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第一章 産声のあとに



「オギャア、オギャア!」


力強い産声が、分娩室に響き渡った。


その瞬間、結衣の全身から力が抜けた。


半日を超える陣痛。

何度も意識が遠のき、全身の骨が内側から砕けてしまうのではないかと思うほどの痛みだった。


それでも、赤ん坊の声を聞いた途端、それまでの苦しみが遠いもののように感じられた。


「生まれた……」


声にしただけで、涙があふれた。


助産師が手際よく赤ん坊の身体を拭き、状態を確認している。

その小さな手足が元気に動くたび、結衣の胸の奥に温かいものが広がっていく。


「元気な男の子ですよ」


医師の言葉に、結衣は何度も頷いた。


「よく頑張ったわね、結衣」


ずっとそばで手を握ってくれていた母、美和子が、震える声で言った。

汗で張りついた結衣の前髪を、持っていたハンカチでそっと拭ってくれる。

美和子の目にも涙が浮かんでいた。


「本当に、よく頑張ったわ」


「お母さん……ありがとう」


結衣はかすかに笑い、赤ん坊へと手を伸ばそうとした。


早く抱きしめたかった。

この子を腕の中に抱いて、夫の翔太と一緒に喜びたかった。


妊娠中、何度も想像していた。

翔太はきっと、初めて我が子を見た瞬間に泣くのだろう。

照れながら結衣の手を握り、「ありがとう」と言ってくれるのだろう。


三人で幸せになろう。

そんな、ありふれた未来を信じていた。


だが、翔太は赤ん坊へ近づこうとしなかった。


少し離れた場所に立ったまま、腕を組み、険しい表情で助産師の手元を見つめている。


「翔太……?」


結衣が呼びかけると、翔太はようやく顔を上げた。

そして、医師に向かって言った。


「先生、DNA鑑定もお願いできますか?」


一瞬、何を言われたのかわからなかった。

聞き間違いかと思った。


「……え?」


「俺、この子が本当に自分の子なのか、ちゃんと確認したいんです」


分娩室の空気が変わった。


もちろん、医師や助産師たちの手が完全に止まったわけではない。

医療スタッフは結衣と赤ん坊の処置を続けている。

しかし、そこにいた全員の表情が硬くなった。


担当医が眉を寄せる。


「今は、お母さんと赤ちゃんの処置が最優先です。そのようなお話は、後ほど落ち着いた場所で――」


「採取するなら、生まれた直後の方がいいんじゃないんですか?」


「翔太さん」


医師の声が厳しくなった。


「検査の必要性については、ご夫婦で十分に話し合ってください。少なくとも、今ここで急いで決めることではありません」


「やましいことがなければ、別に問題ないでしょう?」


翔太は、いかにも正論を言っているかのように肩をすくめた。


「あなた……」


美和子が立ち上がった。


「結衣がどれだけ苦しんで、この子を産んだと思っているの。最初にかける言葉が、それなの?」


「お義母さんには関係ないでしょう」


「関係あります。結衣は私の娘です」


「俺の妻でもあります」


翔太は苛立たしげに答えた。


「だからこそ、真実を知る権利があるんです。最近多いらしいじゃないですか。他人の子を夫に育てさせる、托卵っていうのが」


結衣は呆然と夫を見つめた。


「翔太……私が浮気したと思っているの?」


「そこまでは言ってない」


「今、言っているのと同じでしょう」


「違う。俺は確認したいだけだ」


「どうして?」


「どうしても何も、用心するのは当たり前だろ。ネットでもよく見るし、職場の先輩も同じ目に遭ったんだ。女の言うことを全部信じて、他人の子供を何年も育てるなんて、俺はごめんだからな」


翔太は笑った。

それは、賢明な自分を誇るような笑みだった。


「俺は騙されないんで」


その一言が、結衣の胸を深くえぐった。


半日以上、命がけで出産に耐えた。

血も汗も涙も流し、ようやくこの子をこの世界へ送り出した。

それなのに夫は、我が子を抱こうともせず、結衣を労うこともせず、最初から彼女を嘘つきとして見ていた。


身体の芯が、急速に冷えていく。


「結衣さん、こちらを見てください」


助産師の声が聞こえた。

だが、焦点が合わない。

天井がゆっくりと傾き、照明の輪郭がにじんでいく。


「結衣?」


美和子の声が遠くなった。

耳鳴りがした。

自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いている。


「先生、血圧が――」


「出血量を確認して。ご主人は一度、外へ出てください」


「でも、鑑定の話が――」


「今すぐ出てください!」


医師の鋭い声が飛んだ。


翔太が何かを言い返している。

美和子が叫んでいる。

医療スタッフが慌ただしく動いている。


けれど、結衣にはもう何も理解できなかった。


意識が暗闇へ落ちる直前、翔太の冷たい声だけが、妙にはっきりと耳に届いた。


「ほらな。図星を突かれたから気絶したんだろ」


赤ん坊の産声が、再び聞こえた。

その泣き声だけが、結衣の味方をしてくれているように思えた。

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