自分で何も成し遂げないうちから偉そうな顔をしないで
「アンナ、アンナはもうすぐ結婚してこの屋敷を出て行ってしまうって本当なの?」
モリス公爵家の長男にして六歳のアンドレイは、思い詰めた顔でアンナに問いかけてきた。
子ども部屋である。
手に手を取り合って「結婚式のことはすべて任せてくれていいからね!」と言うモリス夫妻から、アンナは「仕事がありますので!」と逃げてきたのであった。
今日も今日とて、揃いも揃って可愛い総勢四人の子どもたちを見て笑みをこぼす。目に入れても痛くないとはこのことだ。
「そんなわけないですよ。私は仕事があれば良いんです。結婚しようなんて考えたこともありません」
アンドレイはほっとしたように表情を和ませた。
「良かった。アンナがいなくなってしまったら、僕は悲しくてきっと毎晩泣いてしまうよ。ずっとそばにいてね」
守りたい、この笑顔。
はっきりと約束を口にしないものの、アンナはにこりと微笑みで応じた。
(さすがに「ずっと」はお約束できません。あと何年か……お給金もしっかり頂いていますし、モリス公爵邸で子育てメイドと家庭教師をしていたと言えば、仕事に困ることはないでしょうから、どこかで同じような職を得られたら良いのですが)
父と母から美しい顔立ちを受け継いだアンドレイは、やがてとんでもない美青年になることだろう。それをアンナが見届ける日が来るかどうかはわからないものの、少年のいますでにその片鱗がある。
それこそ「冷徹侯爵」ことウォーレン・ミッドフォードのように、目が痛くて正視できない美形になるのでしょうね……と回想したところで、アンナはハッとした。
なぜ彼を思い出してしまったのか。
このところ彼のひとの噂や行動範囲を調査していたとはいえ、ウォーレン本人とアンナは昨日会ったばかり。初対面で思い入れもない相手である。ほんの少し会話しただけなのに忘れがたいほど強烈な印象が残っているなど、あってほしくない。
ぶんぶんと首を振っていると、やわらかく小さな手がアンナの手を取った。
「アンナ大好き。今日はもうたくさん勉強したよ。あとはアンナにご本を読んでほしいな」
甘えるようにアンドレイに言われて、アンナは三十歳の男の面影を速やかに記憶の隅っこへと追い払った。
「アンドレイ様、私に良い考えがあります。今日はアンドレイ様がアンナにご本を読んでくださいませんか?」
音読は単語の誤読や発音のチェックにとても有益であることを、アンナは知っている。
アンドレイはぱっと顔を輝かせて「いいよ!」と言った。
「あらだめよ。アンナには明日の食事会用のドレスとリボンを選んでもらうんだから。アンドレイは遠慮して?」
さっと横から出てきたのは、これまた見事な金髪美少女のニコルである。
文字通り公爵家のお姫様で、母であるシャンテルによく似て頭の回転が早く口が達者で頼もしい長女だ。
「えーっ。姉さまは夜もアンナと一緒にお休みになっているじゃないですか。姉さまこそ少し遠慮してくださいよ」
「なによ。あなたとトーマスが私たちと別の部屋なのは当然のことでしょう? 三歳の子どもみたいにぐずぐず言わないの。さ、あっちに行って」
ぴしゃっと厳しく言いつつ、ニコルはアンナの空いている方の手を取った。
「ニコルお嬢様、ご指名は大変嬉しく思いますがドレスのことでしたら私より詳しく適任の者がいますわ。流行りに敏感な若い子のほうがニコル様をおしゃれなお姫様にしてくれますよ?」
アンナはニコルに丁寧に断りを入れる。
実際、アンナは服飾関係には疎い自覚があるのであった。
(このお屋敷の四きょうだいはみーんな何をお召しになっていても可愛いんですもの。私はどのドレスを見ても「似合いそうですね」「可愛いです」「天使ですわ!」しか言えませんから。選ぶのは苦手なんですよっ)
しかも本人はクソダサイのである。もともと公爵邸が威信にかけてニコルのために誂えた衣服しかないわけだが、それこそドレスとリボンの組み合わせが頓珍漢だったといったことでニコルに恥をかかせてはいけない。アンナは己の領分をわきまえているので、自分が苦手なことは得意な者に任せたほうが絶対に良いと信じている。
しかし、ニコルは自分の言い分を譲らず、食い下がってきた。
「やだ。アンナに選んで欲しい。それでね、こっそりアンナとお揃いコーデにするのよ。服の色とかデザインに同じモチーフを取り入れるの。なぜなら私とアンナは仲良しだから!」
「ええっ、それはいけません! もしそのようになさるなら、お母様となさってくださいませ! 私はこのお屋敷の使用人でして、お嬢様との仲良しを皆さんに見せつける間柄ではないのですよ!」
教育係として当たり前のことを言ったのに、ニコルはぷすっと頬をふくらませてしまった。そんな顔をしても可愛い。しかしだめなものはだめなのである。
普段のニコルは、アンナが道理を説けばわがままを言わずに納得する。かつて母であるシャンテルが「あなたは身分社会で言えば上のほうだけど、ただそう生まれたというだけでいまのあなたが偉いわけじゃないの。自分で何も成し遂げないうちから偉そうな顔をしないで」と叱り飛ばしたことがあるからだ。以来、度を超えたわがままは決して言わない節度を身につけたようである。
アンナは教育係として愛情いっぱいに接してきた自負があるが、要所要所ではやはり母たるシャンテルの気高さが子どもたちの人格形成に大きな影響を与えている。それを思うと、シャンテルにお役御免を言い渡されたら、自分はいつまでもごねていられないな……という思いもあるのだ。
切なく自分の行く末に思いを馳せるアンナの横で、ニコルは珍しく両手でアンナの手を掴みながらいじいじと呟いていた。
「私は生まれたときからアンナとはずっと一緒なのに……。ポッと出のアンナの婚約者に負けていられないじゃない」
ぶふっとアンナは噴きそうになった。もちろん、子どもたちに悪影響なのでそんなオーバーアクションは厳に慎み驚きはほとんど態度に出さないように努める。内心は穏やかではない、なんてものではない。
いったいどこで何を聞いてしまったんでしょうねえ、とアンナは話を逸らそうとしたものの、もう片方の手をアンドレイにきゅっと強く掴まれて言いそびれた。
「……アンナの婚約者ってなに? どういうこと? やっぱりアンナは結婚するっていうあの話は本当なの?」
どうやら子どもたちは、かなり耳ざとくアンナにまつわる情報を入手しているらしい。




