第二章 病室への襲来
出産から二日が過ぎた。
結衣は個室のベッドに横たわり、隣のベビーベッドで眠る我が子を見つめていた。
出産時の出血と疲労の影響で、まだ身体を起こすだけでも痛む。
それでも、赤ん坊の顔を見ている間だけは、胸の奥に空いた穴が少しだけ埋まる気がした。
「湊」
結衣は、小さな声で名前を呼んだ。
夫婦で考えていた名前だった。
穏やかで、多くの人が安心して帰ってこられる場所のような子になってほしい。
そんな願いを込めて決めた。
けれど翔太は、生まれてから一度もその名を呼んでいない。
出産当日、医師に分娩室から退出させられて以降、病院にも来ていなかった。
代わりに届いたのは、労いとは程遠いメッセージだった。
『DNA鑑定の会社には連絡した。
拒否するなら、やましいことがあると判断する。
結果が出るまで家には戻らない』
翔太は検査会社へ申し込み、料金まで支払っていた。
だが、当然ながら病院が結衣の許可なく赤ん坊の検体を渡すことはなかった。
病院の相談員から説明を受けたあと、結衣は迷った末に検査への同意書へ署名した。
自分の潔白を証明しなければならないからではない。
翔太に、二度と言い逃れをさせないためだった。
検査を受ける代わりに、結衣は三つの条件を出した。
結果は医師の立ち会いのもと、結衣と美和子の前で開示すること。
報告書は結衣側も保管すること。
そして、翔太が結果を知る前に、何を主張したかを記録として残すこと。
翔太はあっさり承諾した。
どうせ自分の予想が当たるのだから、何も困ることはないと思っているらしい。
「結衣、温かいお茶を淹れたわよ」
美和子が紙コップを手渡してくれた。
「少しでも飲みなさい。母乳をあげるのだって、体力がいるんだから」
「ありがとう」
結衣はゆっくりと上体を起こした。
身体の痛みよりも、心の方が重かった。
翔太とは、大学を卒業してから付き合い始めた。
交際期間を含めれば、七年近く一緒にいたことになる。
価値観の違いを感じたことはあった。
翔太が人の話を最後まで聞かず、自分の考えを押し通すこともあった。
それでも、根は悪い人ではないと思っていた。
子供が生まれれば、きっと父親らしくなってくれる。
そう信じていた。
今となっては、自分が見ようとしなかっただけなのかもしれない。
「無理に考えなくていいのよ」
美和子が言った。
「今は身体を休めなさい。退院してから、一つずつ考えればいい」
「うん」
そう答えた直後だった。
病室の扉が乱暴に開いた。
ガラッという音に、眠っていた湊が小さく身体を震わせる。
「ちょっと、ここは病室ですよ!」
美和子が立ち上がった。
扉の前には、翔太がいた。
その後ろから、義父と義母が入ってくる。
三人とも、見舞いに来た人間の顔ではなかった。
義母はベビーベッドへ目を向けるなり、眉を吊り上げた。
「よくもまあ、そんな平気な顔で抱けるわね」
結衣は反射的に湊へ手を伸ばした。
「何を……言っているんですか」
「翔太から全部聞いたわよ!」
義母が甲高い声を上げた。
「浮気して、よその男の子を産んだんでしょう。うちの息子に育てさせるつもりだったなんて、とんでもない女だわ!」
「浮気なんて、していません」
「まだとぼけるのか!」
義父が怒鳴った。
「翔太が気づかなかったら、他人の子をうちの跡取りとして育てさせるつもりだったんだろう!」
「やめてください」
結衣は震える声で言った。
「ここで大声を出さないで。赤ちゃんがいます」
「その子を孫扱いしろと言う方が無理よ!」
義母が吐き捨てる。
「痛いだの苦しいだの大騒ぎして、周りの同情を引こうとしたんでしょうけど、私たちは騙されませんからね」
結衣は、枕元に置いてあったスマートフォンへそっと手を伸ばした。
画面を見ないまま、録音を開始する。
翔太はその様子にも気づかず、腕を組んでいた。
「やめなさい!」
美和子が結衣を庇うように前へ出た。
「なんの証拠があって、そんなことを言うんですか。結衣は命がけでこの子を産んだんですよ!」
「証拠なら、もうすぐ出ます」
翔太が、やれやれと首を振った。
「お義母さんも、娘がかわいいのはわかりますけど、現実を見た方がいいですよ」
「現実を見ていないのは、あなたでしょう!」
「俺は冷静です」
翔太は薄笑いを浮かべた。
「他の男みたいに、女の涙に騙されないだけです。結果が出たら、結衣と相手の男には慰謝料を請求します。弁護士にも相談するつもりです」
「相手の男って、誰のこと?」
結衣が尋ねた。
翔太の視線が一瞬、泳いだ。
「それは、これから吐かせる」
「心当たりがあるわけではないのね」
「結果が出ればわかることだ」
「私が不倫している証拠もない」
「気絶しただろ」
翔太は勝ち誇ったように言った。
「あれが何よりの証拠だ。鑑定をすると言われて、都合よく気絶した。やましいことがなければ、あんな反応はしない」
あまりの言葉に、結衣は返事ができなかった。
半日以上の難産。
大量の発汗。
出血。
極度の疲労。
医師から説明を受けたにもかかわらず、翔太はそれらすべてを無視している。
自分に都合のいい答えだけを選び、それ以外を最初から存在しないものとして扱っていた。
「病院で騒がないでください!」
物音を聞きつけた看護師が入ってきた。
「患者さんと赤ちゃんの休息を妨げています。面会を中止してください」
「家族の問題です」
翔太が言い返す。
「病院内では、患者さんと赤ちゃんの安全が最優先です。すぐに退出してください」
看護師の毅然とした態度に、義父母は不満げな顔をしながらも扉へ向かった。
翔太は最後に結衣を振り返った。
「結果が出たら、もう言い逃れはできないからな」
「ええ」
結衣は答えた。
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「言い逃れは、できないでしょうね」
翔太はその意味を考えようともせず、義父母とともに病室を出ていった。
扉が閉まる。
しばらくして、湊が小さくむずかった。
結衣は痛む身体を動かし、そっと抱き上げる。
「怖かったね。ごめんね」
湊の頬は、柔らかく温かかった。
泣きそうに歪んだ顔を見つめているうちに、結衣はあることに気づいた。
すっきりとした一重の目元。
少しだけ外側へ上がった眉。
耳の形。
生まれたばかりで顔立ちが定まっていないとはいえ、どれも翔太によく似ている。
「本当に、馬鹿みたい」
結衣が呟くと、美和子が心配そうに顔を覗き込んだ。
「結衣……」
「大丈夫」
結衣は湊を抱いたまま、録音を停止した。
「お母さん、今の録音を別の場所にも保存してくれる?」
「ええ」
「翔太から来たメッセージも、全部残しておきたい」
美和子が息を呑む。
結衣は眠り始めた湊の額を、指先で優しく撫でた。
悲しみが消えたわけではない。
今も胸の奥は痛かった。
それでも、涙だけを流しているつもりはなかった。
「結果が出たら、翔太はきっと、全部なかったことにしようとする」
結衣は言った。
「だから、その前に残しておくの。あの人が、私とこの子に何を言ったのか」
胸の奥で、冷たい炎が静かに燃え始めていた。




