表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/8

第2話 願いを叶える猫神様

 水上観光都市アクアリウムは、どこを見ても絵になる街だった。


 赤レンガの屋根。


 白い石橋。


 運河をゆっくり進むゴンドラ。


 窓辺に飾られた花。


 広場の中心に立つ鐘楼。


 水面に映る建物の影。


 そして、猫耳。


 台無しではない。


 台無しではないのだが、視界のあちこちに猫耳があるせいで、俺の感動は頻繁に変な方向へ曲がった。


 壮麗な鐘楼の前で写真を撮る老夫婦が猫耳。


 石橋の上でヴァイオリンを弾く青年が猫耳。


 ゴンドラの船頭さんが猫耳。


 屋台で焼き菓子を売るお姉さんが猫耳。


 警備員も猫耳。


 さらに観光案内の立て看板に描かれた猫まで猫耳をつけている。


 猫に猫耳は必要なのか。


 哲学的な問いだった。


「すごいな……」


 俺は思わずつぶやいた。


「街全体が本気で猫耳だ」


 隣を歩いていた那々美さんが、観光パンフレットを両手で持ちながら頷いた。


「ハルカ降臨祭の期間中は、猫耳をつけるのが伝統らしいです」


「伝統って便利な言葉だよな」


「白金くん、さっきまで可愛い女の人の猫耳を見て、すごく嬉しそうでしたよね」


「伝統は尊重すべきだと思う」


「意見が変わるの早いですね」


「人は美しいものに触れることで成長するんだ」


「たぶん違います」


 那々美さんは困ったように笑った。


 この子は基本的に優しい。


 優しいが、時々さらっと刺してくる。


 鏡星学園の女子は、全体的にそういう傾向がある気がする。


 案内役の姫扇あやめさんは、俺たちの少し前を歩いていた。


 メイド風のガイド服。


 白薔薇のブローチ。


 手には観光ガイド用の小さな旗。


 その旗には、猫の足跡と白薔薇が描かれている。


 あやめさんは姿勢よく歩きながら、流れるように説明を始めた。


「現在、アクアリウムでは一年に一度のハルカ降臨祭が開催されております。水上都市アクアリウムの建設以前から湖周辺に伝わっていた猫神ハルカさまの伝承をもとに、観光文化保存事業として再構成されたお祭りでございます」


 言葉遣いが丁寧すぎて、逆に少し怖い。


 あやめさんは微笑みを崩さない。


「街中に猫の像が多いのも、その伝承に由来しております。ハルカさまは、湖を渡ってくる旅人の願いを聞き、迷った者の道を示す猫神とされております」


「猫神様」


 俺は広場の猫像を見た。


 石造りの猫が、橋の欄干に座っている。


 丸い目。


 少し首を傾げたような姿勢。


 その首にも、小さな赤い鈴がついている。


「その猫神様が、レースの優勝者の願いを叶えるんですよね?」


 俺が聞くと、あやめさんは足を止めて振り返った。


「はい。正確には、ハルカ降臨祭の最終日に行われる爆々ねこレースにおいて、もっとも強い願いを示した者に、ハルカさまが祝福を授けると言われております」


「祝福」


 いい響きだ。


 願いより少し上品で、神秘的で、何となく合法っぽい。


「その祝福で、恋愛成就もできると」


 俺は声を少し低くした。


 大事な話である。


 那々美さんが横で小さく「あっ」と言った。


 あやめさんは微笑む。


「過去の記録には、そのような例もございます」


「ほう」


「ただし、解釈には幅がございます」


「幅?」


「はい。恋人ができた、想いを伝える勇気を得た、失恋を受け入れて次へ進めた、片想いの相手と友人になれた、など、祝福の形は一定ではございません」


「一番目でお願いします」


「白金くん」


 那々美さんが困った顔をした。


「相手の気持ちを変えるのは、やめた方が……」


「変えるんじゃない」


 俺は即座に言った。


「これは、運命の交通整理だ」


「交通整理?」


「俺と明日菜さんの間にある見えない赤信号を、猫神様が青にしてくれるだけだ」


「それ、だいぶ操作っぽいです」


「操作じゃない! 運命の後押しだ!」


 言い切った。


 男には、言い切らねばならない時がある。


 那々美さんはますます困った顔になった。


 その時、背後から静かな声がした。


「白金」


 俺は背筋を伸ばした。


 鳴海愛生徒会長だった。


 愛会長は、いつの間にか俺の後ろに立っていた。


 黒髪。


 凛とした表情。


 落ち着いた立ち姿。


 祭りの浮かれた空気の中でも、彼女だけは生徒会室の空気をまとっている。


「恋愛感情を操作する願いは認めない」


「まだ願ってません!」


「願う予定だった顔をしていた」


「俺の顔、そんなに情報量あります?」


「ある」


 即答された。


 俺は少しだけ傷ついた。


 愛会長はあやめさんへ視線を向ける。


「姫扇さん。爆々ねこレースにおける願望反応について、鏡星学園側へ提出された資料には『祝福は象徴的演出であり、実効的な精神干渉は確認されていない』とありました」


「はい。表向きには、その通りでございます」


「表向きには?」


 愛会長の目が少し細くなる。


 あやめさんは微笑みを崩さない。


「ハルカ降臨祭は、観光イベントであると同時に、古い祭礼の再現でもございます。アクアリウム分館には、祭礼絵巻、観光記録、古い祈願札、上演台本、児童向け絵本など、多数の関連資料が保存されております」


「鏡星学園メディアアーカイブとの共同保管資料ですね」


「はい」


 あやめさんは軽く頭を下げた。


「そのため、まれに説明の難しい現象が発生することがございます」


 俺は愛会長を見た。


 愛会長は眉ひとつ動かさなかった。


 那々美さんは小さくため息をついた。


「やっぱり、そういう場所なんですね……」


 鏡星学園関係者は、説明の難しい現象に対して慣れすぎている。


 俺も慣れつつある。


 慣れたくはない。


 だが、慣れないと生きていけない。


 あやめさんは広場の中央へ俺たちを案内した。


 サン・ハルカ広場。


 大きな石畳の広場で、中央には猫を抱いた少女の像が立っている。


 その背後に、赤レンガの鐘楼。


 広場の周囲には屋台が並び、焼き菓子、猫型クッキー、白薔薇紅茶、紅薔薇ジャム、猫鈴アクセサリーなどが売られている。


 観光客は写真を撮り、子どもは走り回り、猫耳をつけたスタッフが笑顔で案内している。


 明るい。


 賑やか。


 そして、妙に非現実的。


 広場の一角に、大きな案内板があった。


『ハルカ降臨祭 保存会紹介』


 白薔薇保存会。


 紅薔薇保存会。


 その二つの名前が並んでいる。


 あやめさんは旗で案内板を示した。


「アクアリウムの祭礼運営は、主に二つの保存会が担っております。ひとつは、わたくしが所属する白薔薇保存会。観光化、広報、都市イベント運営を主に担当しております」


「観光化推進派、ということですね」


 愛会長が確認する。


「はい。もうひとつは、紅薔薇保存会。祭礼の伝統、古文書、儀礼、古い演目の保存を重視する団体でございます」


「つまり、白薔薇が派手にやりたい側で、紅薔薇が伝統を守りたい側?」


 美咲が言うと、あやめさんはにこりと笑った。


「大まかには、その理解で問題ございません」


「揉めそう」


 直樹がぼそっと言った。


「揉めます」


 あやめさんは即答した。


 笑顔のまま。


 怖い。


「ただし、現在は共同運営体制を取っております。表向きには」


「表向きが多いですね」


 俺が言うと、あやめさんは優雅に微笑んだ。


「文化保存とは、表と裏の折り合いで成り立つものでございます」


「今、かなり怖いこと言いませんでした?」


「気のせいでございます」


 絶対に気のせいではない。


 その時、広場の反対側が少し騒がしくなった。


 観光客の視線がそちらへ集まる。


「ローズマリーさま!」


「今日も素敵!」


「写真お願いします!」


 声援。


 拍手。


 黄色い歓声。


 俺は反射的にそちらを見た。


 人の輪の中心に、一人の人物がいた。


 空色の衣装。


 肩にかかる淡い髪。


 日傘。


 猫耳。


 性別が一瞬わからないほど整った顔立ち。


 その人は、観光客に向かって軽く手を振っていた。


 微笑みだけで周囲の空気がきらきらする。


 俺は思わず言った。


「誰だ、あれ」


 あやめさんの口元が、ほんの少しだけ引きつった。


「あちらは、ローズマリーさま。ハルカ降臨祭の教皇役を務める、祭礼劇のスター俳優でございます」


「教皇役?」


「はい。毎年、ハルカ降臨祭の儀式劇において、猫神ハルカさまを迎える役を務めております。観光客人気は非常に高く、紅薔薇保存会とも関わりが深い方でございます」


 ローズマリーは観光客にサインをしていた。


 サインというか、猫の絵を描いている。


 しかも速い。


 華麗。


 無駄に格好いい。


 俺は少しだけ胸がざわついた。


 これは嫉妬ではない。


 断じて違う。


 ただ、同じ空間にいて、注目を根こそぎ持っていかれる感じがしただけだ。


 つまり嫉妬かもしれない。


「白金くん」


 那々美さんが俺を見る。


「今、対抗心を燃やしてませんか?」


「燃やしてない。広報補佐として、人気者の研究をしているだけだ」


「言い方は便利ですね」


「ありがとう」


「褒めてないです」


 ローズマリーの少し後ろに、明日菜さんがいた。


 先ほど広場で会った、栗色の髪の少女。


 彼女は資料を抱え、少し慌てた様子でローズマリーの対応を補佐している。


 観光客に頭を下げ、サイン待ちの列を整理し、落とし物を拾って持ち主に返している。


 可憐。


 健気。


 完全に俺の心の猫鈴が鳴った。


 ちりん。


 今のは心の音だ。


「明日菜さん……」


 俺がつぶやくと、直樹が横から言った。


「声が気持ち悪い」


「時雨先輩、もう少し言い方を」


「じゃあ、声が恋愛成就に向けて暴走してる」


「余計ひどい」


 ナオキが明日菜さんを見て言う。


「確かに可愛いな」


「だろう!」


 俺は勢いよく振り向いた。


 ナオキは少し引いた。


「食いつきがすごい」


「時雨ナオキ先輩、あなたはわかる人だ」


「でも、本人の気持ちは本人のものだ」


「急に真面目」


「経験者だからな」


 ナオキが直樹をちらりと見た。


 直樹はマフラーに顔を埋めたまま言う。


「俺を見るな」


「見たくなる顔をしてる」


「同じ顔だろ」


「だから面白い」


 この二人は相変わらずだ。


 あやめさんは咳払いをした。


「それでは、爆々ねこレースの説明に移らせていただきます」


 来た。


 爆々。


 俺は背筋を伸ばした。


 広場の案内板が切り替わり、レースコースの地図が表示される。


 アクアリウム全体を大きく一周するコースだった。


 サン・ハルカ広場を出発し、白薔薇通り、水路橋、ゴンドラ乗り場、旧市場、猫像回廊、アーカイブ分館前、紅薔薇劇場、そして再び広場へ戻る。


 観光都市全体を使う、かなり大規模なレースだ。


「爆々ねこレースは、二人一組で行われる障害物形式のレースでございます」


 あやめさんが説明する。


「参加者は猫耳を装着し、ペア同士は猫鈴バンドでつながれます」


「猫鈴バンド?」


 俺が聞くと、あやめさんは小さなリストバンドを取り出した。


 白い革製のように見えるバンド。


 小さな鈴がついている。


 可愛い。


 だが、嫌な予感もする。


「一定距離以上離れると鈴が鳴り、警告が入ります。安全のため、ペアの協力が必要となります」


「手錠じゃないんですね」


 那々美さんが安心したように言った。


「現代の安全基準に合わせております」


 あやめさんは微笑んだ。


「ただし、強い願望反応が発生した場合、バンドが一時的にロックされることがございます」


「それ、手錠では?」


 直樹が言った。


「安全装置でございます」


「言い方を変えた手錠だ」


「気のせいでございます」


「さっきから気のせいが多いな」


 玉藻先生が横から顔を出した。


「大丈夫よぉん。猫鈴バンドはあたしが安全調整してるから」


 全員が黙った。


 愛会長が玉藻先生を見た。


「玉藻先生」


「なぁに?」


「安全調整の仕様書を提出してください」


「さっき出したじゃない」


「補足資料も」


「信用がないわぁん」


「あります。危険予測対象としての信用が」


「前にも言われた気がするわぁ」


 玉藻先生はしょんぼりした。


 だが、猫鈴バンドを見つめる目は楽しそうだった。


 非常に不安である。


 あやめさんは説明を続ける。


「障害物は、観光都市の各施設を利用したものです。水路橋のバランス走行、旧市場の借り物競争、猫像回廊の謎解き、紅薔薇劇場前の即興演技などがございます」


「普通に楽しそうですね」


 那々美さんが言った。


 あやめさんはにこりと笑う。


「はい。通常は」


「通常は?」


「まれに、祭礼反応が高まると、障害物が少々本気を出します」


「障害物が本気を出すって何ですか」


「その時になればわかります」


「わかりたくない」


 直樹が即答した。


 俺も少し同意した。


 だが、俺は出場を決めている。


 男に二言はない。


 たぶん。


 愛会長は冷静に確認を続ける。


「優勝条件は?」


「コースを完走し、最初にサン・ハルカ広場のゴールゲートをくぐったペアが優勝となります。ただし、猫耳の脱落、猫鈴バンドの破損、審判による危険行為判定があった場合は失格です」


「危険行為の基準は?」


「審判が危険と判断した場合です」


「曖昧ですね」


「伝統でございます」


「伝統は免罪符ではありません」


「ごもっともでございます」


 あやめさんは丁寧に頭を下げた。


 言葉は従順なのに、目はまったく折れていない。


 この人、相当強い。


 物理的にも精神的にも。


「光さま」


 あやめさんが俺を見た。


「はい」


「明日のレース、光さまとペアを組ませていただくのは、このわたくしでございます」


「よろしくお願いします」


 俺は丁寧に頭を下げた。


 正直、あやめさんがペアなら心強い。


 なぜなら、さっきから彼女の動きに隙がない。


 ガイドというより、護衛。


 メイドというより、武闘派。


 爆々ねこレースが本当に爆々しても、この人なら何とかしてくれそうだ。


 あやめさんは満足そうに頷いた。


「白薔薇保存会としても、鏡星学園代表の勝利を期待しております」


「任せてください」


「そして、できれば紅薔薇保存会には負けたくございません」


 あやめさんの声が、ほんの少し低くなった。


 広場の気温が二度くらい下がった気がした。


「特に、ローズマリーさまには」


「何か因縁が?」


「ございません」


 即答。


 ただし、目が怖い。


 絶対ある。


 深く聞かない方がいい。


 その頃、ローズマリーがこちらに気づいた。


 人の輪を抜け、日傘を肩に乗せたまま歩いてくる。


 明日菜さんもその後ろについてきた。


 近くで見るローズマリーは、さらに存在感があった。


 綺麗。


 華やか。


 そして、こちらを見透かしてくるような余裕。


「鏡星学園の皆さん、ようこそアクアリウムへ」


 ローズマリーは軽やかに一礼した。


「ボクはローズマリー。ハルカ降臨祭の教皇役を務めている。よろしく」


「白金光です」


 俺は営業スマイルを浮かべる。


 負けてはいけない。


 笑顔で負けるわけにはいかない。


「鏡星学園の広報補佐として、今回の祭りを盛り上げに来ました」


「へえ」


 ローズマリーは俺を見て、少し笑った。


「顔はいいね」


「ありがとうございます」


「でも、願い方は雑そうだ」


「初対面でそこまでわかるんですか」


「顔に出てる」


 また顔。


 俺の顔はそんなに情報を発しているのか。


 明日菜さんが慌ててローズマリーの袖を引いた。


「ローズマリーさま、失礼ですよ」


「ごめんごめん」


 ローズマリーは軽い調子で謝った。


 明日菜さんはこちらに向き直る。


「白金さん、すみません」


「いえ、明日菜さんが謝ることではありません」


 俺は爽やかに言った。


「むしろ、明日菜さんに名前を呼ばれたので、今の失礼は帳消しです」


「えっ?」


 明日菜さんが少し固まった。


 那々美さんが小声で言う。


「白金くん、距離感……」


 愛会長が静かに言う。


「白金」


「はい」


「落ち着け」


「落ち着いています」


「落ち着いている者は、初対面で帳消しなどと言わない」


「勉強になります」


 ローズマリーがくすっと笑った。


「面白いね、キミ」


「俺は面白いだけの男ではありません」


「じゃあ、何?」


「カッコいい男です」


「自分で言うんだ」


「事実なので」


 ローズマリーは、ほんの少し目を細めた。


 挑発しているのか、面白がっているのか、まだわからない。


「明日のレース、出るんだって?」


「出ます」


「願い目当て?」


「祭りを盛り上げるためです」


「ふうん」


「……あと、少しだけ願いも」


 那々美さんがまた額を押さえた。


 ローズマリーは楽しそうに笑う。


「猫神ハルカは、けっこう気まぐれだよ」


「神様とはそういうものでしょう」


「それに、恋愛の願いは難しい」


 俺はぴくりと反応した。


 ローズマリーは日傘をくるりと回す。


「誰かに好きになってもらう願いは、だいたい叶わない。叶ったように見えても、あとでひどい目に遭う。祭礼劇では、そういう話になってる」


「劇では?」


「劇では」


 ローズマリーは明日菜さんをちらりと見た。


 明日菜さんは少しだけ目を伏せる。


「でも、好きだと言う勇気なら、猫神様は貸してくれるかもしれない」


 那々美さんが顔を上げた。


 愛会長もわずかに反応した。


 その言葉には、どこか『バレンタインの魔法使い』の時に聞いた話と同じ響きがあった。


 恋だけは、魔法じゃない。


 たしか、そんな言葉が学園で語られていた。


 俺は少しだけ黙った。


 好きになってもらう願い。


 好きだと言う勇気。


 似ているようで、違う。


 たぶん、ものすごく違う。


 だが、この時の俺はまだ、その違いを深く考えられるほど落ち着いていなかった。


 明日菜さんが目の前にいるからだ。


 人間、運命の相手候補を前にすると、思考力が落ちる。


 これは俺だけのせいではない。


 世界の仕様だ。


「まあ」


 ローズマリーは笑った。


「明日走ればわかるよ。爆々ねこレースは、願いの形が出るから」


「願いの形?」


「その人が何を欲しがっているのか、レース中に見えてくる」


 少し怖いことを言う。


 俺は笑って返した。


「俺の願いはシンプルですから」


「シンプルな願いほど、走ると転ぶんだよ」


「転びません」


「どうかな」


 ローズマリーはひらりと手を振った。


「明日、コースで会おう。白金光くん」


 去り際、明日菜さんがこちらに小さく頭を下げた。


「明日、頑張ってくださいね」


「はい!」


 俺は全力で返事をした。


 明日菜さんは少し驚いたあと、小さく笑って、ローズマリーの後を追っていった。


 その背中を見送りながら、俺は拳を握った。


「勝つ」


 美咲が横から言う。


「動機がわかりやすいね」


「人はわかりやすい方が強い」


 直樹がぼそっと言う。


「わかりやすすぎると転ぶぞ」


「時雨先輩、さっきから不吉なことばかり言ってません?」


「経験上、こういう流れはだいたい転ぶ」


「俺は転びません」


「明日覚えてたら、その言葉を引用する」


 嫌な先輩だ。


 その時、宙が広場の猫像の前に立っているのに気づいた。


 彼女は、猫を抱いた少女の像を見上げていた。


 人形のアリスは、宙の腕の中で石像を睨むように見ている。


 俺たちが近づくと、宙が小さく言った。


「……起きかけてる」


「何が?」


 俺が聞くと、人形のアリスが答えた。


「猫神様、寝起きが悪そうダ」


 広場の喧騒が、一瞬だけ遠ざかった気がした。


 猫像の首についた小さな鈴が、風もないのに揺れた。


 ちりん。


 小さな音。


 それだけで、なぜか背中が少しぞくりとした。


 玉藻先生が目を輝かせる。


「あらぁん、もう反応してる?」


 愛会長が即座に言う。


「玉藻先生、触らないでください」


「まだ触ってないわよぉ」


「まだ、という言い方が不穏です」


「ひどいわぁ」


 那々美さんは猫像を見て、不安そうに眉を下げた。


「本当に、猫神様がいるんでしょうか」


 ローズマリーの言葉が、頭に残っていた。


 願いの形が見える。


 猫神ハルカ。


 恋を叶える神様。


 けれど、恋を操作する神様ではない。


 俺は猫像を見上げた。


 石の猫は、さっきと同じ顔で空を見ている。


 だが、その目の奥に、ほんの一瞬だけ金色の光が灯ったように見えた。


 にゃあ。


 どこかで猫が鳴いた。


 観光客の声に紛れるほど小さいのに、不思議と耳に残った。


 明日のレース。


 猫耳。


 猫鈴バンド。


 白薔薇保存会。


 紅薔薇保存会。


 ローズマリー。


 明日菜さん。


 そして、猫神ハルカ。


 どうやらこの校外研修は、ただの観光では終わらないらしい。


 だが、俺は引かない。


 なぜなら、白金光は一度決めたら走る男だからだ。


 たとえ願いの形が見えるとしても。


 たとえ猫神様の寝起きが悪くても。


 たとえ玉藻先生の可学調整が関わっていても。


 俺は走る。


 そして、願う。


 いや、違う。


 まだ違う。


 鳴海会長に睨まれるので、今はこう言っておこう。


 俺は、運命の後押しを受けるために走るのだ。


 ……操作じゃない。


 本当に、操作じゃない。


 たぶん。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ