「あの方、本当にグリズリーと戦えるのでしょうか? もしかして顔面の強さと愛の言葉で制圧しているんじゃないでしょうか?」「そんな物わかりの良いグリズリーがいるわけないでしょう?」
一回目のデートから、三日が過ぎた。
「えーっ、アンナさんこんなところで何をしているんですか?」
朝イチで廊下のモップ掛けをしていたら、お仕着せ姿のティナという若いメイドに幽霊でも見たような顔をしてドン引きされた。
「見ての通り掃除です」
「行き届いてないところがありましたでしょうか?」
「いいえ。掃除していると私が落ち着くというだけです。皆さんのお掃除は完璧ですので、お気になさらず……」
そう言われても……と、ティナは立ち去るべきか迷うようにアンナを見てくる。大丈夫ですの意味でアンナが笑いかけると、小さく息を呑んで絶句してしまった。
ここ三日ほどよく眠れていないため、目の下にうっすらとクマができ始めている。かつて流行病の時期に人手不足を極めて働き詰めていた頃よりは多少マシ、といった程度の見た目になっていることだろう。
「え、アンナさん?」
同じく、早い時間帯から動き出す年若い男性使用人が頬に煤をつけたまま通りすがり、何事かといった顔でアンナを見て目を見開いた。
アンナは力なく笑いかける。
「あの、私のことは本当に気にしないでください。ここの掃除が終わったら子ども部屋に引っ込みますので」
シャンテルにはウォーレンとの残り九回のデートがつつがなくできるようにと、仕事を外れるよう指示を受けている。公爵家を巻き込んでの騒動を起こしてしまった自覚のあるアンナは、さすがに逆らう場面ではないとわきまえて本を読んだりメイクの練習をしたりして過ごしていたが、どうしても手が止まりがちでぼーっとしてしまうのだった。
(覚悟が決まらないままだから、全部中途半端になっている……)
このまま流されるようにして婚約、結婚へと進んで良いのだろうか? と何をしていても悶々と悩んでしまうのだった。
男性使用人はアンナのやつれた顔を不思議そうに見つめながら、何気ない口ぶりで言った。
「子ども部屋にはもう奥様が新しくひとを手配しているって聞いていますよ。そうじゃなくても、もうアンナさん抜きのローテ組んでいるそうなので、顔を出してもみんなが困るんじゃないかな」
ティナが「ちょっと、ダン。本人にそこまで言うことないでしょう」ととがめる。ダンと呼ばれたその使用人は「え? 何がだめなの?」とわかっていない様子で首を傾げていた。
「顔を出してもみんなが困る……」
復唱して、アンナは落ち込んだ。
(「助かります」ではなく「困ります」なんですね……。そうですよね、私のような古い人間に今さら来られても「いったいどんな難癖をつけるつもりなんだ」とか「せっかくうまくいき始めていたのに」なんて受け入れ側を戦々恐々とさせるだけなんですよね)
シャンテルには一年も前から「いつ何があるかわからないから」と言われており、流行病の混乱期に覚えのあるアンナはそれもそうだと引き継ぎに心を砕いてきた。
たとえばアンナが突然病気に倒れても後に残った者が困らないように、子どもたちの気質や好みと仕事の手順を朝から晩まで細かく書きとめ、物の場所をわかりやすくするように徹底してきた。さらに、外に出たときは絶対に目を離さないようにというのはもちろんのこと、不審者侵入対策としてブロックサインや当日の当番同士で合言葉を言えるようにとまで決めてきているのである。当然、アンナが抜けても仕事は滞り無く進んでいるはずだ。
今日の人数に入っていないアンナがその場に突然現れても、困惑しかないというのはその通りだろう。
「なんかひでぇ顔していますけど、アンナさん結婚するんじゃなかったでしたっけ。相手のひとも心配しますよ。あ、そうだ。お見舞いに来てもらったらどうです?」
悪気ない様子で話すダンは、先日ウォーレンが来たときには広間にいなかったのだろう。顔をしかめたティナが焦った様子で袖を引っ張っている。
「アンナさんは本当は私たちと全然身分の違うお嬢様なんだっけよ!」
「え? お嬢様っていうのはニコル様みたいなお小さいお嬢さんのことじゃなくて?」
「ダン、あんた余計なことばっか言うなや! あと、彼氏はどえらいイケメンの王子様で、そんな簡単に見舞いに来いって呼びつけられる相手じゃないんだわ」
「なんで王子様がアンナさんに求婚してるんだ?」
悪気ゼロできょとーんとしているダンに対し、業を煮やしたようにお国言葉丸出しになったティナが言う。
「なんでも何も好きだからだべ!」
ぐっさぁ。
見えない刃が心臓に刺さり、アンナは幻の痛みを感じて胸を押さえた。
(好きなんですかね? あの方本当に私のこと好きなんでしょうか?)
デートの後。
――「愛の手紙というのはまったく普段の書き物とは違うと実感したよ。ただペンが生きるのに必要な呼吸をするのに任せていただけなんだ」と言っていまして……
細かく報告するようにシャンテルに命じられ、アンナは挙動不審に視線を泳がせながらかすれ声で彼の言葉を伝えた。
真っ先に反応したのは、こっそりと部屋に忍び込んでいたニコルだった。
――ど・こ・の・詩・人・よ!
胸をかきむしり泡を吹き出さんばかりに血相を抱えて叫びながら、ごろごろごろっとベッドの下から転がり出てきたのである。
そんな所に入ってはいけません、盗み聞きなんてもってのほかですと咎めたい気持ちと、聞かれてしまった羞恥と、自分だって報告を聞く立場であれば思う存分つっこみましたともという気持ちが入り乱れてアンナは何も言えなくなってしまった。
しゅばっと扇子を開いたシャンテルは、目を爛々と輝かせて叫んだ。
――やだ。彼、グリズリーのことばかり話しているからもう少し熊っぽいのかと思っていたけど、きちんと貴公子じゃない!
貴公子なのである。アンナはろくに男性を知らないが、ウォーレンはかなりスマートな部類であるように感じた。シャンテルも認めているからには、錯覚ではないのだろう。
――全然熊っぽくなかったです。というかあの方、本当にグリズリーと戦えるのでしょうか? もしかして顔面の強さと愛の言葉で制圧しているんじゃないでしょうか? この目で戦闘を見るまでは信じられないですね……。
アンナが回想しつつ噛み締めながら言うと、そばに来たニコルが「そんな物わかりの良いグリズリーがいるわけないでしょう?」ともっともなことを言ってきた。その場でアンナはうまく返答できなかったが、部屋に入ってからしみじみと思ったものである。
(だって、あんなに完璧じゃなくていいのに! もう少し隙があれば私だって何かできることはあったと思うんですけどね! グリズリーと薬草と虫の話ばかりしてくれていればいいのに、恋愛小説の話にまで興味深そうにのってこなくても……調子に乗ってめちゃくちゃたくさん話しちゃいましたよ! 恥ずかしい!)
とどのつまり、アンナの悩みはそこなのだった。ウォーレンがいいひとすぎて、自分にはもったいない。釣り合っていないような気がして全然落ち着かない。
ティナとダンは、アンナが悶えていることに気づくと「よければ話してくれませんか? 悩み聞きますよ?」とひそひそと言ってきた。
その気持ちはありがたいものの、仕事を中断させてはならないとアンナは断ろうとした。
しかしそのときになって、すでにティナとダン以外にも早起きの使用人たちが現れてそばを取り囲んでおり、アンナの話を聞くまで仕事を始められないとばかりに待ち構えていることに気づいてしまう。
かくして「さ、まずは朝食の席で」と食堂まで連行されることになったのであった。




