第4話 爆々ねこレース、スタート!
レース当日のサン・ハルカ広場は、朝からすでにおかしかった。
いや、お祭りなので賑やかなのは当然だ。
屋台が並び、白薔薇と紅薔薇の旗が揺れ、鐘楼の下には観光客が詰めかけ、ゴンドラ乗り場には長蛇の列ができている。
それはいい。
水上観光都市アクアリウムの最大行事、ハルカ降臨祭の最終日なのだから、盛り上がるのはわかる。
問題は、広場一面が猫耳だったことだ。
出場者も猫耳。
観客も猫耳。
屋台の店員も猫耳。
警備員も猫耳。
鏡星学園の引率教員まで、一部が猫耳をつけている。
しかも、猫耳の種類がやたら多い。
白猫耳、黒猫耳、三毛猫耳、虎柄猫耳、長毛種風のふわふわ猫耳、鈴つき猫耳、発光する猫耳。
誰かが本気を出している。
誰だ。
たぶん観光局と玉藻先生だ。
俺、白金光は、スタートライン近くに設けられた参加者待機エリアで、その光景を見ながら自分に言い聞かせていた。
落ち着け。
これは広報活動だ。
鏡星学園の代表として、水上都市アクアリウムの祭りを盛り上げるための大切な仕事だ。
猫耳は仕事道具。
恥ではない。
むしろ、似合うなら武器だ。
俺は手元の小さな鏡を見た。
頭には白い猫耳。
制服の上に、アクアリウム観光局から支給された短い白いケープ。
胸には鏡星学園代表のバッジ。
悪くない。
かなり悪くない。
正直、猫耳も似合っている。
俺が似合わない装備など、そもそもこの世にあまり存在しないのだ。
だが。
「なぜだろう」
俺は呟いた。
「似合っているのに、負けた気がする」
隣から、姫扇あやめさんの声がした。
「光さま。ご安心ください。負けているのは羞恥心でございます」
「安心できる要素がないですね」
あやめさんは、メイド風ガイド服のまま猫耳をつけていた。
それが、恐ろしく似合っていた。
白いヘッドドレスの上に、黒い猫耳。
胸元には白薔薇のブローチ。
手首には、俺とペアでつながれる猫鈴バンド。
にこやかで上品。
でも、目の奥は完全に勝負師だった。
美しいメイド風ガイドが猫耳をつけている。
それだけなら、観光パンフレットの表紙になってもおかしくない。
ただし、この人はポケットから何を出すかわからない。
昨日の説明で、俺はすでに学んでいた。
姫扇あやめは、見た目で判断してはいけないタイプの人間である。
「光さま、猫耳の角度が少々甘いです」
「角度?」
「勝利を呼び込むには、右耳を二度ほど外側へ」
あやめさんが俺の猫耳を直してくる。
距離が近い。
いい匂いがする。
しかし、あやめさんの手つきは完全にレース前の整備士だ。
ときめきよりも、出走前の馬になった気分が勝る。
「よろしゅうございます」
「俺は競走馬ですか」
「いいえ。鏡星学園代表でございます」
「言い方が丁寧なだけで、圧が変わってません」
「勝っていただきます」
「はい」
逆らえない。
この人の笑顔には、逆らうと何かが起きるという説得力がある。
参加者待機エリアの向こうでは、ローズマリーが観客に手を振っていた。
空色の衣装に、白い日傘。
その頭にも猫耳。
悔しいが、似合う。
猫耳をつけているのに、冗談に見えない。
神話の祭礼劇から抜け出してきたような姿だ。
その隣に、明日菜さんがいる。
紅薔薇保存会のスタッフ用ジャケットに、控えめな赤い猫耳。
派手ではない。
でも可愛い。
可愛いという言葉が静かに似合う。
彼女はローズマリーの猫鈴バンドを確認しながら、時々こちらをちらりと見ている。
目が合った。
明日菜さんが小さく会釈する。
俺は胸を張り、最高の笑顔を返した。
よし。
今日の俺は勝てる。
猫耳で笑顔を返す高校生男子。
客観的に見ると、少し面白いかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
明日菜さんが見ている。
それだけで、走る理由としては十分すぎる。
「白金くん」
背後から、珠瀬那々美さんの声がした。
振り向くと、那々美さんが救護スタッフ用の腕章をつけて立っていた。
隣には鳴海愛生徒会長。
愛会長は、今回も完璧に落ち着いている。
祭り用の小さな猫耳カチューシャを手に持っているが、頭にはつけていない。
さすがだ。
隙がない。
「何ですか、那々美さん」
「レース前に確認です。願い事の件ですけど……」
「わかっています」
俺は真剣な顔で頷いた。
「相手の気持ちを操作する願いはしません」
那々美さんは少し安心した顔をした。
「よかったです」
「俺は、運命の後押しを願います」
「まだちょっと怪しいです」
「では、言い方を変えます。明日菜さんとの未来に向けた自然な追い風を」
「もっと怪しくなりました」
愛会長が静かに言った。
「白金」
「はい」
「恋愛感情の操作は認めない」
「わかっています」
「本人が望まない親密化も認めない」
「わかっています」
「願いの解釈が曖昧な場合、生徒会として介入する」
「猫神様相手にもですか」
「必要なら」
強い。
鳴海愛は、神様相手にも生徒会長として対応するつもりだ。
鏡星学園の生徒会はすごい。
いや、怖い。
愛会長は少しだけ表情を緩めた。
「ただし、君が自分で何かを伝えるための勇気を願うなら、止めない」
那々美さんも頷いた。
「それなら、きっと大丈夫です」
「勇気……」
俺は明日菜さんの方を見た。
明日菜さんはローズマリーと何かを話している。
笑っている。
その笑顔を見て、胸の中の猫鈴がまた鳴った。
勇気を願う。
恋を叶えるのではなく、恋を伝える勇気を願う。
昨日もそんな話をされた。
理屈ではわかる。
だが、俺の中にはまだ、楽をしたい気持ちがある。
神様がいるなら、ちょっとくらい上手くしてくれてもいいじゃないか、という気持ち。
でも、明日菜さんの笑顔を見ると、そこを勝手に変えてしまうのは違う気もする。
難しい。
恋は難しい。
俺は昨日まで、恋をもっと簡単なものだと思っていた。
可愛い。
好き。
告白。
成功。
ハッピー。
しかし、どうやら現実はそんなに一直線ではないらしい。
その時、待機エリアの反対側から騒がしい声が聞こえた。
「妖精に猫耳をつけるなー!」
パックだった。
鏡野アリス先輩に片腕を掴まれ、頭に小さな猫耳をつけられている。
しかも、パックサイズの特注品らしい。
異様に似合っていた。
本人は全力で嫌がっているが、似合っている。
「落ち着きなさい、パック。あなたは妖精でしょ。猫耳くらいで騒がないの」
「妖精だから騒ぐんだよ! 属性が渋滞してるだろ!」
「大丈夫。可愛ければだいたい許されるわ」
「許されない!」
アリス先輩は、自分も堂々と白猫耳をつけていた。
彼女の場合、恥ずかしがる気配が一切ない。
むしろ、「わたしが猫耳をつけることで祭りの格が上がる」とでも思っていそうな顔だ。
アリス先輩は俺を見るなり、満足そうに頷いた。
「白金くん、なかなか似合っているわね」
「ありがとうございます、アリス先輩」
「でも、わたしの方が目立つわ」
「張り合うところですか」
「目立つために出るんでしょう?」
「違います。俺は広報と恋と勝利のために」
「欲張りね」
「人生は欲張った方が勝ちです」
「気に入ったわ」
アリス先輩は笑った。
パックは疲れた顔で言う。
「その考え方、たぶんレース中に痛い目を見るやつだぞ」
「パック。痛い目を見る前に、相手を見るのよ」
「何のアドバイスだよ!」
さらに別の方では、佐藤美咲と時雨ナオキがペア登録をしていた。
ナオキは黒い猫耳をつけている。
かなり似合っている。
美咲はスポーティーな白猫耳。
二人とも動きやすそうな服装に、参加者用のケープを羽織っている。
「ナオキ先輩、似合ってますね」
俺が言うと、ナオキはにやっと笑った。
「ありがとう。私は自分で選んでつけたからな」
少し離れた場所で、時雨直樹が顔をしかめた。
彼はスタッフ腕章をつけ、裏方用のタブレットを持っている。
猫耳はつけていない。
強い意志を感じる。
「直樹もつければいいのに」
ナオキが言う。
「つけない」
「似合うぞ」
「その言葉のあとに『だからつけろ』が続かないなら、許す」
「続けない。自分で選べ」
「選んだ。つけない」
「じゃあ、それでいい」
ナオキはあっさり頷いた。
美咲が少し笑う。
「成長したわね、二人とも」
「誰目線だよ」
直樹がぼそっと言った。
「幼馴染目線」
「強いな、その立場」
直樹は俺の方を見る。
「白金」
「はい」
「逃げるなら今のうちだぞ」
「逃げません」
「玉藻先生が関わってる」
「知っています」
「猫神様も起きかけてる」
「知っています」
「障害物が本気を出すらしい」
「知っています」
「なら、まあ、頑張れ」
「止める気あります?」
「一応止めた。責任は果たした」
冷たい。
だが、直樹先輩らしい。
スタートラインの上には、大きな横断幕が掲げられていた。
『爆々ねこレース』
文字の横には、羽の生えた猫のイラスト。
その下に、小さく注意書き。
『安全第一・願いは自己責任』
願いは自己責任。
重い言葉である。
広場の鐘が鳴った。
カーン。
レース開始まで、あと十分。
参加者たちがスタートラインに集まり始める。
白薔薇保存会の参加者。
紅薔薇保存会の参加者。
観光客ペア。
地元チーム。
鏡星学園組。
全員、猫耳。
全員、猫鈴バンド。
鈴の音があちこちで鳴っている。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
その音が、ただの金属音ではなく、どこか遠くの夢から聞こえてくるように感じた。
広場の中央にある猫像の目が、朝日を受けて金色に光る。
いや。
今のは、本当に朝日の反射か?
見上宙が猫像の前に立っていた。
彼女はレースには参加しない。
記録兼観測係だ。
腹話術人形のアリスを抱え、じっと猫像を見ている。
「……起きてる」
人形のアリスが、にたりと笑った。
「寝ぼけてるナ」
玉藻先生が、スタート付近の機材テントから顔を出した。
白衣の上に、なぜか猫耳。
つけている。
しかも、発光するタイプ。
「皆さぁん、猫鈴バンドの同期を開始するわよぉん」
愛会長が即座に言う。
「玉藻先生、余計な機能は入れていませんね」
「もちろんよぉん」
「本当に?」
「ちょっとだけ演出補助を」
「玉藻先生」
「安全なやつよぉん!」
その瞬間、参加者全員の猫鈴バンドが光った。
白。
赤。
金。
水色。
色とりどりの光が、スタートラインに並ぶ。
観客が歓声を上げた。
「おおー!」
「今年すごい!」
「猫鈴きれい!」
愛会長の顔が少しだけ険しくなる。
椎凪先輩が管理テントで端末を操作している。
「会長、猫鈴バンドに予定外の可学反応があります」
「玉藻先生」
「演出補助よぉん!」
「停止できますか」
「たぶん!」
「たぶんはやめてください」
嫌な予感がする。
かなりする。
だが、もうスタートラインに立っている。
俺の右手首には猫鈴バンド。
そこから伸びる淡い光の紐が、あやめさんの左手首のバンドにつながっている。
普通の紐ではない。
光の鎖のようなものだ。
触れると柔らかいが、一定以上離れると抵抗がある。
「これ、本当に安全ですか」
「安全でございます」
あやめさんは微笑む。
「ただし、光さまが無様に転倒なさらなければ、でございます」
「前提が俺の運動能力に依存している」
「ご安心ください。わたくしが引っ張ります」
「それ、安心ですか?」
「非常に」
不安だ。
ものすごく不安だ。
スタートラインの少し横には、ローズマリーと明日菜さんが立っている。
ローズマリーは余裕の表情。
明日菜さんは少し緊張している。
彼女の頭には赤い猫耳。
手首にはローズマリーとつながる猫鈴バンド。
俺の胸の中で、何かがまた鳴った。
ちりん。
ローズマリーがこちらを見る。
「光くん」
「何ですか」
「転ばないようにね」
「そちらこそ」
「ボクは転んでも絵になるから」
「ずるい」
明日菜さんが困ったように笑う。
「ローズマリーさま、あまり挑発しないでください」
「だって、面白いから」
「面白がらないでください」
明日菜さんがこちらを見る。
「白金さんも、無理はしないでくださいね」
「はい。明日菜さんの声援があれば、俺はどこまでも走れます」
明日菜さんの顔が赤くなる。
那々美さんが遠くから頭を抱えた。
愛会長の視線が刺さる。
俺は咳払いをした。
「安全に、全力で走ります」
それなら問題ないはずだ。
たぶん。
スタート役は、アクアリウム観光局長らしい猫耳の紳士だった。
彼がスタートピストルを空へ向ける。
観客が静まる。
鈴の音も、少しだけ静かになった。
俺は深呼吸した。
勝つ。
広報のため。
鏡星学園のため。
明日菜さんのため。
いや、明日菜さんのためという言い方は少し重い。
明日菜さんにいいところを見せるため。
それなら許されるはずだ。
たぶん。
「位置について」
ピストルが上がる。
「あやめさん」
「何でございましょう」
「俺、勝ちます」
「当然でございます」
冷静な返事。
頼もしい。
怖い。
「よーい」
空気が張り詰める。
猫像の目が、また金色に光った。
「スタート!」
ピストルの音が鳴った。
同時に、銃口から万国旗が飛び出した。
「万国旗!?」
俺は思わず叫んだ。
その瞬間、あやめさんが走り出した。
俺の右腕が強烈に引っ張られる。
「光さま、前を!」
「待って、万国旗に気を取られて!」
「気を取られている場合ではございません!」
俺の身体が前に持っていかれる。
走るというより、引きずられる直前でどうにか足を動かす。
猫鈴バンドがちりんちりん鳴る。
観客の歓声が背後へ流れていく。
爆々ねこレースが始まった。
そして、始まって三秒でわかった。
これは普通のレースではない。
スタート直後、参加者たちが一斉に白薔薇通りへなだれ込む。
狭い石畳の道。
両側には屋台。
上からは白薔薇と紅薔薇の旗。
人、人、人。
猫耳、猫耳、猫耳。
混雑の中で、猫鈴バンドの光が絡み合い、鈴が鳴りまくる。
ちりんちりんちりんちりん。
完全にうるさい。
「道がない!」
俺が叫ぶと、あやめさんは優雅に微笑んだ。
「作ればよろしいのです」
「作る?」
「失礼いたします」
あやめさんは軽く身を沈め、前方の混雑を縫うように走った。
速い。
細い隙間をすり抜け、ぶつかりそうな相手を紙一重で避け、時々肩で押し退ける。
そして俺は、その後ろを強制的に通らされる。
「無理! そこ俺の幅では無理!」
「光さまなら可能でございます!」
「俺への信頼が雑!」
屋台の前で、黒猫耳の大柄な男が進路を塞いだ。
白薔薇保存会のライバルか、ただの参加者かはわからない。
彼はにやりと笑う。
「ここは通さ――」
「通ります」
あやめさんは笑顔のまま、相手の横をするりと抜けた。
と思った瞬間、相手の身体がなぜかくるりと回り、道の端へ移動していた。
何をした。
合気道か。
メイド式護身術か。
「今、何しました?」
「観光地にふさわしい平和的な誘導でございます」
「平和の定義が揺らぐ」
後方から、アリス先輩の声が聞こえた。
「邪魔よ!」
振り返ると、アリス先輩がパックを片手に、群衆を突破していた。
比喩ではない。
本当に突破している。
混雑している道の中央を、堂々と走り、前にいる参加者を避けさせている。
パックは光の紐に引っ張られながら叫んでいた。
「もっと普通に走れ!」
「普通って何? 前に進めば同じでしょ!」
「違う!」
さらに後ろでは、美咲とナオキが息を合わせて走っている。
二人は無駄がない。
美咲が進路を見て、ナオキがタイミングを合わせる。
ナオキは笑っていた。
「思ったより楽しいな!」
「楽しむ余裕あるのすごいわね!」
「直樹が見たら絶対嫌がる!」
「だから裏方なんでしょ!」
その直樹は、コース脇のスタッフエリアでタブレットを持っていた。
俺たちが通り過ぎる瞬間、彼はぼそっと言った。
「もう帰りたい」
「まだ始まったばかりですよ!」
「だからだ」
相変わらずである。
白薔薇通りを抜けると、最初の障害物が見えた。
魚網くぐり。
旧作のような、いや、俺は旧作など知らないが、とにかく祭りらしい障害物だ。
石畳の上に巨大な網が張られていて、その下をペアでくぐる。
網には、魚の形をした飾りが大量についている。
タイ。
ヒラメ。
マグロ。
なぜかマンボウ。
観光イベントとしては、少しシュールだが許容範囲だ。
だが、俺は網を見た瞬間、足を止めかけた。
魚の飾りが動いていたからだ。
「……あれ、本物じゃないですよね」
「本来は装飾でございます」
あやめさんが言う。
「本来は?」
網の中央で、巨大なタコの足がうねった。
観客が歓声を上げる。
「すごい!」
「今年の演出リアル!」
「タコ動いてる!」
「可学?」
タコは、どう見ても装飾ではなかった。
網の下で巨大な赤い身体をくねらせ、参加者たちの進行を妨害している。
ただし、人を傷つけるというより、進路を塞いだり、猫耳を狙ってつついたりしている。
危険だ。
でも、妙にコミカルだ。
玉藻先生の声が、コース脇のスピーカーから響いた。
『あらぁん? 魚網エリアの疑似タコ演出、こんなにリアルにした覚えはないのだけれど』
愛会長の声が続く。
『玉藻先生。説明を』
『たぶん、ハルカの幻実因子と可学ギミックが共鳴してるわぁん』
『たぶんでは困ります』
『かなり共鳴してるわぁん』
『言い換えないでください』
つまり、現実化している。
俺は網の前で立ち尽くした。
「あやめさん」
「はい」
「これ、行くんですか」
「もちろんでございます」
「タコですよ」
「タコでございますね」
「巨大ですよ」
「大きいですね」
「危険では?」
「あれしきの軟体動物に遅れを取る白薔薇保存会ではございません」
「保存会って何でしたっけ」
あやめさんは網へ向かって突っ込んだ。
俺も引っ張られる。
「うわああああ!」
網の下へ滑り込む。
視界が一気に低くなる。
石畳の匂い。
網の繊維。
魚の飾り。
そして、目の前をうねる巨大タコの足。
タコ足が俺の猫耳を狙って伸びてきた。
「猫耳を狙うな!」
「猫耳が脱落すると失格でございます!」
「知ってます!」
あやめさんは片手で網を押し上げ、もう片方の手で俺を引っ張る。
速い。
網くぐりの速度ではない。
ほぼ低空疾走だ。
タコ足が俺たちの進路を塞ぐ。
あやめさんの目が細くなった。
「失礼」
彼女はどこからか取り出した小さな扇子で、タコ足をぴしゃりと叩いた。
タコ足がびくっと引っ込む。
「扇子!?」
「乙女のたしなみでございます」
「乙女のたしなみでタコを退けるな!」
その横を、ローズマリーと明日菜さんが滑るように抜けていった。
ローズマリーは日傘を閉じ、タコ足を優雅にいなしながら進んでいる。
明日菜さんは必死にそれについていく。
「ローズマリーさま、速いです!」
「大丈夫、明日菜くん。タコはリズムで避けるんだ」
「その理屈はわかりません!」
ローズマリーはこちらを見て笑った。
「光くん、遅いよ」
「誰が!」
俺は反射的に加速しようとした。
だが、網の下で頭をぶつけた。
「痛っ!」
「光さま、前だけでなく上もご確認ください」
「低いんですよ!」
後方からアリス先輩の声。
「タコね!」
嫌な予感がした。
アリス先輩は網の下へ入り、巨大タコを見た瞬間、目を輝かせた。
「わかりやすい障害物だわ」
「アリス、やめろ!」
パックが叫ぶ。
アリス先輩はタコ足を両手で掴んだ。
そして、思い切り引っ張った。
巨大タコが網の中でぐるんと回る。
参加者たちが悲鳴を上げる。
網が波打つ。
魚の飾りが飛ぶ。
「物理で突破するなー!」
パックの悲鳴が響いた。
アリス先輩は満足そうに言う。
「突破できたわ」
「他の人も巻き込んでる!」
「細かいことを気にすると、冒険はできないわよ」
「これは観光レースだ!」
混乱の中、俺たちはどうにか魚網エリアを抜けた。
息を整える暇もなく、次の障害物。
パン食い競争。
ただし、普通のパンではない。
猫型のパンが、紐にぶら下がっている。
ここまでは可愛い。
しかし、俺が近づいた瞬間、パンが逃げた。
「逃げた!」
俺は叫んだ。
猫型パンが、紐ごとぴょんと跳ねる。
他のパンも一斉に動き出す。
にゃん、という鳴き声がした。
パンが鳴くな。
「玉藻先生!」
愛会長の声がスピーカー越しに響く。
『パンに自律回避機能を入れましたか』
『入れてないわよぉん。少しだけ揺れる演出は入れたけど』
『少しだけ?』
『噛みつきやすいように』
『それが共鳴しています』
『あらぁん』
猫型パンが俺の前で左右に揺れる。
口で取らなければならない。
手を使うと失格。
しかし、パンは逃げる。
どうしろと。
「あやめさん!」
「光さま、落ち着いてください。獲物の動きを読み、呼吸を合わせるのです」
「パンに獲物とか言いたくない!」
「今です」
あやめさんに頭を押された。
「んがっ!」
俺の顔がパンへ突っ込む。
猫型パンは直前で上へ逃げた。
俺の口は空を噛む。
観客が笑う。
恥ずかしい。
しかし、広報補佐として、笑いもまた仕事。
俺は爽やかに笑った。
「なかなかやるな、猫パン」
「光さま、次で仕留めます」
「仕留めるんですか」
隣では、ローズマリーが猫パンの動きを見切り、優雅にくわえていた。
明日菜さんは少し苦戦している。
彼女の前の猫パンが、ぴょこぴょこ逃げる。
「待ってください……!」
可愛い。
パンに話しかけている明日菜さん、可愛い。
俺は思わず見とれた。
その瞬間、あやめさんが俺の背中を押した。
「光さま、よそ見は命取りでございます」
「命までは取られないでしょう!」
俺の口に、猫パンが突っ込んできた。
「むぐっ!」
取れた。
いや、取らされた。
猫パンの方から俺の口に入った気もする。
もぐもぐしながら、俺は走り出す。
「意外とうまい」
「走りながら感想を言う余裕がおありなら結構です」
次のエリアは、ゴンドラ移動だった。
水路を渡り、反対側の市場へ向かう。
ペアごとに小さなゴンドラへ乗り、指定された橋まで移動する。
ここで少し休める。
そう思った俺が甘かった。
ゴンドラに乗った瞬間、猫鈴バンドが光った。
ゴンドラの先端に飾られた猫像の目が金色に光る。
船頭さんが困った顔をした。
「あれ? 舵が……」
ゴンドラが勝手に進路を変えた。
「え?」
水路を右へ行くはずが、左へ曲がる。
狭い路地水路へ突っ込んでいく。
あやめさんが冷静に言う。
「どうやら、ゴンドラが自我を持ったようでございます」
「そんな冷静に言うことですか!」
前方には、別のゴンドラ。
その上に、アリス先輩とパック。
アリス先輩が船頭の櫂を奪おうとしている。
「貸しなさい! わたしが漕いだ方が速いわ!」
「お客様、危険です!」
「危険なら、より速く抜ければいいのよ!」
「理屈が野蛮!」
パックが叫んでいる。
さらに別の水路から、ナオキと美咲のゴンドラが現れた。
美咲が櫂を持ち、ナオキが進路を見ている。
「右!」
「わかった!」
「いや、ゴンドラが勝手に左!」
「なら左を正解にする!」
「どういうこと!?」
ナオキは楽しそうだった。
完全に順応している。
その向こうでは、ローズマリーと明日菜さんのゴンドラが信じられないほど優雅に進んでいる。
ローズマリーは座ったまま日傘を広げている。
明日菜さんは少し慌てているが、ゴンドラ自体はなぜか美しい曲線で水路を進んでいた。
「なぜあそこだけ絵になる!」
俺は叫んだ。
「ローズマリーさまですので」
あやめさんが淡々と答える。
「理由になってません」
「理由になる方でございます」
ゴンドラは水路を暴走した。
いや、暴走というほど速くはない。
観光ゴンドラらしく優雅な速度ではある。
ただし、進路が勝手に変わる。
橋の下をくぐり、洗濯物の下を通り、猫像の並ぶ細い水路を抜ける。
途中で、干してあった猫耳型タオルが俺の顔に当たった。
「前が見えない!」
「光さま、顔で観光地の洗濯物を受け止めるのも広報でございます」
「そんな広報あるんですか」
「今できました」
どうにか指定の船着き場へたどり着いた時には、俺はすでに少し疲れていた。
だが、レースはまだ序盤。
次のコースは猫像回廊。
石造りの猫像がずらりと並ぶ細い道。
本来は、猫像に隠された文字を探す謎解きエリアらしい。
本来は。
俺たちが回廊へ入った瞬間、猫像が一斉に動いた。
石の猫たちが、首をかくんとこちらへ向ける。
次に、前足を上げる。
そして、踊り始めた。
「猫像が踊ってる!」
俺は叫んだ。
観客が歓声を上げる。
「かわいい!」
「今年の演出すごい!」
「写真撮って!」
可愛いかもしれない。
確かに可愛い。
小さな石猫たちが左右に揺れ、鈴を鳴らし、尻尾を振っている。
だが、問題は道を塞いでいることだ。
石猫たちは、列になってダンスをしながら、参加者の行く手を遮る。
あやめさんは足を止めた。
「これは……」
「どうします?」
「猫の舞には、礼をもって応じるべきでございます」
「礼?」
あやめさんは優雅に一礼した。
すると、目の前の石猫が道を開けた。
「開いた!」
「礼儀は大切でございます」
俺も慌てて頭を下げる。
「失礼します!」
石猫たちが、ちりんと鈴を鳴らした。
道が開く。
俺たちはその間を駆け抜ける。
後方で、アリス先輩が石猫を持ち上げようとしていた。
「どかせば通れるわ」
「礼をしろ礼を!」
パックが叫ぶ。
「わたしに礼をしなさい、猫たち!」
「逆だ!」
石猫たちが一斉にアリス先輩へ飛びかかった。
いや、飛びかかったというより、群がった。
アリス先輩は猫像まみれになりながら笑っている。
「ふふ、いい度胸ね!」
「楽しむな!」
後ろの混乱を聞きながら、俺たちは回廊を抜けた。
広場の歓声は、まだ遠くに聞こえる。
鈴の音。
水音。
猫像の踊る足音。
逃げるパンの鳴き声。
巨大タコのぬめった音。
全部が混ざって、アクアリウムの街全体がレースの舞台になっていた。
そして、その全体を包むように、どこかで小さな猫の鳴き声がする。
にゃあ。
俺は走りながら、ふと空を見上げた。
屋根の上に、小さな影がいた気がした。
羽の生えた猫。
いや、見間違いかもしれない。
朝日の中で、その影はすぐに消えた。
でも、猫鈴バンドが一度だけ強く鳴った。
ちりん。
隣であやめさんが、低く呟いた。
「ハルカさま……」
「見えました?」
「ええ。一瞬だけ」
「本当にいるんですね」
「今年は、かなりはっきりと」
あやめさんの声には、いつもの余裕が少しだけなかった。
その向こうで、ローズマリーがこちらを振り返る。
彼も、いや、彼女も、いや、ローズマリーも、同じものを見たらしい。
日傘を肩に乗せたまま、少し真面目な顔をしている。
「光くん!」
ローズマリーが叫んだ。
「ここから先、願いが強いほどコースが荒れるよ!」
「どういう意味ですか!」
「そのままの意味!」
俺の手首の猫鈴バンドが、また光った。
金色に。
明日菜さんが、前方で振り向く。
彼女の顔には、心配が浮かんでいた。
「白金さん!」
呼ばれた。
それだけで、俺の中の願いが強くなる。
明日菜さんにいいところを見せたい。
勝ちたい。
認められたい。
好きだと言いたい。
でも、好きになってほしいとも思っている。
その気持ちが、猫鈴バンドに流れ込むような感覚がした。
ちりん。
ちりん。
鈴が鳴る。
道の先で、次の障害物が姿を変え始めた。
本来なら、旧市場の借り物競争エリア。
だが、屋台の品物が勝手に浮き上がり、猫の形をした光が市場中を走り回っている。
玉藻先生の声が遠くから聞こえた。
『あらぁん、願望反応が強い参加者がいるわねぇ』
愛会長の声。
『場所は?』
『先頭集団。たぶん、白金くん』
「やっぱり俺ですか!」
俺は走りながら叫んだ。
あやめさんは微笑んだ。
「光さま。願いが強いのは結構でございます」
「結構なんですか!」
「ただし」
彼女は俺の腕を強く引いた。
市場の入口へ向かって加速する。
「願いに飲まれず、足を動かしてください」
次の瞬間、俺たちは光る猫たちが駆け回る旧市場へ飛び込んだ。
爆々ねこレースは、まだ始まったばかりだった。
だが、俺はすでにわかり始めていた。
このレースは、速く走れば勝てるだけの競技ではない。
誰と走るのか。
何を願うのか。
その願いが、本当に自分のものなのか。
猫神ハルカは、たぶんそれを見ている。
湖の上に浮かぶ猫耳だらけの観光都市で。
逃げるパンと、踊る猫像と、巨大タコと、可学ギミックに囲まれながら。
俺はまだ、自分の願いの正体を知らないまま走っていた。




