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指先を灯す  作者: あめたす


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第22話:リコール直前の沈黙

第22話:リコール直前の沈黙


 湿度は、目に見えない。

 ビジネスYouTubeの画面越しに語られる「成功法則」や「効率化」の理論の中に、福井の梅雨時特有の、肌にまとわりつくような重い空気の数値はどこにも出てこない。

 勇人が崩れ落ちた椅子。その横で、無惨に割れた『Model-T』の残骸が、蛍光灯の光を跳ね返している。

 アセテートという素材は、生きている。石油から作られたプラスチックでありながら、植物由来の繊維素セルロースを多分に含み、周囲の湿気を吸い、吐き、常にその体積をわずかに変え続けている。

 勇人が求めた「真の左右対称」という絶対零度の完璧さは、その素材の呼吸を根こそぎ奪い取ってしまったのだ。


「そんなはずは……。計算は合っていた。素材の物性データ、成形時の熱分布、すべてシミュレーションの範囲内だったはずだ……」


 勇人の震える声が、静まり返った工場に虚しく響く。

 私は、足元に落ちた破片を拾い上げた。断面は鋭く、まるでガラスのように冷徹だ。


「副社長。計算は正しかったのかもしれません。でも、この眼鏡は福井で作られ、福井の空気を吸って育ちました。設計図の中に、この場所の温度や湿度は入っていましたか?」


 彼は答えない。ただ、自分の手を見つめている。

 彼の指は、どこまでも白く、清潔で、傷一つない。ディスプレイの上で世界を操るための、洗練された指先。

 対して、私の指先は、今この瞬間も泥と油の微かな匂いが染み付き、爪の隙間には陶芸の「紬ブレンド」が微かに残っている。


「……富永。君は、最初からこうなることがわかっていたのか?」


 勇人が、絞り出すように言った。

 私は首を振る。


「わかりませんでした。でも、指先が嫌な予感を感じていたんです。検品でこのフレームに触れたとき、指先に伝わってくる『反発』が強すぎた。眼鏡が、掛ける人を守るためではなく、自分を保つためだけに必死になっているような、そんな硬さでした」


 資材倉庫の瑞希が、鼻で笑った。


「数値なんてのは、過去の平均値に過ぎないのよ。副社長。職人が現場で何を見てるか教えてあげましょうか? 私たちはね、機械のモーター音の微妙な高低や、削りカスが舞う角度で、その日の空気の機嫌を測ってるの。あんたのAIには、アセテートが『今日は少し喉が渇いてるな』なんて、わからないでしょう?」


 瑞希の言葉は、鋭い針のように勇人のプライドを刺していく。

 

 午後三時。

 工場の出荷口には、発送を待つ数万本の眼鏡が、整然と段ボールに詰められていた。

 勇人は、その山を呆然と見つめている。

 先行予約のリストには、都心の有名セレクトショップや、感度の高いインフルエンサーたちの名前が並んでいる。明日、これらが全国へ放たれれば、数日後には「最高級の拷問器具」としての悪評がネットを埋め尽くすだろう。


「……出荷を、止めるわけにはいかない。これは会社の、親父のプライドがかかっているんだ」


 勇人の言葉に、それまで黙って電卓を叩いていた専務の照実が、ゆっくりと顔を上げた。


「勇人。プライドと見栄を履き違えてはいけないわ。壊れるとわかっているものを届けるのは、職人の仕事ではない。それは単なる、ゴミの押し売りよ」


 照実の冷徹な一言が、決定打となった。

 勇人は力なく項垂れ、掠れた声で言った。


「……全ライン、停止。出荷保留だ」


 工場に、奇妙な静寂が訪れた。

 機械が止まった後の静けさは、敗北の匂いがした。

 

 百合子や真美子たち検品チームは、戸惑いながら作業台を片付け始めた。

「せっかく綺麗だと思ったのにねぇ……」という百合子の独り言が、胸を締め付ける。

 私は、閑職に追いやられたはずの倉庫の隅で、一本の『Model-T』を手に取った。

 勇人さんが「エラー」として削除した、私と瑞希さんの調整データ。

 それは、鼻パッドの角度をわずか0.1ミリだけ外側に逃がし、耳にかかるテンプルの厚みを、左右でコンマ数ミリ変えるという、歪な、しかし「優しい」設計だった。


「瑞希さん。この眼鏡、死なせたくありません」


 私は、倉庫の奥に眠っていた古い手動の研磨機バフに、そっと電源を入れた。

 ブォーン、という低く力強い振動が、私の腕に伝わってくる。


「……何をする気? 数万本よ。あんた一人がバフをかけたって、どうにもならないわ」


 瑞希は呆れたように言ったが、その目は私の指先を凝視していた。


「勇人さんのシステムは、確かに速い。でも、それは『正解』を知っているときだけです。今のこの眼鏡に必要なのは、素材の呼吸に合わせて、一箇所ずつ『逃げ道』を作ってあげること。一万本あるなら、一万通りの逃げ道が必要です」


 私は、眼鏡をバフに押し当てた。

 キィィィン、という高い音が響く。

 指先に伝わる、アセテートの熱。

 熱い。

 私の手は、泥を乾かし、眼鏡を歪ませる、呪われた熱を持っている。

 

 でも、父は言った。

 『その熱があるからこそ、形を保とうとするんだ』。

 

 私は、勇人さんの完璧な数値を「壊して」いった。

 対称性を崩し、遊びを作り、素材が湿度に耐えられるだけの柔軟性を与えていく。

 

 一分。二分。

 私の手の中で、一本の「器具」が、再び「道具」へと戻っていく。

 仕上げに指先でフレームをなぞる。

 

「……できた」


 私はその一本を、そばで見ていた瑞希さんに手渡した。

 瑞希さんは疑わしげにそれを受け取り、ゆっくりと自分の顔に掛けた。

 

 一秒、二秒。

 

「……。……嫌な圧迫感がない。アセテートが、肌に馴染んでる」


 瑞希の声が、微かに震えた。

 かつて天才と呼ばれた彼女の指が、フレームのカーブをなぞり、その絶妙な「歪み」の正体を読み解こうとしている。


「富永。あんた、これ……眼鏡職人の仕事じゃないわね。まるで、一つ一つ魂を込めて土を捏ねる、陶芸家のやり方よ」


 日が暮れ、工場の窓が夜の闇に塗りつぶされていく。

 勇人さんは、社長室で父親である鰐淵社長に報告をしているのだろう。時折、雷のような怒鳴り声が、天井を伝って響いてくる。

 

 私は一人、暗い工場の中でバフを回し続けた。

 数万本という数字の前に、私の手仕事はあまりにも無力だ。

 YouTubeの中の成功者なら、きっとこう言うだろう。

 「サンクコストに囚われるな」「早めに損切りをしろ」。

 

 でも、私は、私の指先が覚えている「正解」を捨てることができなかった。

 一本、また一本。

 私の指先は摩擦で熱を持ち、薄くなった皮の隙間に、細かい粉塵が入り込んで痛む。

 

 その時。

 カツン、と床を叩く音がした。

 

 振り返ると、そこに立っていたのは勇人さんだった。

 彼は、私がリワークした数本の眼鏡を手に取り、無言で見つめていた。


「……なぜ、そんな効率の悪いことをしている」


 彼の声には、もう先ほどの棘はなかった。

 

「効率のためではありません。……ただ、この子たちが壊れていくのが、見ていられないんです」


 私は、バフを止めると静寂が戻る。

 

「富永。君の言っていた『遊び』の意味が、ようやくわかった気がする。……私のデータには、人間がそれを使うという視点が欠落していた」


 勇人さんは、私がリワークした眼鏡を、自ら鼻に掛けた。

 

「……。……悔しいが、吸い付くようだ。君の指先は、一体何を読み取っているんだ?」


「私は、何も。ただ、眼鏡が『ここを削ってほしい』と言っている場所に、手を置いているだけです」


 勇人は、自嘲気味に笑った。

 そして、傍らにあったタブレットを取り出し、猛烈な勢いで画面をスワイプし始めた。


「数万本を手作業でやるのは不可能だ。だが、君のこの『歪み』のアルゴリズムを、私のプログラムに動的に組み込むことができれば……」


 彼は、ビジネスYouTubeで語られる「最適解」を、今度は私の「職人の勘」を解析するために使い始めた。

 

 その背後で。


 「何やってんのよ、二人で」 


 紗枝さんが、コンビニの袋を提げて現れた。

 

「紗枝さん……」


「陣内課長も、坂巻工場長も、みんな外でコーヒー飲んで待ってるわよ。……『どうせ、富永が一人で無茶してるんだろうから、手伝う準備しとけ』ってさ」


 紗枝さんの言葉に、目頭が熱くなった。

 10年間、必要以上に踏み込んでこなかった彼女たちが、今、私の背中を支えようとしている。

 

 私は、大きく深呼吸をした。

 工場の空気は、まだ湿っていて、重い。

 けれど、私の背筋は、かつて山奥で座り込んでいたあの時とは比べ物にならないほど、真っ直ぐに伸びていた。


「副社長。やりましょう。……私たちの手と、あなたのデータで」


 勇人は、顔を上げ、小さく、けれど力強く頷いた。

 

 窓の外、福井の夜空に、一筋の光が差し込む。

 それは、嵐の前の静けさか。それとも、新しい時代の幕開けか。

 

 私の指先は、今、確かに熱を持っている。

 明日、この工場から生まれるのは、ただの製品ではない。

 私たちの、魂の証明だ。

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