺が振り向く前に、左の屋台から飛び出してきた猫型の光が、俺の顔面めがけて突っ込んできた。
「うおっ!」
避けた。
ギリギリだった。
光の猫は俺の猫耳の先をかすめ、空中でくるりと回って、屋根の上へ逃げていく。
猫耳が一瞬ぐらついた。
「危なっ!」
「猫耳が落ちれば失格でございます」
「わかってます!」
「顔より猫耳を守ってください」
「顔も守らせてください!」
あやめさんは笑顔のまま、迷いなく走る。
俺はその横で、必死に足を動かしていた。
美しい水上都市の観光レースのはずなのに、体感は完全に実戦だ。
借り物競争エリアへ入ると、俺たちの前方に大きな掲示板が立っていた。
『旧市場・借り物競争』
その下に、光る札がいくつも浮かんでいる。
札には、それぞれお題が書かれていた。
『白い薔薇のリボン』
『猫の鈴が三つついたもの』
『紅薔薇の香りがする焼き菓子』
『一緒に走ってくれる相手』
「最後おかしい!」
俺は叫んだ。
あやめさんは冷静に札を見た。
「本来のお題にはございません」
「じゃあ何ですか」
「願望反応で追加された可能性がございます」
「誰の?」
聞いた瞬間、俺の手首の猫鈴バンドが、ちりん、と鳴った。
金色の光が強くなる。
嫌な予感がした。
「……俺ですか?」
「光さま」
あやめさんはにっこり笑った。
「ご自分の胸にお聞きください」
「聞きたくない答えが返ってきそうです」
前方で、ローズマリーと明日菜さんのペアが市場の屋台を抜けていた。
ローズマリーは軽やかに走り、明日菜さんは資料鞄を腰に下げたまま必死についていく。
赤い猫耳が揺れる。
少し乱れた髪。
真剣な顔。
時々、ローズマリーに何か言われて、困ったように返事をする。
その横顔を見た瞬間、俺の胸の中で、また猫鈴が鳴った。
ちりん。
明日菜さんと走れたら。
そんな考えが、勝手に出てきた。
あやめさんと走るのが嫌なわけではない。
むしろ、とても心強い。
心強すぎて、俺が走っているのか引きずられているのか、もはや境界が曖昧だが、とにかく頼れる。
だが。
明日菜さんと走ってみたい。
同じ猫鈴バンドでつながって。
同じ道を走って。
同じ障害物を越えて。
明日菜さんが転びそうになったら、俺が支える。
俺がいいところを見せる。
明日菜さんが俺を見直す。
そして――。
ちりん。
猫鈴バンドが、また鳴った。
今度は、俺の意思とは別に、強く。
周囲の光る猫たちが、いっせいにこちらを見た。
「え」
俺は足を止めかけた。
光の猫たちの目が、金色に光っている。
その視線が、俺の胸の中を覗き込むようだった。
掲示板の札が、音もなく書き換わる。
『一緒に走ってくれる相手』
その文字が揺れる。
次の瞬間、文字が変わった。
『一緒に走りたい相手』
「……」
俺は黙った。
あやめさんも一瞬だけ黙った。
そして、とても丁寧な声で言った。
「光さま」
「はい」
「いま、何をお考えになりましたか」
「広報のことを」
「嘘でございますね」
「明日菜さんと走りたいなと少し」
「正直で結構でございます」
「褒めてます?」
「半分ほど」
「残り半分は?」
「説教でございます」
あやめさんが俺の腕を引いた。
「レース中の願望反応は、猫鈴バンドに影響を与えます。強い願いが出ますと、コースそのものが歪む可能性がございます」
「歪むって」
言い終わる前に、足元の石畳が光った。
市場の道が、ぐにゃりと曲がった。
本当に曲がった。
石畳が水面のように揺れ、前方にいたローズマリーと明日菜さんの姿が、急に近く見える。
距離が縮んだ。
いや、俺たちが近づいたのではない。
道が、近づけた。
「おいおいおい!」
俺は叫んだ。
「願っただけで道が変わるのは反則だろ!」
あやめさんの表情が険しくなる。
「反則というより、危険でございます」
ローズマリーが振り返った。
彼も異変に気づいたらしい。
目が一瞬細くなる。
「光くん!」
「俺じゃありません!」
「いや、たぶんキミだよ!」
「まだ何もしてません!」
「願いは、してる!」
ローズマリーの言葉と同時に、俺の猫鈴バンドから金色の光が伸びた。
光の紐は、あやめさんと俺をつないでいるはずだった。
だが、その上からもう一本、別の細い光が伸びる。
その先は。
明日菜さんの手首。
「え?」
明日菜さんが驚いたように自分の猫鈴バンドを見る。
彼女とローズマリーをつなぐ光に、俺の方から伸びた金色の光が絡みつこうとしていた。
「まずい」
ローズマリーの声が低くなる。
明日菜さんの表情が、困惑から不安へ変わった。
「白金さん……?」
その声を聞いた瞬間、胸が痛くなった。
俺は望んだ。
明日菜さんと走りたいと。
でも、今伸びている光は、明日菜さんの意思を聞いていない。
俺の願いだけで、彼女の猫鈴バンドへ絡みつこうとしている。
これは、まずい。
直感的にわかった。
だけど、同時に、胸の奥で別の声もした。
いいじゃないか。
一緒に走れたら。
彼女がこっちを見てくれたら。
俺の方を選んでくれたら。
ちりん。
猫鈴が鳴る。
市場の光猫たちが、いっせいに俺の周りを回り始めた。
その尾が、願い札のように伸びる。
『見てほしい』
『選んでほしい』
『好きになってほしい』
金色の文字が、空中に浮かんだ。
俺は固まった。
「待て」
自分の声が、少し遠く聞こえた。
「俺、そんな……」
思っていない。
と言い切れなかった。
明日菜さんに見てほしい。
それは思っている。
選んでほしい。
それも、思っている。
好きになってほしい。
それは。
それは、たぶん。
思っている。
だが、文字になって外へ出ると、ひどく生々しかった。
自分の中では、恋とか運命とか後押しとか、きれいな言葉で包んでいたものが、剥き出しの願いとして目の前に浮かんでいる。
好きになってほしい。
その言葉は、明日菜さんの方へ流れようとしていた。
「だめ!」
声が響いた。
那々美さんだった。
救護スタッフ用の腕章をつけた彼女が、コース脇から走り込んでくる。
顔が青ざめている。
普段の控えめな雰囲気とは違う、強い声。
「だめ、それは違います!」
那々美さんが叫ぶと、金色の文字が一瞬揺れた。
俺は振り向く。
「那々美さん……?」
那々美さんは息を切らしながら、それでも前に出た。
「白金くんの気持ちは、白金くんのものです。でも、それを明日菜さんの気持ちにしちゃだめです」
「俺は……」
「好きになってほしいって思うのは、たぶん自然です。でも、それを願いで叶えようとしたら、明日菜さんの気持ちはどこに行くんですか」
言葉が刺さった。
俺は何も言えなかった。
市場の上空で、光の猫たちがざわつく。
にゃあ。
にゃあ。
鳴き声が、責めるようにも、迷うようにも聞こえた。
すぐに別の声が響いた。
「白金!」
鳴海愛会長だった。
彼女はコース脇の管理通路から現れ、片手に小型端末を持っている。
その後ろには椎凪先輩。
愛会長の表情は、はっきりと厳しかった。
「相手の感情を変える願いは止める」
静かだが、強い声。
金色の光が、まるで壁にぶつかったように止まった。
「これは警告だ。君の願いが、明日菜さん本人の意思に干渉しかけている」
「俺は、そんなつもりじゃ」
「つもりがなくても、現象は起きている」
愛会長は明日菜さんを見た。
「鈴木さん、身体に異常は?」
明日菜さんは少し震えながらも頷いた。
「だ、大丈夫です。でも、少し……胸のあたりが、引っ張られるような感じがして」
その言葉で、俺の背中が冷えた。
引っ張られる。
俺の願いが、明日菜さんを引っ張っている。
猫鈴バンドの光が、彼女の手首に絡もうとしている。
それは、俺が望んだ「一緒に走りたい」という願いの形だ。
でも、彼女は望んでいない。
少なくとも、今は困っている。
明日菜さんの顔には、戸惑いと不安が浮かんでいた。
さっきまでの優しい笑顔ではない。
俺を見て、困っている。
俺のせいで。
「……明日菜さん」
俺は声を出した。
だが、何を言えばいいのかわからなかった。
謝るべきだ。
止めるべきだ。
でも、どう止めればいい。
俺の胸の奥では、まだ願いが鳴っている。
見てほしい。
選んでほしい。
好きになってほしい。
それ自体は嘘じゃない。
嘘じゃないから、余計に怖い。
ローズマリーが明日菜さんの前に半歩出た。
日傘は閉じている。
いつもの軽い笑みはない。
「光くん」
声は静かだった。
「願いが雑だって言っただろう」
「……」
「キミの好きは、キミの中にあるうちは自由だ。でも、それを相手の中へ押し込もうとしたら、もう恋じゃない」
その言葉は、那々美さんや愛会長とは別の角度から刺さった。
俺はローズマリーを睨むこともできなかった。
ライバル。
勝手にそう決めた相手。
でも今、彼は明日菜さんを守る側に立っている。
そして、その姿は悔しいくらい自然だった。
あやめさんも俺の横で、厳しい顔をしていた。
「光さま」
「……はい」
「願いは、走る力になります。ですが、他人を引きずる鎖にもなります」
猫鈴バンドが、ちりんと鳴る。
俺とあやめさんをつなぐ光はまだある。
俺から明日菜さんへ伸びた金色の光は、愛会長の端末から発生した制御光に押し止められている。
しかし、完全には消えていない。
まだ、俺の願いがそこにある。
「どうすれば」
声がかすれた。
「どうすれば止まるんですか」
愛会長が答える。
「君が取り消す」
「取り消す?」
「明日菜さんの感情を変えたいという願いを、君自身が否定する」
「俺は……」
否定。
好きになってほしいと思う気持ちを否定するのか。
それは、少し違う気がした。
好きになってほしい。
それは自然な気持ちだと、那々美さんも言った。
でも、それを願いで叶えようとするのが違う。
頭ではわかる。
なのに、心が追いつかない。
好きになってほしい。
でも、変えたくない。
見てほしい。
でも、無理に向かせたくない。
明日菜さんと走りたい。
でも、彼女が望んでいないなら、引っ張ってはいけない。
俺は胸の奥で、初めて自分の願いと向き合った。
そこで、別の音がした。
ちりん。
空から、鈴の音。
市場の屋台の上に、光が集まる。
金色の光猫たちが、くるくる回りながら一点へ集まり、小さな影を作った。
羽の生えた猫。
透明に近い金色の身体。
背中に小さな白い羽。
首には赤い鈴。
ただし、輪郭は揺れていて、まだはっきりしない。
まるで夢の中から半分だけ出てきた存在のようだった。
観客がざわめく。
「猫神様?」
「ハルカさま?」
「本物?」
羽の生えた猫は、屋台の屋根の上でふらふらと立った。
目をこすっている。
寝起きだった。
本当に寝起きの顔だった。
「……にゃ」
小さな声。
その声が、なぜか市場全体に響いた。
見上宙がコース脇でぽつりと言う。
「……来た」
人形のアリスが笑う。
「でも、まだ半分寝てるナ」
玉藻先生の声が管理テントから響く。
『すごいわぁん! 猫神ハルカの顕現反応! まだ不安定だけど、かなり形を持ってる! ああ、触りたい、測りたい、採取したい!』
愛会長が即座に言う。
『玉藻先生、採取は禁止です』
『ちょっとだけ毛を』
『禁止です』
『抜け毛なら?』
『禁止です』
猫神ハルカらしき存在は、ふらふらと俺を見た。
そして、金色の光の紐を見た。
俺から明日菜さんへ伸びている、願いの紐。
ハルカは小さな口を開いた。
「好きにさせる願いは」
声は幼く、眠そうで、それでも不思議と重かった。
「叶えちゃだめです」
市場が静まった。
観客も、参加者も、保存会の人たちも、みんなその小さな猫を見ていた。
ハルカは、前足で目をこすった。
「好きって、誰かの中に勝手に入れるものじゃないです」
俺は、何も言えなかった。
「好きって、自分の中から出すものです」
その言葉は、那々美さんの言葉とも、愛会長の言葉とも、ローズマリーの言葉とも違った。
もっと単純で、もっと根っこにある言葉だった。
好きって、自分の中から出すもの。
俺は、明日菜さんを見た。
明日菜さんはまだ困った顔をしている。
怖がっている、というほどではない。
でも、戸惑っている。
俺の願いが彼女に触れかけたことで、彼女は確かに困っている。
その顔を見て、ようやくわかった。
俺は、彼女に笑ってほしかった。
俺を見て、笑ってほしかった。
でも今、俺がしていることは、彼女を困らせている。
好きになってほしい。
その願いは、俺のものだ。
でも、それを叶える場所は、明日菜さんの心の中ではない。
俺の口だ。
俺の足だ。
俺の行動だ。
たぶん、そういうことなのだ。
「……ごめんなさい」
俺は言った。
声は小さかった。
でも、市場の中でちゃんと響いた。
明日菜さんが俺を見る。
「白金さん」
「俺、明日菜さんと走りたいって思いました」
正直に言った。
逃げずに。
ごまかさずに。
「明日菜さんに見てほしいとも思ったし、選んでほしいとも思ったし、好きになってほしいとも思った」
言葉にすると、死ぬほど恥ずかしい。
観客もいる。
ローズマリーもいる。
あやめさんもいる。
那々美さんも、愛会長もいる。
しかし、言わなければならない。
「でも、それを願いでどうにかするのは、違う」
猫鈴バンドが、ちりんと鳴った。
金色の光が少し弱まる。
「明日菜さんの気持ちは、明日菜さんのものです」
明日菜さんの目が少し揺れた。
「だから、今の願いは取り消します」
俺は自分の手首の猫鈴バンドを見た。
「明日菜さんに好きになってもらう願いは、願いません」
その瞬間、金色の光の紐がほどけた。
明日菜さんの猫鈴バンドへ絡もうとしていた光が、空中でふわりとほどけて、小さな猫の足跡の形になって消えていく。
市場に溜まっていた圧が抜ける。
明日菜さんは胸元に手を当て、ほっと息をついた。
那々美さんも、安心したように肩の力を抜いた。
愛会長は小さく頷いた。
「確認した。干渉反応、低下」
椎凪先輩の声が端末から入る。
『猫鈴バンドの異常接続が解除されました。コースの歪みも収束傾向です』
玉藻先生の声。
『もったいないわぁん、貴重なデータだったのに』
愛会長の声。
『玉藻先生』
『はい、黙ります』
屋台の屋根の上で、猫神ハルカはふらふらしながら、俺を見ていた。
「でも」
ハルカは言った。
「好きって思うのは、だめじゃないです」
俺は顔を上げた。
ハルカは眠そうに目を細める。
「好きって思うのは、その人のものです。言うかどうかも、その人のものです。聞くかどうかも、相手のものです」
「……難しいですね」
俺は正直に言った。
ハルカは小さく頷いた。
「難しいです。カミサマでも、ちょっとむずかしいです」
「神様でも?」
「えっと、いちおうカミサマやってますけど、恋はむずかしいです」
その言い方が妙にゆるくて、市場の空気が少し緩んだ。
観客の中から、誰かが小さく笑う。
明日菜さんも、ほんの少し笑った。
その笑顔を見て、俺は胸が痛くなった。
でも、さっきとは違う痛みだった。
欲しいものを見つけた痛みではなく、自分が間違えかけたことを自覚した痛み。
「白金さん」
明日菜さんが言った。
「はい」
「少し、びっくりしました」
「すみません」
「でも、ちゃんと言ってくれて、ありがとうございます」
それは、許されたということではないのかもしれない。
好きになってもらえたわけでもない。
距離が縮まったのか、逆に少し距離ができたのかも、今はわからない。
でも、明日菜さんは俺を見て、ちゃんとそう言ってくれた。
それだけで、俺は少しだけ救われた。
ローズマリーが横から言った。
「やればできるじゃないか、光くん」
「上から目線ですね、ライバル」
「先輩風だよ」
「同学年では?」
「舞台歴では先輩」
「ずるい」
ローズマリーは笑った。
明日菜さんも少しだけ笑う。
あやめさんが俺の横に戻ってきた。
「光さま」
「はい」
「今の判断は、白薔薇保存会としても評価いたします」
「ありがとうございます」
「ただし」
「ただし?」
「レースはまだ終わっておりません」
その言葉と同時に、旧市場の奥で鐘が鳴った。
レース再開を知らせる合図。
市場の光猫たちが、再び走り出す。
コースの歪みは戻ったが、障害物はまだ続いている。
ハルカの姿は少し薄くなり、屋根の上であくびをした。
「みんな、走ってください」
猫神は眠そうに言う。
「走ると、願いの形がよく見えます」
「俺の願い、もう十分見えましたけど」
「まだです」
ハルカは俺を見た。
金色の目が、ほんの少しだけはっきりした。
「白金光さんの願い、まだ途中です」
名前を呼ばれた。
ぞくりとした。
ハルカの輪郭が風に揺れ、光の粒になって少しずつ薄れていく。
「好きにさせる願いは、叶えちゃだめです」
消えかけながら、ハルカはもう一度言った。
「でも、好きって言う勇気なら……少しだけ、手伝えます」
その言葉を残して、猫神ハルカの姿はふっと消えた。
市場に、また祭りの音が戻ってくる。
歓声。
鈴の音。
屋台の呼び声。
そして、レースの足音。
あやめさんが猫鈴バンドを軽く引いた。
「光さま、参ります」
「はい」
俺は頷いた。
明日菜さんとローズマリーも走り出す準備をしている。
明日菜さんがこちらを見た。
俺は、今度は大げさな笑顔ではなく、普通に頭を下げた。
「すみませんでした」
明日菜さんは少しだけ迷ってから、頷いた。
「はい。……レース、頑張ってください」
「はい」
胸の猫鈴が鳴った。
でも、さっきのように暴れたりはしない。
ちりん、と小さく。
俺だけに聞こえるくらいに。
俺は走り出した。
まだ願いの答えは出ていない。
明日菜さんを好きだという気持ちはある。
好きになってほしいという気持ちも、きっと完全には消えていない。
でも、それを願いで押しつけてはいけない。
それだけは、わかった。
願いは誰のものか。
俺の願いは、俺のもの。
明日菜さんの気持ちは、明日菜さんのもの。
なら、俺が願うべきことは何なのか。
その答えを探すために、俺は再び旧市場の石畳を蹴った。
爆々ねこレースは、まだ中盤。
そして俺の願いも、まだ途中だった。




