第五章 疑いの正体
「職場の先輩が……托卵されてたんだよ」
長い沈黙の末、翔太が言った。
「何年も自分の子だと思って育ててたのに、実は奥さんの浮気相手の子だったって。離婚して、今も養育費のことで揉めてる」
「それが、私と何の関係があるの?」
「同じことが自分にも起こるかもしれないだろ」
「その先輩の奥さんと私は、別の人間よ」
「でも、女は隠すって言ってた」
「誰が?」
「先輩も言ってたし、ネットの動画でも見た。女は泣いたり怒ったりして、男に罪悪感を持たせようとするって。鑑定を嫌がったら黒だし、怒っても黒だし、黙っていても黒だって」
結衣は一瞬、言葉を失った。
「では、私はどう反応すれば、疑われなかったの?」
「堂々としていればよかったんだよ」
「検査を受け入れたでしょう」
「最初に気絶したじゃないか!」
翔太の声が大きくなった。
「俺が鑑定の話をした直後だぞ。あんなタイミングで倒れたら、誰だって怪しいと思う!」
「誰だって?」
担当医が、静かに口を挟んだ。
翔太が振り返る。
「結衣さんが意識を失ったのは、出産による疲労と出血、血圧低下が重なったためです」
「でも、話をした直後に――」
「出産直後でした」
医師の声がわずかに厳しくなる。
「半日以上の陣痛を経て、身体的にも精神的にも極限の状態にありました。そこへ強い心理的衝撃が加わったのです。医学的に不自然なことではありません」
「それは……」
「少なくとも、気絶したことを不貞の証拠として扱う医学的根拠はありません」
翔太は俯いた。
だが、反省したわけではなかった。
しばらくすると、何かを思いついたように顔を上げた。
「でも、結果的にはよかったじゃないか」
「何が?」
「俺の子だってわかったんだから」
翔太の顔に、引きつった笑みが戻る。
「な? これで誤解は解けた。俺だって安心できたし、結衣も潔白を証明できた。結果オーライだろ」
誰も笑わなかった。
「それに、俺は先輩みたいに騙されなかった」
翔太は勢いづいた。
「疑問をそのままにせず、自分で調べて、検査までしたんだ。つまり俺は、きちんと危機管理ができていたってことだよ。最初から信じ込んで騙されるより、ずっと賢いだろ?」
義父が、息子を見つめた。
「翔太……」
「何だよ」
「お前は、結衣さんを傷つけたことを、本当に何とも思っていないのか?」
「だから、誤解だったって言ってるだろ」
「病室で罵倒したことは?」
「あれは結果が出る前だったし、父さんたちだって一緒に言ったじゃないか」
その瞬間、義父母の表情が変わった。
翔太が自分たちまで巻き込もうとしていると気づいたのだ。
「私たちは、あなたから不倫は確実だと聞かされたのよ!」
義母が慌てて言った。
「証拠もあるような言い方をしたじゃない!」
「そうだ。私たちは、お前に騙されたんだ!」
義父も声を上げる。
「結衣さん、申し訳なかった。だが、私たちは何も知らなかったんだ」
「何も知らなかった?」
結衣が問い返した。
義父の言葉が止まる。
「何も知らないのに、病室へ来たんですか」
「それは……」
「私に一度でも確認しましたか? 翔太から聞いた話が本当なのか、尋ねましたか?」
義母が唇を震わせる。
「病室で、湊を『よその男の子』と呼びましたね」
「ご、ごめんなさい。あのときは頭に血が上っていて……」
「私が出産で苦しんだことまで、芝居だと言いました」
「それは、翔太が――」
「口にしたのは、お義母さんです」
義母は何も言えなくなった。
結衣は机の上のスマートフォンを手に取った。
「病室での会話は、すべて録音してあります」
翔太たちの顔が凍りつく。
「翔太から送られてきたメッセージも、お義父さんとお義母さんから送られてきた文面も保存しています」
「録音なんて、卑怯だろ!」
翔太が叫んだ。
「卑怯?」
結衣は夫を見た。
「自分の発言を記録されることが、そんなに困るの?」
「夫婦の会話を勝手に――」
「あなたは私の両親だけでなく、自分の親戚にも、私が不倫していると連絡しましたね」
翔太の顔が引きつった。
出産翌日から、結衣のスマートフォンには親戚や共通の知人から心配する連絡が届いていた。
翔太は鑑定結果が出る前から、結衣の不倫が確定したかのように言い触らしていたのだ。
中には、相手の男を早く白状しろというメッセージまであった。
「それは、事実になると思っていたから……」
「思っていたから、何?」
「結果が出れば、俺が正しいってわかるはずだった」
「結果は出たわ」
結衣は静かに言った。
「あなたは間違っていた」
「だから、誤解は解けたんだろ?」
「違う」
結衣は首を横に振った。
「あなたが私を疑った、その一瞬だけなら、まだ話し合うことはできたかもしれない」
翔太が黙る。
「不安になった理由を話してくれたなら、一緒に考えることもできた。夫婦なのだから、疑問を持つことまで禁止するつもりはない」
「だったら――」
「でも、あなたは話し合わなかった」
結衣は遮った。
「私に尋ねる前に、犯人だと決めた。私が一番弱っているときを選んで侮辱した。湊が自分の子ではないことを望むように、結果を待っていた」
「望んでなんか――」
「さっき、喜んだでしょう」
翔太の口が閉じる。
「あなたは、間違えただけじゃない」
結衣の声は静かだった。
「私とこの子を傷つけることを、自分で選んだの」
怒鳴り声よりも、その静けさの方が翔太には恐ろしかったのだろう。
椅子から立ち上がり、結衣へ手を伸ばす。
「待てよ。俺たち、子供が生まれたばかりなんだぞ」
「ええ」
「これから三人で暮らすんだろ?」
「そのつもりだったわ」
「だったら、やり直せるだろ。悪かったよ。謝ればいいんだろ?」
「謝罪は、取引ではないわ」
結衣は、差し出された手を見なかった。
「許してもらうために形だけ頭を下げることを、謝罪とは呼ばない」
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
「もう、何もしなくていい」
結衣はバッグから、一枚の名刺を取り出した。
相談した弁護士のものだった。
それを翔太の前へ置く。
「今後の連絡は、すべてこの弁護士を通してください」
翔太は名刺を見下ろした。
「今後って……」
「離婚します」
「は?」
「あなたには慰謝料を請求します。養育費についても、正式な取り決めをします」
翔太の顔から表情が消えた。
「待てよ」
「待ちません」
「こんなことで離婚するのか?」
その言葉に、結衣は初めてわずかに眉を寄せた。
「こんなこと?」
「勘違いだっただけだろ! 一回疑ったくらいで――」
「私にとっては、一回ではないわ」
分娩室。
病室。
親戚への連絡。
目の前で交わされた言葉。
そのすべてが、結衣の中ではつながっていた。
「あなたは何度も、私を傷つける方を選び直した」
結衣は名刺から手を離した。
「あなたの妻でいることは、今日で終わりです」
翔太の間の抜けた声が、静まり返った相談室に落ちた。
「……え?」
だが、もう誰も彼を助けようとはしなかった。




