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第3話 ローズマリーと紅薔薇の代表

 恋というものは、唐突に来る。


 朝の目覚ましみたいに不快な音を立てて来るわけではない。


 廊下の角でぶつかって、パンをくわえた女子と運命的な出会いをするわけでもない。


 湖上観光都市の広場で、猫耳をつけた観光客に囲まれ、メイド風ガイドに爆々ねこレース出場を告げられた直後に、栗色の髪の少女が資料を抱えて駆け寄ってくる。


 そして、こちらを見て、少し困ったように笑う。


 それだけで、胸のどこかに鐘が鳴る。


 カーン。


 サン・ハルカ広場の鐘楼よりも大きく。


 白金光、恋に落ちる。


 俺の人生史に、新しい章が刻まれた瞬間だった。


 ただし、その新章のタイトルは、どうやら「恋の始まり」だけでは済まないらしい。


 なぜなら、その少女――鈴木明日菜さんは、今、俺ではなくローズマリーの横に立っていたからだ。


 サン・ハルカ広場の一角。


 白薔薇と紅薔薇の飾りで彩られた回廊の下に、即席の撮影スペースが設けられている。


 そこに人だかりができていた。


 観光客。


 地元の子ども。


 猫耳をつけたお姉さんたち。


 鏡星学園の生徒たち。


 その中心にいるのが、ローズマリーだった。


 空色の衣装。


 肩にかかる淡い髪。


 白い日傘。


 頭には、祭り用の上品な猫耳。


 猫耳なのに、ふざけて見えない。


 むしろ、そういう衣装として完成している。


 あの猫耳は、俺がつけたらたぶん「広報補佐が身体を張っている」になる。


 ローズマリーがつけると「神話画から出てきた祭礼劇の登場人物」になる。


 ずるい。


 いや、認めない。


 俺も顔なら負けていない。


 たぶん。


 おそらく。


 角度によっては。


「光さま」


 隣から、姫扇あやめさんの声がした。


 相変わらず丁寧で、相変わらず笑顔で、相変わらず目の奥が怖い。


「そのようにローズマリーさまを睨まれますと、観光客の皆さまが誤解なさいます」


「睨んでません。研究です」


「何の研究でございましょうか」


「人気者の立ち居振る舞いについて」


「光さまは十分人気者になれる素質をお持ちです」


「そうでしょう」


「ただし、黙っていれば、でございます」


「最後の条件が重い」


 あやめさんはにこりと笑った。


 褒めているのか貶しているのか、判断が難しい。


 いや、たぶん貶している。


 でも美人に言われると、少しだけ許せる気がする。


 それが男の弱さだ。


 ローズマリーは、観光客の女性に求められてサインを書いていた。


 普通のサインではない。


 猫のイラスト。


 その横に、流れるような筆跡で「Rosemary」と書く。


 さらに、小さな薔薇のマーク。


 それを一息で描く。


 観光客が悲鳴を上げる。


「きゃあ、可愛い!」


「ありがとうございます!」


「明日のレース、応援してます!」


「ありがとう。キミたちの声援があれば、猫神様も起きるかもしれないね」


 ローズマリーが微笑む。


 その瞬間、観光客二人が胸を押さえて後ろによろめいた。


 大げさではない。


 本当に少し倒れかけた。


 すぐに明日菜さんが支える。


「だ、大丈夫ですか?」


「大丈夫です……ローズマリーさまの笑顔が……」


「尊い……」


 何だそれ。


 笑顔で人をよろめかせるとか、反則ではないか。


 俺の笑顔も相当なものだが、今まで人を物理的によろめかせたことはない。


 いや、一度だけある。


 文化祭の受付で営業スマイルをしたら、同級生の妹さんが後ずさって転びかけた。


 あれは照れたのか、引いたのか、今も判定が難しい。


 ローズマリーは観光客を見送り、こちらへ視線を向けた。


 目が合う。


 微笑む。


 その笑みが、なんとなく言っている気がした。


 ――キミ、顔はいいけど、ボクには勝てないよ。


 幻聴かもしれない。


 だが、俺の中のライバルセンサーが反応した。


 こいつは危険だ。


 美しい。


 余裕がある。


 人気がある。


 そして、明日菜さんが横にいる。


 つまり、敵だ。


 いや、まだ敵と決まったわけではない。


 しかし、恋の戦場では、状況判断の遅れが命取りになる。


「白金くん」


 珠瀬那々美さんが、俺の横から心配そうに覗き込んだ。


「今、ものすごく勝手なことを考えていませんか?」


「那々美さん、俺の顔はそんなに読めるのか」


「顔というか、全身から対抗心が出ています」


「対抗心ではない。これは広報精神だ」


「ローズマリーさんを見ながら握り拳を作る広報精神は、たぶん危ないです」


 鳴海愛会長が一歩前に出た。


 彼女は広場の状況を確認しながら、静かに言う。


「白金。ローズマリーはアクアリウム側の重要人物だ。軽率な対抗意識で問題を起こすな」


「起こしません」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんは信用しない」


「努力します」


「努力では足りない」


 愛会長は容赦がない。


 しかし、正しい。


 だから言い返しにくい。


 その時、ローズマリーが日傘を閉じて、こちらへ歩いてきた。


 明日菜さんも後ろに続く。


 明日菜さんは資料を抱え、時々ローズマリーの動線を確保するように周囲へ頭を下げている。


 完全に付き人の動きだ。


 俺の胸に、また小さなもやっとしたものが生まれた。


 明日菜さんが、ローズマリーの横にいる。


 しかも自然に。


 慣れている。


 あの距離感。


 あの連携。


 これはつまり。


 いや、待て白金光。


 まだ何も決まっていない。


 勝手な妄想で勝手に傷つくのは、かなりカッコ悪い。


 俺はカッコ悪い男ではない。


 俺はカッコいい男だ。


 だから、まずは情報収集。


 ローズマリーは俺の前で足を止めた。


「やあ、鏡星学園の広報補佐くん」


「白金光です」


「知っているよ。さっき聞いたから」


「なら名前で呼んでいただいて結構です」


「じゃあ、光くん」


 なぜだ。


 普通に呼ばれただけなのに、少し負けた気がする。


 相手がこちらの懐に入ってくるのが上手い。


 ローズマリーは明日菜さんへ軽く視線を向けた。


「明日菜くん、資料を」


「あ、はい」


 明日菜さんは手元のファイルから一枚の紙を取り出し、ローズマリーに渡した。


 その指先が丁寧で、少し慌てていて、可愛い。


 ローズマリーは紙を受け取らず、俺へ差し出すように顎で示した。


「光くんに」


「はい」


 明日菜さんは俺に資料を差し出した。


「こちら、明日の爆々ねこレースの簡易案内です。白金さんは初参加だと伺いましたので、よかったら確認してください」


「あ、ありがとうございます」


 俺は資料を受け取った。


 指先が触れた。


 一瞬だけ。


 ほんの一瞬だけ。


 だが、俺の心の猫鈴は全力で鳴った。


 ちりんちりんちりんちりん。


 うるさい。


 自分の心がうるさい。


 明日菜さんは少し頬を赤くした。


 俺の気のせいかもしれない。


 気のせいでなければいい。


 いや、気のせいではない。


 たぶん。


「白金さん?」


「はい!」


 声が大きくなった。


 明日菜さんがびくっとする。


「すみません」


「いえ、あの、レースは観光イベントではありますが、コースが長いので無理はしないでください。猫鈴バンドの警告音が鳴った時は、必ずペアと歩調を合わせてくださいね」


「もちろんです。俺は協調性のある男です」


 直樹が後ろで小さく咳をした。


 ナオキが言う。


「今のは疑問形の咳だな」


「俺もそう思った」


「時雨先輩、聞こえてます」


「聞こえるように言った」


 ひどい。


 先輩たちがひどい。


 明日菜さんはそんなやり取りに困ったように笑った。


 それを見て、俺はさらに思った。


 笑顔がいい。


 困った顔もいい。


 この人の笑顔をもっと見たい。


 そのためには、明日のレースで勝つ。


 勝って、猫神ハルカに願う。


 いや、愛会長に釘を刺されたので、言い方には注意する。


 恋愛感情の操作ではない。


 運命の後押しだ。


 もしくは、告白する勇気。


 どちらにするかは、走りながら考える。


 ローズマリーが俺の顔を覗き込んだ。


「また雑な願い方を考えてるね」


「なぜわかる」


「顔」


「俺の顔、セキュリティが甘すぎる」


「キミ、顔はいいけど、願い方が雑だね」


 その言葉は、前にも聞いた気がした。


 いや、昨日も言われた。


 ローズマリーは軽い口調で続ける。


「好きな子ができた。よし、神様に願ってどうにかしてもらおう。そういう顔をしてる」


「そんな単純ではありません」


「違うの?」


「違います」


「じゃあ、どう願うの?」


「それは……」


 俺は言葉に詰まった。


 ここで「明日菜さんと両想いにしてください」と言えば、愛会長に即座に却下される。


 那々美さんにも困った顔をされる。


 明日菜さん本人の前でそんなことを言うのは、さすがに俺でもまずいとわかる。


 だが、ではどう願うのか。


 告白する勇気?


 いや、それではまだ恋が叶ったとは言えない。


 出会いのきっかけ?


 もう出会っている。


 明日菜さんと仲良くなれる機会?


 それは願いとしては少し地味だ。


 俺が考えていると、ローズマリーは肩をすくめた。


「ほら、雑だ」


「うるさいですね」


「怒った?」


「怒ってません。少し、ライバルとして認識しただけです」


「ライバル?」


 ローズマリーが楽しそうに笑った。


「ボクが?」


「そうです」


 俺は指を突きつけた。


 やってしまった。


 だが、もう引けない。


「俺はお前をライバルだと認める!」


 広場の空気が一瞬止まった。


 那々美さんが「ああ……」という顔をした。


 直樹が「言った」と呟いた。


 ナオキが「勢いだけで人生を進めている」と感心した。


 美咲が笑いをこらえている。


 愛会長は目を閉じた。


 あやめさんは、にっこり笑ったまま俺の腕を軽くつねった。


 痛い。


 かなり痛い。


「光さま」


「はい」


「話をややこしくしないでください」


「すみません」


「ローズマリーさまは、アクアリウムにおける重要な祭礼俳優であり、紅薔薇保存会との調整役でもございます。勝手に恋のライバル認定をなさいますと、外交問題になります」


「外交問題になるんですか」


「比喩でございます」


「ですよね」


「半分は」


「半分!?」


 ローズマリーはくすくす笑っていた。


 腹が立つくらい余裕だ。


「いいよ、ライバルで。面白そうだ」


「受けるんですか」


 明日菜さんが困った声を出した。


「ローズマリーさま、あまり白金さんをからかわないでください」


「からかってないよ。光くんは、明日のレースを盛り上げてくれそうだ」


「盛り上げます」


 俺は胸を張った。


「鏡星学園代表として、アクアリウムの祭りを全力で盛り上げます」


「願い目当てで?」


「広報目的です」


「明日菜くんを見ながら言わない方がいい」


「見てません」


「見てるよ」


「見ています」


 正直に言った。


 明日菜さんがさらに困った顔になった。


 ただ、その困り顔も可愛い。


 いけない。


 俺の中の語彙が可愛いに占領されつつある。


 那々美さんがそっと近づいてきた。


「白金くん」


「はい」


「相手が困っている時は、一度落ち着きましょう」


「はい」


「好きだと思う気持ちは悪いことではないです。でも、相手がどう感じているかを見るのも大事です」


 その言葉は、やけに優しかった。


 そして、妙に重かった。


 那々美さんは、たぶんそういうことを一度考えたことがある人なのだろう。


 バレンタインの魔法使い。


 そんな噂を、俺は聞いたことがある。


 魔法で何でもできても、恋だけは魔法ではどうにもならない。


 誰かがそう言っていた。


 俺は少しだけ反省した。


「……すみません、明日菜さん」


 俺が言うと、明日菜さんは驚いたように目を丸くした。


「え?」


「いきなり距離感を間違えました」


「あ、いえ。びっくりはしましたけど……でも、白金さんは素直な方なんですね」


「素直」


 いい言葉だ。


 カッコいいに次いでいい言葉かもしれない。


 直樹が後ろでぼそっと言う。


「勢いが制御されていないだけとも言う」


 ナオキが頷く。


「でも、謝れるのはいいことだ」


「時雨兄妹から評価が分かれた」


 美咲が言った。


「兄妹じゃなくて双子だ」


 直樹が訂正する。


「登録上は妹だ」


 ナオキが言う。


「その話は今やめろ」


 あやめさんが軽く咳払いをした。


「皆さま。そろそろ紅薔薇劇場へご案内いたします。ハルカ降臨祭の歴史資料と、明日のレースで使用される祭礼絵巻の確認が予定されております」


「祭礼絵巻?」


 愛会長が反応した。


「はい。アクアリウム分館で保管されている『ハルカ降臨祭絵巻』の複製展示でございます。ただし、今年は鏡星学園メディアアーカイブとの共同調査のため、一部原本の確認も行います」


 玉藻先生の目が光った。


「あらぁん、原本?」


 愛会長が即座に言う。


「玉藻先生は触らないでください」


「まだ何もしてないわぁ」


「まだ、が不穏です」


「信用がないわぁん」


「あります。警戒対象として」


 昨日も似たような会話を聞いた気がする。


 俺たちは、広場から紅薔薇劇場へ向かうことになった。


 ローズマリーが先頭に立つ。


 あやめさんが鏡星学園組を案内する。


 明日菜さんはその間で、資料を抱えたり、スタッフに指示を出したり、時々ローズマリーの衣装の乱れを直したりしている。


 そのたびに、俺の胸がざわつく。


 嫉妬ではない。


 いや、もう認めよう。


 これは嫉妬だ。


 初対面で嫉妬するのは、だいぶ早い。


 だが恋とは速度違反をするものだ。


 俺は明日菜さんの少し後ろを歩きながら、ローズマリーを睨んだ。


 ローズマリーは振り返らずに言った。


「見すぎだよ、光くん」


「後ろに目があるんですか」


「舞台に立つ人間は、視線に敏感なんだ」


「俺も広報補佐なので視線には敏感です」


「じゃあ、明日菜くんの視線もちゃんと見てあげるといい」


「え?」


 俺は明日菜さんを見る。


 明日菜さんは俺を見て、少し慌てたように視線をそらした。


 顔が赤い。


 これは。


 これは、もしかして。


 いや、決めつけるな。


 でも。


 いやいや。


 俺の中で天使と広報補佐と恋愛暴走機関車が会議を始めた。


 那々美さんが後ろから小声で言う。


「白金くん、また顔がうるさいです」


「俺の顔は今日ずっと喋ってますね」


「はい」


 紅薔薇劇場は、運河沿いに建つ美しい建物だった。


 外壁は白い石と赤い装飾。


 入り口には紅薔薇と猫の紋章。


 上部には小さなバルコニーがあり、そこに猫神ハルカの像が置かれている。


 劇場の前の水路には、赤い布で飾られたゴンドラが並んでいた。


 中に入ると、空気が少し変わった。


 外の祭りの喧騒が遠くなり、かわりに古い木の匂いと、布と紙の匂いがする。


 劇場のロビーには、ハルカ降臨祭の歴史資料が展示されていた。


 古い写真。


 祭礼劇の衣装。


 猫耳の変遷。


 白薔薇保存会と紅薔薇保存会の活動記録。


 そして、ガラスケースの中に置かれた一巻の絵巻。


 『ハルカ降臨祭絵巻』


 墨と淡い色で描かれた古い絵巻だった。


 湖。


 橋。


 猫。


 走る人々。


 空から降りる、羽の生えた小さな猫。


 その猫の周りには、願い札のようなものが舞っている。


 見ていると、少しだけ頭の奥がふわっとした。


 ただの絵なのに、奥行きがある。


 絵の中の水面が揺れたように見えた。


 見上宙が、俺の横で立ち止まる。


「……これ」


 人形のアリスが、かくんと首を傾けた。


「寝床ダ」


「寝床?」


 俺が聞くと、宙は絵巻をじっと見たまま言った。


「……猫神様の」


 玉藻先生が目を輝かせた。


「やっぱり、幻実因子の反応があるわねぇん。すごい、これ原本でしょ? 触っていい?」


「だめです」


 愛会長、あやめさん、明日菜さんが同時に言った。


 玉藻先生は肩を落とした。


「三方向から止められたわぁ」


「日頃の行いです」


 直樹が言う。


「直樹ちゃんに言われると刺さるわぁ」


「刺さってください」


 ローズマリーは絵巻の前に立ち、少しだけ表情を変えた。


 さっきまでの軽い笑みが消える。


 舞台俳優の顔ではなく、祭りを守る人の顔。


「この絵巻には、ハルカ降臨祭の原型が描かれている。人が願いを抱いて走り、猫神ハルカがその願いの形を見る。叶えるのではなく、確かめる」


「確かめる?」


 那々美さんが聞いた。


「その願いが、本当にその人自身の願いかどうか」


 ローズマリーは静かに言った。


「誰かを支配したいだけの願いか。誰かに認められたい願いか。逃げたい願いか。伝えたい願いか。走ると、見えてしまうんだ」


 俺は絵巻を見た。


 走る人々。


 猫神。


 願い札。


 その中に、恋文のようなものを持つ人物も描かれている。


 恋愛成就。


 俺の胸が少し騒いだ。


 だが、ローズマリーの言葉も残っている。


 願いが本当に自分の願いかどうか。


 好きになってもらいたい。


 好きだと言いたい。


 似ているが、違う。


 その違いは、まだ俺の中でうまく整理できていなかった。


 その時だった。


 ガラスケースの中の絵巻が、ふっと光った。


 金色。


 猫の目のような光。


「え?」


 明日菜さんが声を上げる。


 絵巻の中に描かれていた小さな猫の目が、確かに光った。


 次の瞬間、劇場のロビーに飾られていた猫鈴が一斉に鳴った。


 ちりん。


 ちりん。


 ちりん。


 風はない。


 誰も触れていない。


 それなのに、鈴が鳴る。


 展示されていた古い祭礼用の猫耳が、ふわりと揺れた。


 壁に投影されていた祭りの古写真の中で、猫の像だけがこちらを向いたように見えた。


 ロビーの床に描かれた猫の足跡模様が、淡く光る。


「おい」


 直樹が低い声で言った。


「これ、現実化してないか」


 ナオキが頷く。


「少しだけな」


 玉藻先生は目を輝かせた。


「すごいわぁん! 祭礼記録と観光演出と幻実因子が共鳴してる! 絵巻を媒介に、ハルカ降臨祭の物語構造が現実側へ漏れ出して――」


「玉藻先生」


 愛会長の声は静かだった。


 静かすぎて怖い。


「今は喜ぶ場面ではありません」


「でも、研究者としては」


「喜ぶ場面ではありません」


「はい」


 愛会長は絵巻を見つめた。


 その表情に、わずかな緊張があった。


 鳴海愛が不穏な顔をする。


 それだけで、俺の背筋は少し冷えた。


 宙が小さく言った。


「……起きかけてる」


 人形のアリスが続ける。


「猫神様、寝起きが悪いだけじゃナイ。夢を見てるゾ」


「夢?」


 俺は聞き返した。


 アリスは、にたりと笑う。


「誰かの願いが、枕元でうるさいんダ」


 全員の視線が、なぜか俺に集まった。


「待ってください」


 俺は両手を上げた。


「俺ですか?」


 那々美さんが困った顔で言う。


「心当たり、ありますよね?」


「恋は罪じゃない」


 愛会長が言った。


「恋は罪ではない。だが、願い方によっては問題になる」


「まだ願ってません」


 ローズマリーが笑った。


「でも、もう鳴ってる」


 その言葉に呼応するように、俺の近くに飾られていた猫鈴が、ひときわ大きく鳴った。


 ちりん。


 俺は固まった。


 明日菜さんが俺を見ている。


 少し驚いて、少し困って、少しだけ赤い顔で。


 俺は何か言おうとした。


 だが、その前に絵巻の光がふっと消えた。


 鈴の音も止む。


 劇場のロビーに静寂が戻った。


 外の祭りの音だけが、遠くから聞こえる。


 何事もなかったように。


 けれど、誰も何もなかったとは思っていなかった。


 ローズマリーは絵巻を見つめたまま、静かに言った。


「今年のレースは、荒れそうだね」


 あやめさんは、完璧な笑顔のまま答えた。


「光さまには、ぜひとも白薔薇保存会と鏡星学園の名に恥じぬ走りをしていただきます」


「今、だいぶ重いもの背負わされませんでした?」


「お気のせいでございます」


「絶対気のせいじゃない」


 明日菜さんが心配そうに言った。


「白金さん、本当に無理はしないでくださいね」


 その一言で、俺は胸を張った。


「大丈夫です。俺はやる時はやる男です」


 直樹が小さく呟く。


「やらない時は?」


 ナオキが答える。


「たぶん盛大に転ぶ」


「転びません!」


 ローズマリーは日傘を肩に乗せ、俺を見た。


「じゃあ、明日楽しみにしてるよ。ライバルくん」


「望むところです」


 俺は指を突きつけた。


「明日の爆々ねこレース、俺が勝ちます」


「願いのために?」


「広報のために」


「明日菜くんを見ながら言うのは、やっぱりやめた方がいい」


「……勝つために!」


 ごまかした。


 あまりうまくごまかせていない気もする。


 だが、俺の決意は本物だった。


 ローズマリー。


 紅薔薇のスター俳優。


 明日菜さんのそばにいる、余裕たっぷりの美しきライバル。


 そして、猫神ハルカの絵巻。


 起きかけている願いの神様。


 明日のレースは、ただの観光イベントでは終わらない。


 それだけは、俺にもわかった。


 それでも、俺は引かない。


 恋か、広報か、見栄か、願いか。


 自分でも何が一番なのか、まだ少しわからない。


 でも、ひとつだけはっきりしている。


 明日、俺は走る。


 そして、この胸の中でうるさく鳴っている猫鈴の正体を、確かめにいく。

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