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指先を灯す  作者: あめたす


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第17話:土と鋼の共鳴、職人の「聖域」

第17話:土と鋼の共鳴、職人の「聖域」


 工場の朝のチャイムは、かつての私にとって「自由の終わり」を告げる葬送の鐘だった。

 けれど今、閑職である資材倉庫から製造棟へと続く渡り廊下を歩く私の耳には、それがオーケストラの開演を告げるベルのように響いている。

 昨夜、地下倉庫で産み落とした『共謀の結晶』――全自動加工機(CNC)が削り出し、私の指先が「呼吸」を教え込んだあの一本は、今ごろ副社長・勇人のデスクで、彼の冷徹な合理主義を静かに侵食しているはずだ。


「富永さん、おはよう。……なんだか、今日はずいぶん足取りが軽いのね」


 検品室の入り口で、谷口百合子さんが怪訝そうに私を呼び止めた。その隣では、若手の堀川真美子がスマホをいじりながら、ちらりとこちらを見て「富永さん、なんか雰囲気変わりました?」と無機質に、けれど確かな観察眼で言葉を添える。


「そうですか? 空気が美味しいだけですよ、百合子さん」


 私は、ボロボロになった指先を隠さず、彼女たちに小さく手を振って通り過ぎた。

 

 工場の空気は、研磨剤の粒子と油の匂いで満ちている。ビジネスYouTubeの成功者たちが語る「クリーンなオフィス」や「洗練されたテレワーク」とは程遠い、泥臭い労働の現場。

 だが、その油の匂いの中に、私は微かな「土」の気配を感じ取っていた。

 週末、実家の工房で捏ね上げ作り出した器。

 父が「お前には敵わない」と突き放しながらも、私の器を見て、隠しきれない動揺を見せたあの瞬間。

 眼鏡の素材であるアセテートと、陶芸の泥。

 一方は化学合成された樹脂であり、一方は数千年の時を経た大地の一部。

 全く異なる性質を持つそれらが、私の指先の中では、同じ「形を成そうとする意志」として繋がっている。


「富永。ちょっといいか」


 背後から声をかけてきたのは、実質的な現場の司令塔、陣内課長だった。

 彼は周囲を気にしながら、私を機械の駆動音が激しいプレス機の陰へと促す。


「副社長が、富永が昨夜提出した(……正確には、彼が勝手に見つけたはずだが)あの試作フレームを見て、朝からずっと黙り込んでいる。勇人さんは、あれを『エラーの産物』として廃棄しようとしたが……照実さんがそれを止めた」


「照実さんが?」


「ああ。照実さんがね、『この輝きを捨てるなら、私は経理としてこの工場の資産価値をゼロにする』とまで言ったんだ。……富永、一体あの中で何をした?」


 私は、陣内課長の問いに答えず、ただ自分の手を見つめた。

 指先は乾燥し、皮は厚くなり、美しさからは程遠い。

 けれど、この節くれだった指が、0.01ミリの隙間に潜む「美」を、最新鋭の機械に教え込んだのだ。


「課長。私はただ、組織という大きな型の中で、どうすれば自分が一番『速く、正確に、そして自分らしく』いられるかを考えただけです」


「……お前のじいさんも、そんな顔をして大工仕事をしていたよ。型にハマっているようでいて、実は型を一番利用しているような、不敵な面構えだ」


 陣内課長は、ふっと口角を上げると、私の肩を軽く叩いた。


 午後。

 私は、勇人に命じられたデータの整理を早々に終わらせ、瑞希さんのいる資材倉庫へと戻った。

 そこには、瀬戸口くんが待ち構えていた。

 彼は昨日までの迷いを捨てたような、研ぎ澄まされたデザイナーの顔をしていた。


「富永さん。勇人さんは、あのフレームを量産ラインに乗せることを検討し始めました。ただし、条件があります」


「条件?」


「『富永紬』という名前を出さないこと。あくまでマシンのアップデートとして処理すること。……勇人さんは職人の個性を認めることを恐れているんです」


 瑞希さんが、錆びついた旋盤の横でパイプ椅子に腰掛け、面白そうに目を細めた。

 

「どうする、富永。名前を消されて、ただの『ゴースト職人』として組織に飼われるかい?」


 私は、窓の外に広がる福井の冬空を見上げた。

 どんよりとした雲の切れ間から、鋭い光が差し込み、積もった雪をキラキラと反射させている。

 かつての私なら、二つ返事で頷いただろう。

 目立たず、波風を立てず、組織の歯車として静かに生きていくことが、生存戦略だと信じていたから。

 ビジネスYouTubeの動画は、常に「自分を高く売る方法」を説いていた。

 けれど、今の私が求めているのは、自分を「売る」ことではない。

 

 私が、私という道具を使って、世界に何を刻めるか。

 

「名前なんて、どうでもいいです。瑞希さん、瀬戸口くん。私が作った眼鏡をかけた人が、ふとした瞬間に鏡を見て、自分の顔を少しだけ好きになったり、その眼鏡のテンプルに触れた時、言いようのない温もりを感じる。……その時、私の意志は、名前がなくてもその人に伝わっているはずだから」


 瀬戸口くんが、ハッとしたように目を見開く。

 

「それこそが……『ブランド』の本質ですよね」


「……ふん。相変わらず、可愛げのない女だねえ」


 瑞希さんはそう言いながらも、隠し持っていた秘蔵の古いヤスリを、私に放り投げた。


「いいかい、富永。勇人の坊ちゃんが油断しているうちに、私たちは次の仕掛けを施すよ。マシンのプログラムに、もう一段階上の『不規則性』を組み込む。今度は、陶芸の窯変ようへん――炎が偶然作り出す色彩を、アセテートの積層の中で再現する」


「……やってやりましょう」


 私は、瑞希さんから受け取ったヤスリの重みを噛み締めた。

 

 定時。

 工場を出ると、冷たい風が頬を刺した。

 私はスマホを取り出し、久しぶりにYouTubeを開いた。

 おすすめに並ぶ「年収一千万稼ぐための思考法」「負け組にならないキャリア戦略」。

 

 私は、それらをすべて「興味なし」に放り込み、アプリを閉じた。

 

 画面が消え、暗くなったスマホの表面に、自分の顔が映る。

 相変わらず歯並びは悪く、指先はボロボロだ。

 けれど、その奥にある瞳は、かつて山奥で消え去りたいと願っていた時の死んだ魚のような色ではない。

 

 私は、一歩を踏み出す。

 歩けば歩くほど、悩みは晴れる。

 だが、今はもう現実から逃げるために歩くのではない。

 

 今夜は、母のビーフシチューが待っている。

 そして明日、私は再び父の工房で土と向き合う。

 眼鏡と陶芸。組織と個。

 二つの世界を、私はこのボロボロの手で繋ぎ合わせていくのだ。

 

 私は、深く息を吸い込み、冷たい空気で肺を洗った。

 そして、誰に見せるでもなく、少しだけ姿勢を正した。

 

 背筋を伸ばすと、世界が少しだけ広く見える。

 指先には、まだ、消えることのない熱が灯っていた。

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