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指先を灯す  作者: あめたす


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第16話:金型(かながた)の咆哮、歪な微笑み

第16話:金型かながたの咆哮、歪な微笑み


 地下倉庫の重い鉄扉が閉まる音は、今の私には宣戦布告の合図にしか聞こえない。

 薄暗い裸電球の下、瀬戸口くんが持ち込んだ高精細3Dスキャナーのレーザーが、私が磨き上げたフレームを青白く撫でていく。


「……信じられない。この表面のゆらぎ、プログラムした数値じゃない。富永さん、あなたの指先はどうなってるんですか」


 瀬戸口くんが、タブレットに表示された複雑な波形を見つめて呻く。かつて私を「AIに代わられる量産職人」と無邪気に切り捨てた彼の瞳には、今や未知の深淵を覗き込むような畏怖が混じっていた。


「私の手は、ただ眼鏡と喧嘩しているだけよ」


 私は、ボロボロになった指先の腹を、無意識に親指でなぞった。指の裂け目には泥の粒子が食い込み、眼鏡の研磨剤と混ざり合って、消えない「職人の痣」のようになっている。ハンドクリームを塗っても追いつかないこの痛みこそが、私が「ここ」に存在している何よりの証拠だった。

 矢野さんが、傍らで古い旋盤に油を差し、低く笑う。


「瑞希さん、笑わないでください。これ、本当にやるんですか」


「当たり前じゃない。勇人の坊ちゃんが導入した最新鋭の全自動加工機(CNC)は、確かに一万本を寸分違わず削り出す。でもね、あの子は『遊び』を知らないの。鋼鉄の刃が、素材の呼吸を無視して無理やりねじ伏せるから、微細な歪みが蓄積して、最後には魂の抜けたガラクタが生まれる」


 瑞希さんは、高岡さんが遺した「未完成の金型」を愛おしそうに撫でた。


「この金型には、わざと0.01ミリの『隙』が作られている。勇人のプログラムでは、この隙間が致命的なエラーとして処理される。でも、富永さんの指先の熱と、瀬戸口くんのデジタル・ハックがあれば……」


「そのエラーを、誰も真似できない『光の屈折』に変換できる」


 私が言葉を継ぐと、瀬戸口くんが力強く頷いた。


「やりましょう。全自動マシンの制御プログラムを書き換えます。富永さんの指の動きを、数式のふりをして流し込む。マシンに『職人の呼吸』を無理やり学習させるんです。組織の秩序を、内側から美しく壊すために」


 作業は深夜に及んだ。

 かつて、私はこの時間、冷え切った自室でビジネス系YouTubeを見漁っていた。画面の中の成功者が説く「レバレッジ」や「自己投資」という言葉を、すがるように飲み込んでは、現実の自分とのギャップに吐き気を催していた。

 だが、今は違う。

 イヤホンから流れるのは、成功者の演説ではない。

 祖父・春道が愛した「ベサメ・ムーチョ」のメロディを、脳内で反芻する。

 

 ――もっと熱く、私にキスして。

 私の指先は、アセテートの板を、まるで恋人の肌を愛撫するように、あるいは父・誠が土を手捻りで立ち上げるように、繊細かつ大胆に誘導していく。

 摩擦熱で素材が柔らかくなる瞬間、その刹那の「溶け」を感じ取り、力を抜く。

 組織の中で干され、閑職に追いやられたことで、皮肉にも私は「自由」を手に入れた。

 誰の視線も気にせず、ただ、目の前の0.01ミリと対話する。

 

「……できた」


 瀬戸口くんの声が震えた。

 全自動加工機から吐き出されたそのフレームは、一見すればどこにでもある量産品と同じ形をしていた。

 だが、窓から差し込む冬の朝光に透かした瞬間、瑞希さんが息を呑んだ。

 光が、フレームの中で生きているように踊っている。

 量産品の均一さと、一点物のゆらぎ。

 それは、ビジネスYouTubeが謳う「効率」では決して到達できない、不合理なまでに美しい正解だった。

 その時、地下の階段を降りてくる、規則正しい足音が聞こえた。

 副社長、鰐淵勇人。

 彼は、閑職に追いやったはずの私が、なぜまだここにいるのかを確認しに来たのだろう。


「富永さん。まだデータの整理が終わっていないようだが……」


 勇人の言葉が、作業台に置かれた「それ」を見て止まった。

 彼は眼鏡を取り、代わりに「私たちの共謀」から生まれた一本を手に取った。

 

「……これは、何だ。私の知っている設計データに、こんな反射の計算は入っていない」


「副社長。あなたが信じている数字には、重力が抜けているんです」


 私は、汚れ、ひび割れた手を隠すことなく、彼に向けた。


「この手は、重力を知っています。素材の痛みを、土の冷たさを、そして、組織に磨り潰されそうになった人間の意地を知っています。これはコストではありません。あなたの会社を、世界で唯一のものにする『重み』です」


 勇人は、何も言い返さなかった。

 彼の整った顔が、驚愕と、そして深い敗北感に歪む。

 かつての私なら、その表情を見て優越感に浸ったかもしれない。

 だが今の私にあるのは、静かな諦観と、一握りの自尊心だけだ。


「……瑞希さん、瀬戸口くん。行きましょう。朝のチャイムが鳴ります」


 私は、二人を促して倉庫を出た。

 すれ違いざま、勇人の眼鏡に映った私の顔。

 歯並びは相変わらず悪く、決して「海外の成功者」のような洗練された美しさはない。

 けれど、その歪な口元は、確かに笑っていた。

 工場の廊下を歩く。

 背筋を伸ばし、一歩一歩、足裏で確かめながら。

 

 物語は、ここから加速する。

 勇人の論理が、私たちの情熱を完全に理解することはないだろう。

 明日にはまた、新しい理不尽が、新しい絶望が、私を押し潰そうとするかもしれない。

 

 でも、構わない。

 指先には、まだ火が灯っている。

 

 私は、少しだけ姿勢を正して、タイムカードを打った。

 職人の朝は、これからが本番だ。

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