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指先を灯す  作者: あめたす


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24/24

第24話:指先が灯す明日

第24話:指先が灯す明日


 機械が一斉に唸りを上げた。

 瀬戸口がハックした制御PCの画面上で、緑色の文字列が狂ったようにスクロールしていく。アセテートの抵抗値をリアルタイムで感知し、ヤスリの圧力をミリ秒単位で変化させる動的補正プログラム『Tsumugi-Blend』。

 ガガ、と一瞬、マシンが呼吸を詰まらせるような異音を立てた。

 開発室の隅で、瀬戸口くんが息を呑むのがわかった。


「……耐えろ」


 へたり込んだままの姿勢から、ゆっくりと立ち上がった副社長の勇人が、ディスプレイを凝視しながら低く呟いた。その顔は青白く、額には大粒の汗が浮かんでいる。


 キィィィン――。


 高回転のバフがプラスチックのフレームを捉える。いつもなら一直線に素材を削り落とす冷徹な機械の刃が、いま、確かに「迷って」いた。アセテートの硬さ、部屋の湿度、摩擦によって生じるわずかな熱。そのすべてをマシンのセンサーが感知し、まるで生き物のようにヤスリの角度を逃がしている。

 

 一本目のフレームが、排出口へ滑り落ちてきた。

 フレームのテンプル(つる)のカーブに触れた瞬間、脳裏に一本の鮮明な線が走った。


「……いける」


 私が小さく頷くと、開発室の空気が一気に弛緩し、直後に激しい熱を帯びて膨れ上がった。


「よし、全ライン、連動開始! 出荷停止分、三万二千本のリワーク(再研磨)に入る!」


 陣内課長の声が、工場の静寂を切り裂いた。

 そこからの数時間は、まるで濁流の中にいるようだった。

 マシンの自動処理が始まったとはいえ、三万本を超える眼鏡をラインに投入し、削り上がったものを検品し、再び箱に詰め直す作業は、到底私一人でこなせる量ではない。

 気がつくと、工場のメインラインには、いつの間にか会社中の人間が集まっていた。


「富永、ぼさっとしないで手を動かしなさい。箱詰めはこっちでやるから」


 百合子が、いつものデリカシーのない大声を響かせながら、パートのリーダーたちらを引き連れてダンボールを組み立て始めた。

 その隣では、若手の真美子が、最新のワイヤレスイヤホンを片耳だけ外して、淡々と検品台に座っている。


「富永さんのラインのやつは、もともと一番弾かなくて済むから楽なんです。」


 無機質で、けれどこれ以上ないほどストレートな信頼の言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 

「おい、英男! お前は何を突っ立ってんだ、お前も職人だろうが!」


 社長の鰐淵が怒鳴り声を上げた。その視線の先で、頭を掻きながら古い手動バフマシンの前に座り込んでいた。


「へへ、社長。最新のプログラムもいいですがね、機械の死角になるブリッジの裏側は、やっぱり人間の手で当てた方が早いんですよ。俺のバフも、まだ鈍っちゃいませんから」


 坂巻の手が動く。キーンという、懐かしくも鋭い研磨音が工場に響き渡る。

 社長はそれを見て、フンと鼻を鳴らすと、坂巻の隣に座り、自らも磨き始める。その大きな背中は、かつて泥臭い根性論でこの工場をゼロから作り上げた、旧時代の成功者の意地そのものだった。

 

 深夜三時。

 私はメインマシンの横で、次々と流れてくるフレームの最終チェックを続けていた。

 ふと隣を見ると、勇人さんが黙々と、仕上がった眼鏡をケースに収める作業をしていた。

 ビジネスYouTubeの中で語られる「効率的な組織論」や「再現性の高いシステム」を完璧に体現していたはずの彼が、いま、最も非効率で泥臭い「手作業」の渦中にいた。


「副社長」


 私が声をかけると、勇人さんは手を止めずに、掠れた声で言った。


「……私の負けだ、富永」


 彼は画面を見つめたまま、自嘲気味に笑った。


「私は、データさえ完璧なら、人間も素材もそれに従うものだと思っていた。福井の冬の湿度も、アセテートというプラスチックが持つ個体差も、すべて『ノイズ』として排除すればいいと。だが、排除したノイズのなかにこそ、君たちが長年守ってきた『職人の勘』があったんだな」


 私は、自分のボロボロの手を見つめた。


「副社長のデータは間違っていません。ただ、逃げ道がなかっただけです。完璧すぎる型は、時に素材を窒息させてしまうから」


 勇人さんは動きを止め、私の目を真っ直ぐに見つめた。その目には、かつての冷徹なエリートの光ではなく、泥泥とした現場の壁にぶち当たった、一人の愚直な技術者の炎が灯っていた。


「君のその『指先の感覚』を、私は諦めない。いつか必ず、完全に数値化して、私のプログラムに組み込んでみせる。……それまでの間、この工場で、君のそのボロボロの手を私に観察させてくれ」


 それは、彼なりの、最大級の再戦の誓いだった。

 私は小さく笑った。


「ええ。簡単にハックできると思わないでくださいね」


 夜明けの光が、福井の灰色の空をゆっくりと、しかし確実に白く染めていく。

 工場の窓から差し込む朝光が、山積みになった『Model-T』のフレームを照らし出した。

 生まれ変わった眼鏡たちは、機械の持つ圧倒的な正確さと、人間の指先が教えた「逃げ道」が同居する、不思議な一体感を放っていた。吸い付くような掛け心地。それこそが、私たちが徹夜で形にした、新しい量産品の姿だった。


 数日後。

 スペインから再び訪れたバイヤーの叔母、エレーナが、完成した『Model-T』を一本、愛おしそうに光にかざした。


「素晴らしいわ、ツムーギ」


 エレーナは私の方を振り返り、その情熱的な目で微笑んだ。


「この眼鏡には、呼吸がある。日本の職人が持つミニマリズムと、素材への誠実さが、この一本のカーブにすべて彫刻されているわ。バルセロナの展示会、大成功間違いなしね」


 彼女はそう言うと、バッグから小さな、真鍮製のケースを取り出して私の手に握らせた。


「これは私からのプレゼント。あなたのその『美しい手』と、これからの仕事に」


 開けると、中には目の覚めるような、鮮やかな真っ赤なリップスティックが入っていた。


 週末。

 私は実家の富永陶芸工房にいた。

 五センチ角の厚紙の上に、丸めた泥の塊を置く。手のひらでゆっくりと回しながら、手捻りで器の形を作り上げていく。

 本業の影響で、私の指先は相変わらず乾燥し、皮が厚くボロボロだ。泥の水分が私の手の熱で奪われ、ピシッと小さな亀裂が入る。

 

「おい」


 背後から、低い声がした。振り返ると、父が、相変わらず不機嫌そうな顔で腕を組んで立っていた。


「お前は本当に、物覚えの悪い奴だな」


「わかってるよ。今修正するとこだったんだよ」


 父はフンと鼻を鳴らし、棚から自分の作った歪な湯呑みを取り出すと、そこに無造作に茶を注いで私の作業台に置いた。


「親父(春道)がな、生前、親戚の寅雄に会うたびに言っていたそうだ。お前の将来が楽しみだってな」


 父は私を見ようともせず、窯の方へ歩き出しながら、ぽつりと言い添えた。


「……いい職人の手になったな、紬」


 昭和の暴君で、私を「俺には敵わない」と支配し続けてきた父。その父の背中が、いつの間にか少し小さく、丸くなっていることに気づく。父が歳を取ったのか。それとも、私が大人になって、同じ職人の地平に立てたからなのか。

 喉の奥が、ツンと熱くなった。

 私は湯呑みを手に取り、温かい茶をすする。祖父より先に死のうとして、山奥で土に溶け込もうとしたあの夜の冷たさが、いま、完全に消えていくのを感じていた。


 月曜日。

 私は再び、鰐淵眼鏡製作所の門をくぐった。

 今回のリコール騒動を経て、私はメインラインの製造管理に戻るのではなく、工場の敷地内にある古い資材倉庫の片隅を借りることを社長に認めさせた。

 名目は『動的補正プログラム開発室』。だが、みんなはそこを「紬工房」と呼ぶ。

 そこには、最新の電子顕微鏡と制御PC、そして、かつて天才職人と呼ばれた倉庫管理人の瑞希さんが隠し持っていた、古い試作フレームの山が並んでいる。


「相変わらず、無駄なことに熱心ねえ」


 瑞希さんが、椅子に深く腰掛けたまま、冷笑的な、けれどどこか楽しそうな目で私を見た。


「ここから新しい型を作るのよ、瑞希さん。機械の型をハックして、人間にしか作れない美しさを量産するの」


 そう言うと、瀬戸口くんが最新のガジェットを抱えて「富永さん、次のモデルの3Dデータ、持ってきました!」と騒がしく入ってきた。

 

 私は作業台の前の鏡を見た。

 ビジネスYouTubeを観漁っては、「市場価値」だの「海外での評価」だのという借り物の言葉に踊らされ、自分の人生を間違えたと絶望していた頃の私は、もうそこにはいなかった。

 鏡に映る私は、相変わらず歯並びが悪く、決して洗練された都会の成功者には見えない。

 けれど、私はエレーナから贈られた真っ赤なリップを、自分の唇に迷いなく、すっと引いた。

 歪な歯並びのまま、鏡の中の自分に、小さく頷く。

 私は明日も、この工場で眼鏡を何千本と作る。週末になれば、実家で泥にまみれて手を痛める。ビジネスYouTubeの通知は今でもスマホに届くし、将来への薄い不安が完全に消え去ったわけでもない。

 人間臭いドタバタと、理不尽な叱責と、ボロボロの日常は、これからもずっと続いていく。

 それでも。

 

 私の心に絡み付いていた重い鎖のようなものは、あの一歩を踏み出した夜に、綺麗に落ちていた。

 エレーナから届いた新しい眼鏡を掛け、私は工場の重い扉に手をかける。

 

 私は、型の中で自由になる。

 

 作業台に向かう私の姿勢は、ほんの少しだけ、けれど誰よりも真っ直ぐに、伸びていた。

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