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第1話 猫耳の街へようこそ

 湖の上を、列車が走っていた。


 正確に言うと、湖上に敷かれた高架レールの上を走っているだけで、別に列車が水面を滑っているわけではない。


 だが、窓の外に広がる景色は、どう見ても「列車が湖を渡っている」としか言いようがなかった。


 左右いっぱいに広がる水面。


 冬の陽射しを受けて、銀色に光る波。


 遠くに浮かぶ、赤レンガ色の屋根の群れ。


 塔。


 鐘楼。


 白い橋。


 水路。


 観光パンフレットの中に、列車ごと突っ込んだような風景だった。


「ビューティフル……」


 俺は窓際の席で、思わずつぶやいた。


 この場合のビューティフルは、景色に対して言ったものだ。


 断じて、窓ガラスに映った俺の顔に対して言ったものではない。


 まあ、映っている顔もかなりビューティフルなのだが、それは今さら言うまでもない事実なので、わざわざ口に出す必要はない。


 俺の名は白金光。


 鏡星学園高等部一年。


 肩書きは、生徒会広報補佐。


 補佐という響きが少々地味なのは否定しない。


 だが、重要なのは肩書きではない。どう見えるかだ。


 広報。


 つまり、人前に立ち、笑顔を振りまき、学園の魅力を世の中に伝える役目。


 鏡星学園の顔。


 そう言っても過言ではない。


 いや、過言かもしれない。


 だが、俺の笑顔が鏡星学園の印象を少なくとも三割くらい明るくしていることは確かだ。たぶん。きっと。統計はないが、俺の心の中のグラフではそうなっている。


 今回、俺たち鏡星学園の生徒は、校外研修として水上観光都市アクアリウムへ向かっていた。


 目的は、地域文化保存と観光都市運営の見学。


 ついでに、アクアリウム最大の祭りである『ハルカ降臨祭』の取材と広報協力。


 生徒会広報補佐である俺は、当然ながら学園紹介用の撮影やコメント対応を担当する。


 つまり、今日の俺は仕事でここにいる。


 決して観光気分ではない。


 ないのだが。


「いやぁ、これ、普通に観光じゃね?」


 俺が正直な感想を漏らすと、向かいの席に座っていた珠瀬那々美が困ったように笑った。


「白金くん、さっき鳴海先輩に『研修中は遊び気分で浮かれすぎないように』って言われてませんでした?」


「浮かれてはいない。これは広報担当として現地の空気を全身で受け止めているだけだ」


「言い方だけ立派ですね」


「那々美さん、時に人間は言い方で現実を変えられるんだ」


「それ、たぶん玉藻先生の言い訳と同じ系統です」


 少し離れた席で、白衣姿の玉藻妖狐先生がくしゃみをした。


「誰か、あたしの話をしたかしらぁん?」


「してません」


 俺と那々美さんは同時に答えた。


 玉藻先生は、鏡星学園の可学教師である。


 科学ではない。


 可学。


 可能を科学する学問、と本人は言っている。


 正直、何を言っているのかよくわからない。


 だが、玉藻先生が関わると、よくわからないことが実際に起きる。


 去年から今年にかけて、鏡星学園ではいろいろあった。


 図書館の旧書庫にある絵本が現実に干渉したとか。


 バレンタインに魔法みたいな現象が起きたとか。


 時雨直樹が二人に増えたとか。


 全部、噂ではなく、だいたい本当らしい。


 鏡星学園に入学する前の俺なら、そんな話を聞いても「はいはい、都市伝説ね」と笑っていたと思う。


 今は違う。


 俺は笑わない。


 いや、笑うけど、否定はしない。


 なぜなら、鏡星学園はそういう学校だからだ。


 車両の前方では、鳴海愛生徒会長が引率担当の先生と確認をしていた。


 黒髪。


 凛とした立ち姿。


 落ち着いた声。


 同じ高校生とは思えない安定感。


 あの人がいるだけで、事件が起きても何とかなる気がする。


 逆に言えば、あの人がいる場所では事件が起きる気もする。


 生徒会長の隣には、時雨直樹と時雨ナオキが座っていた。


 二人は同じ顔をしている。


 でも、今はもう見間違えない。


 低血圧そうに窓へもたれている方が直樹。


 その隣で、観光パンフレットを興味深そうに読んでいる方がナオキ。


 直樹は首にマフラーを巻き、すでに半分眠っている。


 ナオキはパンフレットの猫耳祭りの写真を見て、少し楽しそうだった。


「直樹、猫耳だって」


「俺はつけない」


「まだ何も言ってない」


「言う前に断る」


「似合いそうだけどな」


「その言葉の扱いには気をつけろ。俺たちはそこから学んだはずだ」


「そうだった。じゃあ言い直す。つけるかどうかは直樹が決めろ」


「つけない」


「即答だな」


「人生には即答すべき場面がある」


 二人の会話を聞いて、近くにいた佐藤美咲が笑っていた。


 あの三人は、前の事件以来、妙に自然に一緒にいる。


 双子、ということになっているらしい。


 細かい事情は知らない。


 いや、少しは知っている。


 だが、知らないふりをするのも広報補佐の仕事である。


 さらに別の座席では、鏡野アリスがパックを窓際に押しつけていた。


「見なさい、パック。水上都市よ。つまり、落ちても水だから安心ね」


「安心なわけあるか! 妖精は水に強くない!」


「大丈夫よ。わたしが助けるわ」


「助ける前提で落とすな!」


 相変わらず勢いがある。


 アリス先輩は、鏡星学園メディアアーカイブの旧書庫で何か大変なことをやらかした人だと聞いている。


 本人はまったく反省していない顔をしている。


 正確には、反省する必要性を世界の方が理解していない、とでも言いたげな顔だ。


 そして、車両の隅に見上宙がいた。


 腹話術人形のアリスを抱え、窓の外をじっと見ている。


 彼女のアリス人形と、鏡野アリス先輩の名前が同じなのは、非常にややこしい。


 人形の方のアリスが、かくん、と首を動かした。


「猫の匂いがするナ」


 俺は思わず振り返った。


「猫?」


 宙は小さく頷いた。


「……猫。でも、本物じゃない」


 人形のアリスが続ける。


「アーカイブの匂いダ。古い紙と、願い事と、観光パンフレットのインク」


「混ざり方が独特すぎる」


 俺が言うと、宙は黙って窓の外を見た。


 その視線の先に、アクアリウムが近づいてくる。


 水上観光都市アクアリウム。


 湖の中央に浮かぶ、人工の水上都市。


 古いヨーロッパ風の街並みを再現した観光都市であり、同時に、鏡星学園メディアアーカイブと提携している文化保存実験都市でもある。


 つまり、美しいだけでは済まない場所だ。


 鏡星学園が関わっている時点で、何かが起きる可能性は高い。


 だが、この時の俺はまだ、そのことを深く考えていなかった。


 なぜなら。


 俺は窓の外の景色に夢中だったからだ。


「いや、本当にすげぇな……」


 列車がゆっくり速度を落とす。


 赤レンガの屋根。


 白い石造りの橋。


 水路を進むゴンドラ。


 広場に立つ鐘楼。


 猫の像。


 旗。


 色とりどりの屋台。


 そして、街のあちこちにいる観光客。


 その頭に。


 猫耳。


「…………」


 俺は目をこすった。


 もう一度見る。


 猫耳。


 おじさんも猫耳。


 おばさんも猫耳。


 子どもも猫耳。


 店員も猫耳。


 ゴンドラを漕いでいる渋い顔のお兄さんも猫耳。


 警備員も猫耳。


 駅のホームで旗を振っている駅員さんも猫耳。


「……なあ、那々美さん」


「はい」


「俺、今、疲れてるのかな」


「どうしてですか?」


「街の人が、だいたい猫耳つけてるように見える」


「見えますね」


「現実か」


「現実です」


「なら、俺はまだ正気か」


「正気かどうかは別問題ですけど」


 列車がアクアリウム中央駅に到着した。


 扉が開く。


 ホームに降りた瞬間、祭りの音が押し寄せてきた。


 鐘の音。


 人の声。


 屋台の呼び込み。


 水路を進むゴンドラの櫂の音。


 遠くから聞こえる楽団の演奏。


 そして、どこからともなく聞こえる猫の鳴き声。


 本物か、スピーカーか、ファントムか。


 今の俺には判断できない。


 駅の天井には、横断幕が張られていた。


『ハルカ降臨祭へようこそ!』


 その横に、猫の足跡マーク。


 さらに、その下に小さく。


『爆々ねこレース開催まで、あと一日!』


「爆々……?」


 俺は足を止めた。


 名前が不穏だ。


 ねこレースはまだいい。


 可愛い。


 爆々とは何だ。


 爆発するのか。


 猫が。


 レースが。


 それとも俺の人生が。


「白金くん、止まらないでください」


 鳴海会長の声がした。


「はい!」


 俺は即座に返事をして歩き出した。


 駅前広場に出ると、アクアリウムの街並みが一気に開けた。


 中央に大きな広場。


 石畳。


 広場の向こうには運河。


 運河の上をいくつもの小さな橋が渡っている。


 その奥に、赤レンガの鐘楼が空へ伸びていた。


 観光パンフレットの写真よりもずっと鮮やかだった。


 風に乗って、甘い焼き菓子の匂いと、湖の水の匂いが混ざってくる。


 街灯には白薔薇と紅薔薇の飾り。


 窓辺には猫の置物。


 街の人々は、色とりどりの猫耳をつけて笑っていた。


 俺は一歩踏み出し、深く息を吸った。


「なるほど」


 隣にいた那々美さんが首を傾げる。


「何がなるほどなんですか?」


「観光都市が俺を歓迎している」


「たぶん鏡星学園全体を歓迎してます」


「広報補佐である俺が代表して受け止めよう」


「調子に乗るの早いですね」


「光くんはいつも早いのね」


 玉藻先生が横から言った。


「でも気をつけてねぇん。アクアリウムは、ただの観光都市じゃないわよぉ」


「玉藻先生が言うと、不安しかないんですけど」


「あらぁ、失礼ねぇ。今回はあたし、安全管理担当なのよぉん」


 周囲の鏡星生たちが一斉にこちらを見た。


 沈黙。


 数秒後、直樹がぼそっと言った。


「終わったな」


「まだ始まってもいませんよ、時雨先輩」


「玉藻先生が安全管理担当って言った時点で、終わりは始まってる」


「名言っぽく言っても嫌な予感しかしないですね」


 鳴海会長が玉藻先生を静かに見た。


「玉藻先生。今回は、許可された機材以外の使用は禁止です」


「わかってるわぁん」


「本当に?」


「もちろんよぉ」


「白衣の内側に隠しているものを全部出してください」


「ええん」


 玉藻先生は白衣の内側から、小型リモコン、謎の発光球、猫型ドローン、折りたたみ式アンテナ、黒いカプセルを取り出した。


 最後の黒いカプセルは何だ。


 聞きたくない。


 鳴海会長は、それらを椎凪先輩に渡した。


「預かってください」


「了解しました」


「ひどいわぁん」


 玉藻先生がしょんぼりする。


 だが、反省している顔ではない。


 たぶんあと三つくらい隠している。


 そう思ったが、俺は黙っていた。


 広報補佐は空気を読む。


 駅前広場では、アクアリウム観光局のスタッフらしき人たちが待っていた。


 その先頭に立っていた女性を見て、俺は一瞬言葉を失った。


 メイドだった。


 いや、メイド風のガイド、というべきか。


 紺色の上品なワンピースに白いエプロン。


 胸元には白薔薇のブローチ。


 頭にはヘッドドレス。


 背筋はまっすぐ。


 髪は黒く、長い。


 表情は優雅。


 雰囲気は丁寧。


 だが、目が鋭い。


 なんというか、笑顔で相手の急所を正確に把握していそうな人だった。


 女性は鳴海会長に丁寧に一礼した。


「鏡星学園の皆さま。水上観光都市アクアリウムへようこそお越しくださいました。わたくし、アクアリウム観光局および白薔薇保存会の案内担当を務めております、姫扇あやめと申します」


 声は澄んでいた。


 丁寧で、落ち着いている。


 そして、なぜか俺の方を見た。


「白金光さまでいらっしゃいますね」


「はい?」


 俺は背筋を伸ばした。


 反射的に営業スマイルを浮かべる。


「ええ、鏡星学園生徒会広報補佐、白金光です。今日はアクアリウムの魅力を、俺の笑顔で全国に――」


「光さまには、鏡星学園代表として爆々ねこレースに出場していただきます」


「――広め……え?」


 言葉が止まった。


 周囲も止まった。


 那々美さんが目を丸くする。


 美咲が「出た」と呟く。


 直樹が「ご愁傷さま」と言う。


 ナオキが面白そうにこちらを見る。


 アリス先輩は腕を組んだ。


「あら、楽しそうじゃない」


 パックが叫ぶ。


「どこがだ!」


 俺は姫扇あやめさんを見た。


 あやめさんは完璧な笑顔のままだ。


「すみません。今、何と?」


「光さまには、鏡星学園代表として爆々ねこレースに出場していただきます」


「聞き間違いじゃなかった」


「はい」


「俺が?」


「はい」


「レースに?」


「はい」


「爆々ねこレースに?」


「はい」


「猫耳をつけて?」


「もちろんでございます」


「無理です」


 俺は即答した。


 ここは即答すべき場面だった。


 名前からして危険だ。


 猫耳はまあ、百歩譲ってまだいい。


 いや、よくないが、俺なら似合うだろう。


 そこは問題ではない。


 問題は、爆々だ。


 爆々という言葉に安全な響きはない。


 さらに、玉藻先生が安全管理担当。


 これ以上の危険信号があるか。


「俺は広報補佐です。走る担当ではなく、笑顔で手を振る担当です」


「笑顔で手を振りながら走れば問題ございません」


「あります」


「光さまの爽やかな笑顔は、アクアリウムの観光映像にも映えると伺っております」


「それは否定しません」


「否定しないんだ」


 那々美さんが小声で言った。


「ですが、出ません」


 俺はきっぱり言った。


 こういう時の俺は意外と強い。


 流される時は流されるが、危険の匂いがする時はちゃんと拒否する。


 あやめさんは少しだけ目を細めた。


「そうでございますか」


「そうです」


「優勝者には、猫神ハルカさまが願いを叶えてくださると言われておりますが」


「願い?」


 俺は反応した。


 よくない。


 自分でもわかった。


 これは罠だ。


 だが、男には罠だと知っていても聞かねばならない時がある。


「どんな願いでも?」


 あやめさんは優雅に微笑む。


「範囲はございますが、過去には恋愛成就を願った方もいらっしゃいます」


「恋愛成就」


 その四文字が、俺の胸に突き刺さった。


 いや、まだ俺には関係ない。


 なぜなら、今この時点では恋をしていないからだ。


 相手がいない。


 だから関係ない。


 そう思った瞬間だった。


 広場の向こうから、一人の少女が歩いてきた。


 栗色の髪を後ろでまとめ、眼鏡の奥に大きな瞳。


 白いブラウスに、赤いリボン。


 手には祭りの資料。


 少し慌てた様子でこちらへ駆け寄ってくる。


「あやめさん、すみません。紅薔薇保存会側の資料が一部、まだ――」


 少女の声が、途中で止まった。


 俺と目が合ったからだ。


 時間が止まった。


 たぶん、止まった。


 少なくとも俺の中では止まった。


 湖の風が吹く。


 白薔薇と紅薔薇の飾りが揺れる。


 猫耳をつけた観光客のざわめきが遠くなる。


 少女は俺を見て、少しだけ目を丸くした。


 そして、控えめに頭を下げる。


「えっと、鏡星学園の方、ですよね。ようこそ、アクアリウムへ」


 可愛い。


 いや、待て。


 落ち着け白金光。


 ここで即断するな。


 人は見た目だけで判断してはいけない。


 声も可愛い。


 仕草も可愛い。


 少し困ったように笑うところも可愛い。


 つまり、総合的に可愛い。


 俺の心の中で、何かが鳴った。


 鐘だ。


 アクアリウムの鐘楼が鳴ったのではない。


 俺の胸の鐘が鳴ったのだ。


 カーン。


 運命。


 デスティニー。


 いや、英語にしただけだが、それでもデスティニー。


 俺は一歩前に出た。


「俺は白金光。鏡星学園生徒会広報補佐です」


 爽やかに笑う。


 会心の笑顔。


 これで大抵の場面は乗り切れる。


 少女は少し顔を赤くした。


「あ、はい。わたしは鈴木明日菜です。アクアリウム分館と、紅薔薇保存会のお手伝いをしています」


「明日菜さん」


 名前まで可愛い。


 俺は心の中で何かを決めかけた。


 いや、もう決めた。


 俺はこの校外研修を成功させる。


 広報補佐として。


 男として。


 そして、たぶん恋を知った者として。


 その瞬間、背後から那々美さんの小さな声がした。


「白金くん、目が怖いです」


「怖くない。これは真剣な目だ」


「真剣の方向が不安です」


 鳴海会長も静かに言った。


「白金。念のため言っておく」


「はい」


「相手の感情を操作する願いは認めない」


「まだ何も願ってません!」


「顔に出ていた」


「そんなに!?」


 明日菜さんがきょとんとしている。


 まずい。


 変な印象を与えてしまう。


 俺は咳払いをした。


「いえ、これはその、アクアリウムの文化に強い関心を持っただけで」


「光さま」


 あやめさんが、にっこり笑った。


「爆々ねこレースに出場なさいますか?」


 俺は明日菜さんを見た。


 明日菜さんは、少し困ったように笑っている。


 レース。


 猫耳。


 爆々。


 願い。


 恋愛成就。


 いや、鳴海会長が言った通り、相手の気持ちを神様にどうこうしてもらうのは、たぶんよくない。


 それはわかる。


 俺もそこまで愚かではない。


 たぶん。


 でも、願いを叶える猫神がいる。


 そして、目の前には運命の出会いがある。


 ならば。


 ここで引く男がいるか。


 俺は胸を張った。


「出ます」


 那々美さんが額を押さえた。


「早い……」


 直樹がぼそっと言う。


「人間、あそこまで即落ちできるんだな」


 ナオキが感心したように頷く。


「勢いだけで人生を主役にするタイプだ」


 美咲が笑う。


「直樹とは真逆ね」


「俺は勢いで猫耳レースに出たりしない」


「そこは安心してる」


 アリス先輩が手を挙げた。


「わたしも出るわ」


 パックが叫ぶ。


「勝手に決めるな!」


「大丈夫。あなたも出るのよ、パック」


「もっとダメだ!」


 玉藻先生が目を輝かせた。


「いいわねぇん、盛り上がってきたわぁ。猫鈴バンドの可学調整もばっちり――」


 鳴海会長が即座に振り向く。


「玉藻先生」


「はい」


「今、何と言いましたか」


「猫鈴バンドの安全調整がばっちり、と」


「可学調整と言いました」


「言ったかしらぁん」


「言いました」


「……ちょっとだけ?」


「詳細を提出してください」


「はい」


 嫌な予感しかしない。


 だが、俺の心はすでに決まっていた。


 このレースに出る。


 勝つ。


 願いを叶える。


 いや、願いの内容はまだ慎重に考える。


 相手の気持ちを操作するのはよくない。


 それは鳴海会長の目が怖いからではなく、人として正しいからだ。


 だが、恋を前にした男には、神様に頼りたくなる瞬間もある。


 その辺りの折り合いは、走りながら考えればいい。


 ジンセーの大事なことは、だいたい走りながら決まる。


 たぶん。


 あやめさんは満足そうに一礼した。


「では、白金光さま。明日の爆々ねこレース、鏡星学園代表としてよろしくお願いいたします」


「任せてください」


 俺は明日菜さんへ向けて、最高の笑顔を作った。


「俺の走りで、アクアリウムの祭りを盛り上げてみせます」


 明日菜さんは少しだけ笑った。


「楽しみにしていますね」


 その一言で、俺の心は完全に決まった。


 走る。


 全力で走る。


 猫耳だろうが、爆々だろうが、玉藻先生の可学ギミックだろうが、俺は走る。


 愛と広報と観光都市の未来のために。


 いや、主に愛のために。


 その時、広場の鐘楼から鐘の音が響いた。


 カーン、カーン、と澄んだ音が水上都市に広がる。


 猫耳をつけた人々が空を見上げ、笑顔になる。


 鐘楼の上にある猫像が、夕方の光を受けて金色に輝いた。


 その猫像の目が、一瞬だけ光った気がした。


 見間違いかもしれない。


 だが、見上宙が小さく言った。


「……起きた」


 人形のアリスが、にたりと笑う。


「猫神様、寝起きダ」


 広場のどこかで、小さな猫の鳴き声がした。


 にゃあ。


 それは、祭りの始まりを告げる合図のように聞こえた。


 こうして俺、白金光は、水上観光都市アクアリウムのハルカ降臨祭に巻き込まれることになった。


 いや、違う。


 巻き込まれたのではない。


 俺は自分の意思で選んだのだ。


 爆々ねこレースへの出場を。


 猫耳を。


 願いを。


 そして、たぶん、まだ名前をつけるには早すぎる恋を。


 ただし、この時の俺はまだ知らなかった。


 猫神ハルカは、恋を叶える神様であっても、恋を代行してくれる神様ではないことを。


 そして、爆々ねこレースの「爆々」が、比喩でも宣伝文句でもなく、かなり文字通りの意味であることを。

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