第六章 父親を名乗る資格
「待ってくれ、結衣!」
翔太が椅子を蹴るように立ち上がった。
「本気で言ってるのか? 子供が生まれたばかりなのに離婚なんて、普通じゃないだろ!」
「出産直後の妻に、托卵を疑って罵声を浴びせることは普通なの?」
「だから謝るって!」
「先ほど、あなたは自分は悪くないと言ったわ」
「それは、言葉のあやで……」
「やめなさい、翔太!」
義父が怒鳴った。
翔太が振り返る。
「お前はまだ、自分が何をしたのかわからないのか!」
「父さんまで何なんだよ!」
「結衣さんが離婚を決めるのも当然だ!」
「俺を切り捨てるのかよ!」
「自分で招いたことだろう!」
それまで息子を庇っていた両親にまで見放され、翔太は呆然と立ち尽くした。
義母が結衣へ向き直る。
「結衣さん」
震える声だった。
「本当に、本当にごめんなさい。私たちもどうかしていたわ」
義母は椅子から降り、その場に膝をついた。
義父も続く。
「許してくれとは言えない。私たちがしたことは、それだけひどいことだ」
「父さん、母さん、何してるんだよ!」
「黙りなさい!」
義母が息子を一喝した。
そして結衣へ頭を下げる。
「せめて、孫との縁まで切らないで。あの子に罪はないわ。必要なお金は、私たちが責任を持って用意します」
「おい、勝手なことを言うなよ!」
翔太が声を荒らげた。
「将来、俺に渡すはずだった金だろ!」
その発言に、義父の顔が怒りで赤くなった。
「この期に及んで、まだ金の話か!」
「だって、俺の相続分だぞ!」
「お前への援助は今日限りだ。今後、孫のために使う金を、お前のものだと思うな!」
翔太が口を開けたまま固まった。
結衣は義父母を見下ろした。
以前なら、土下座をされれば動揺したかもしれない。
だが、今は違う。
涙や謝罪の言葉だけで、自分の判断を曲げるつもりはなかった。
「今、この場では何も決めません」
「結衣さん……」
「お金と引き換えに、湊に会わせることもしません」
義父母が顔を上げる。
「今後のことは、弁護士を通して話し合います。お二人が本当に湊のことを考えているのか、それとも初孫を失いたくないだけなのか、私にはまだ判断できません」
「それは……」
「面会を認めるとしても、条件を決めます。翔太さんを連れてこないこと。私や湊を責める発言をしないこと。金銭的な援助を、面会の条件として使わないこと」
義父母は何度も頷いた。
「守ります」
「必ず守ります」
「では、今後は弁護士へ連絡してください」
結衣はそれだけを告げた。
「じゃあ……」
蚊帳の外に置かれていた翔太が、おそるおそる口を挟んだ。
「俺も、湊に会えるよな?」
結衣はゆっくりと振り返った。
翔太と、正面から目を合わせる。
「俺だって父親だ」
翔太はすがるように言った。
「鑑定で証明されたじゃないか。月に一度くらい、会う権利はあるだろ」
「戸籍上も、生物学上も、あなたが父親である事実は消えないわ」
翔太の顔に希望が浮かぶ。
しかし、結衣は続けた。
「でも、父親であることと、父親として信頼できることは別です」
「何だよ、それ……」
「あなたは湊が生まれた日、この子を抱かなかった」
翔太の顔から、再び笑みが消えた。
「最初にしたことは、この子を疑うことだった。自分の子ではないと言い張り、結果がそうであることを願い、そう思い込んで喜んだ」
「願ってなんかいない!」
「では、どうしてあんなに嬉しそうだったの?」
答えはなかった。
「あなたは、父親として最初にすべきだったことを、自分で捨てたの」
「俺はこれから変わる!」
「今のあなたに、湊を会わせるつもりはありません」
「そんなの、お前が勝手に――」
「法的なことは弁護士を通してください」
結衣は静かに言った。
「少なくとも、あなたが自分のしたことを理解し、専門家の支援を受け、湊の安全を最優先にできると判断されるまでは、直接会わせません」
「俺の子なのに……」
「そうよ」
結衣の声が、わずかに震えた。
「あなたの子だったの」
翔太が息を呑む。
「私が命がけで、あなたの子を産んだ。その私たちに、あなたは何をしたの?」
翔太は口を動かした。
だが、言葉は出なかった。
結衣はもう、返事を待たなかった。
美和子に支えられながら立ち上がり、相談室を出た。
背後で翔太が呼んでいた。
何度も、結衣の名前を叫んでいた。
しかし結衣は、一度も振り返らなかった。
◇
それから数か月後。
離婚は正式に成立した。
翔太は当初、慰謝料の支払いにも養育費の取り決めにも抵抗した。
自分は不安になっただけだ。
浮気を疑うことは夫として当然の権利だ。
結局、親子関係が証明されたのだから、結衣に実害はない。
そんな主張を繰り返した。
だが、録音とメッセージの記録が残っていた。
翔太が結果の出る前から、結衣の不貞を親戚や知人へ言い触らしていた事実も確認された。
さらに、結衣が出産直後であることを知りながら、病院で執拗に侮辱したことも問題視された。
最終的に翔太は、慰謝料と養育費の支払いに応じた。
養育費は毎月、自動的に指定口座へ振り込まれる。
結衣への直接連絡は禁止。
湊との面会については、当面実施せず、将来的に検討する場合も第三者機関を介する。
すべて、公正証書として残された。
義父母は、翔太に渡す予定だった援助分の多くを、湊の教育資金として信託した。
金銭を理由に面会を迫らないこと。
面会時に翔太を同席させないこと。
結衣の許可なく写真や情報を外部へ出さないこと。
結衣が定めた条件を受け入れたうえで、月に一度、美和子の立ち会いのもとで湊と会うようになった。
結衣は、まだ義父母を許していない。
けれど彼らは、少なくとも自分たちのしたことを言い訳せず、毎回静かに頭を下げた。
許すかどうかを急いで決める必要はない。
そう思えるようになっていた。
一方の翔太は、両親からの援助を打ち切られた。
職場では、自分から鑑定結果が出れば妻の不倫を暴けると吹聴していたため、結果を知られると急速に居場所を失った。
しかも翔太は、托卵の話を吹き込んだ先輩に責任を押しつけ、職場で掴みかかる騒ぎを起こした。
厳重注意と配置転換を受けたものの、周囲との関係は修復できず、やがて退職したという。
慰謝料や転居費用に加え、それまでの浪費も重なり、生活は苦しくなったらしい。
だが、そんな噂を聞いても、結衣の心は動かなかった。
喜びも、同情もない。
翔太はもう、結衣の人生の中心にはいなかった。
◇
柔らかな春の日差しが、リビングへ差し込んでいる。
「あー、うー」
結衣の腕の中で、湊がご機嫌な声を上げた。
生後数か月を迎え、身体はずいぶん重たくなった。
頬はふっくらと丸くなり、笑うと目尻が少し下がる。
「どうしたの?」
結衣が頬を撫でると、湊が手を伸ばした。
小さな指が、結衣の髪を掴む。
「痛い、痛い」
結衣が笑うと、湊もつられるように声を上げて笑った。
目元も眉も、やはり翔太によく似ている。
けれど、今の結衣にはどうでもよかった。
この子は誰かの所有物ではない。
翔太の血を引いているから大切なのでも、義父母にとって初孫だから尊いのでもない。
湊は湊だ。
結衣が命がけでこの世界へ送り出し、これから守り育てていく、かけがえのない一人の人間だった。
未来に不安がないわけではない。
一人で子供を育てていくことは、決して簡単ではないだろう。
母に頼らなければならない日もある。
仕事へ復帰すれば、思いどおりにならないことも増える。
それでも、疑われることに怯えながら暮らすより、ずっといい。
誰かに幸せにしてもらう未来ではなく、自分で選び取った未来だった。
「湊」
結衣が名前を呼ぶと、赤ん坊は無邪気な笑顔を見せた。
結衣はその小さな身体を、胸いっぱいに抱きしめた。
「さあ、一緒にたくさん幸せになろうね」
穏やかな声が、春の陽だまりへ溶けていく。
あの日、疑いの言葉にかき消されたはずの幸福は、失われたのではなかった。
形を変え、結衣と湊の腕の中に、確かに残っていた。




