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指先を灯す  作者: あめたす


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第23話:職人の反撃、父の背中

第23話:職人の反撃、父の背中


 深夜二時、鰐淵眼鏡製作所の開発室は、張り詰めた熱気に満ちていた。

 ブルーライトに照らされた若手デザイナー、瀬戸口有の指が、猛烈な速度でキーボードを叩いている。その横で、副社長の勇人は、何枚もの設計図とシミュレーション画面を凝視したまま動かない。


「駄目だ、繋がらない……。富永さんのあの『逃げ』の感覚を数値化しようとすると、プログラムがエラーを起こす。アセテートの弾性と、バフが当たる瞬間の摩擦熱の相関関係が、どうしても数式に落ちないんだ」


 瀬戸口が髪を掻きむしり、声を荒らげた。

 かつて彼が私に嘯いた「量産職人はAIに代わられる」という洗練された正論は、いまや見る影もない。彼は彼で、自分が信奉してきたデジタルの限界に、泥泥とした現場の壁に、必死で爪を立てて戦っていた。

 私は、自分のボロボロの指先を見つめた。

 一分間に数千回転するバフにフレームを滑らせるとき、私の指は、ほんのわずかな「素材の悲鳴」を聞き取っている。アセテートが熱を持ち、柔らかくなり、削られまいと反発する、その一瞬の「逃げ」。

 それをどうやって機械に教えればいいのか。ビジネスYouTubeが説く「再現性」や「標準化」という言葉が、あまりにも薄っぺらな記号に思えてくる。


「……一度、実家に戻らせてください」


 私は静かに席を立った。勇人が、縋るような、しかし絶望に濁った目で私を見た。


「こんな時に、逃げるのか」


「逃げません。正解を、取りに行くだけです」


 工場の外には、夜明け前の濃い霧が立ち込めていた。陣内課長が「これに乗っていけ」と、無言で会社の軽トラックの鍵を私の手に握らせてくれた。

 

 福井の冬の手前、夜明けの越前地方は、肌を刺すような冷気につつまれている。

 実家の富永陶芸工房の扉を開けると、土の重い匂いと共に、すでに薪が爆ぜるかすかな音が響いていた。

 作業台の前で、父が一人、ろくろを使わずに手捻りで泥を捏ねていた。


「こんな時間に、何の用だ。工場はどうした」


 父は私を見ようともせず、ゴツゴツとした、乾ききった手で泥の塊を回し続けた。


「……型を、超えたいの」


 私は軽トラの中でまとめた言葉を、絞り出すように言った。


「副社長が作った、完璧な左右対称の型がある。でも、それだとアセテートが息を詰まらせて割れてしまう。私の指先の感覚をプログラムに組み込んで、機械に『逃げ道』を教えたい。でも、数値にならない。どうすれば、決まった型の中で、素材を自由に生かせるの?」


 父の手が、ぴたりと止まった。

 静寂の中で、窯の火がパチリと爆ぜる。父はゆっくりと立ち上がり、棚から一枚の古びた厚紙を取り出した。約五センチ角に切られた、何の変哲もない厚紙。私が手捻りを始めるときに、父が最初に渡してくれた「結界」だ。


「紬。お前は、型というものを勘違いしている」


 父の声は、低く、しかし私の胸の奥に深く響いた。


「型とは、人間を縛るためのものではない。……はまるためのものでもない。それを、超えるためにあるんだ」


 父は厚紙の上に泥の塊を置くと、それを手のひらで回し始めた。


「完璧な円など、この世にはない。土は水分を吸って縮み、火に焼かれて歪む。職人の仕事は、その歪みを見越して、最初から『美しい歪み』を仕込んでおくことだ。お前の手は熱い。だから土がすぐに乾いて割れる。だが、その熱があるからこそ、お前は素材の『乾き』に誰よりも早く気づけるはずだ」


 父は私の方を向き、その厳しい目を真っ直ぐに向けた。


「眼鏡の量産だろうが、陶芸だろうが、本質は変わらん。機械の型に人間が合わせるんじゃない。機械の型が持つ『限界』を、お前の指先が、知恵で…お前の言うハック?とやらをして超えてみせろ。お前は俺の娘だ。それくらいの器用さは、最初からその手に染み付いている」


 呪いだと思っていた「お前は俺に敵わない」という言葉の裏にあった、不器用すぎる全肯定。

 私は自分の手を、強く握りしめた。私の指先は乾燥し、皮が厚くボロボロだ。けれど、この手は、十年間工場で何万本のネジを締め、0.1ミリのカーブを削り出し、そして週末には泥を捏ねてきた、確かな「職人の手」だ。


「……ありがとう、お父さん」


 私が背を向けたとき、父がぽつりと言った。


「あのバカ社長の息子に、言ってやれ。福井の土と空気は机の上じゃ測れん、とな」


 工場に戻ると、朝の光が差し込む社長室から、鰐淵社長の怒号が響いていた。


「数万本のリコールだと!? 会社の看板にどれだけの泥を塗る気だ、勇人! お前の『洗練された経営』とやらは、我が社を潰すためのものだったのか!」


 部屋の扉を開けると、床に膝をつき、父親からの叱責に肩を震わせている勇人の姿があった。ディスプレイの上で完璧な世界を操っていた彼のプライドは、完全に叩き潰され、パニックに陥っていた。

 かつての私なら、この理不尽な叱責の空気に耐えかねて、俯いて目を背けていただろう。

 けれど、今の私は違う。


「社長。今は怒鳴っていて良い状態じゃないはずです」


 私は一歩前に出て、鰐淵社長の目を真っ直ぐに見据えた。


「原因は副社長の論理の失敗ではありません。素材の特性と、この場所の湿度の計算が欠落していただけです。私たちは今、その修正プログラムを作っています」


 鰐淵社長は毒気を抜かれたように目を見張り、それからフンと鼻を鳴らして、勇人から視線を外した。

 私は床にへたり込む勇人の前に屈み、彼の目線に合わせた。


「副社長。顔を上げてください。あなたのデータは間違っていません。ただ……土の温かさを、素材の呼吸を知らなかっただけです」


 勇人は、信じられないものを見るような目で私を見つめ、それから小さく、掠れた声で「どうすればいい……」と呟いた。


「あなたの最新システムの、あの『超高速処理』が必要です。機械がアセテートを削る瞬間、ヤスリにかかる『反発(抵抗値)』をリアルタイムで検知してください。そして、素材が『逃げたい』とした瞬間に、ヤスリの圧力をミリ秒単位で変化させる。型を固定するのではなく、型そのものを動的に変化させるんです。瀬戸口くん、できる?」


 開発室の奥から、クマを作った瀬戸口が、不敵な笑みを浮かべて親指を立てた。


「富永さん、それ最高にイカれてます。……でも、理論上は可能です。デジタルの速度が、あなたのアナログの指先に追いつく瞬間だ」


 勇人が、ゆっくりと立ち上がった。彼の目に、かつての冷徹な効率主義ではない、一人の「技術者」としての泥臭い炎が灯るのを見た。


「……やろう。私のプログラムのすべてを、君の指先に捧げる」


 午後六時。

 工場のメインラインには、リコール対象となった数万本の『Model-T』が、巨大な山のようになって積まれていた。

 

 マシンの前に立つ。瀬戸口がハックした制御PCの画面には、アセテートの抵抗値をリアルタイムで感知する、新しい動的補正プログラム『Tsumugi-Blend』の文字が点滅している。

 これが失敗すれば、数万本の高級素材はすべて文字通りの「ゴミ」になる。会社は傾き、私の居場所も、同僚たちの日常も、すべて吹き飛ぶだろう。

 失敗を恐れて傷つくのを防ぐための完璧主義は、もう捨てた。

 私の後ろには、紗枝さんが、陣内課長が、坂巻工場長が、そして百合子さんや真美子たち検品チーム全員が、固唾を飲んで見守っている。

 

「富永、いつでもいけるわよ」


 紗枝さんの、いつもと変わらない「適温」の声が、私の背中をそっと支える。

 私は大きく深呼吸をし、歪な歯並びを隠すことなく、小さく笑った。

 そして、ボロボロの、けれど誰よりも誇らしい私の指先で、開始のスイッチを強く押し込んだ。

 工場の全マシンが一斉に駆動し、アームが動く。一発勝負の大博打が、いま、始まった。

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