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指先を灯す  作者: あめたす


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第14話:錆びついた鏡と、地下の咆哮

第14話:錆びついた鏡と、地下の咆哮


 工場の地下へと続く階段は、一段降りるごとに湿り気を帯びた冷気が足元から這い上がってくる。

 昨日まで私がいた、清潔で光に満ちた製造ライン。そこから遮断されたこの場所は、まるで忘れ去られた墓標のようだった。

 

 重い鉄の扉を開けると、埃が舞い、カビと古い潤滑油の入り混じった匂いが鼻を突く。


「……失礼します」


 私の声は、高く積み上げられた段ボールの山に吸い込まれ、力なく消えた。

 

「……新しい『生贄』が来たわね」

 

 部屋の隅、ガタつく事務机に腰掛けていた女性――矢野瑞希が、手元のアナログな新聞から目を離さずに言った。

 かつて「鯖江に矢野あり」と謳われた伝説の職人。しかし今、私の前にいるのは、脂の抜けたカサカサの手を膝に置き、死んだ魚のような目で虚空を見つめる、ただの「管理人」だった。

 

「富永紬です。今日からこちらで、データ入力と在庫整理を申し付かりました」


「データ入力、ね。……あのお坊ちゃん副社長が言いそうなことだわ。あいつは、指先のタコよりも、エクセルの数字の方が『美しい』と思ってるのよ」

 

 瑞希は、錆びついた蝶番のような声で笑うと、私のデスクを指差した。

 そこにあったのは、画面の端が黄色く変色した古いデスクトップPCと、大量の伝票の束。

 私は椅子を引き、腰を下ろした。

 

 ――カチ、カチ、カチ。

 

 マウスをクリックする音だけが、静寂を刻む。

 数時間前まで、私は0.1ミリの狂いもなくフレームを研磨し、素材の「声」を指先で聴いていた。それが今は、無機質な数字を打ち込むだけの作業。

 ビジネスYouTubeが説く「市場価値」や「キャリアパス」という言葉が、頭の中で呪文のように回り始める。


『無駄な努力は、機会損失である。最速で損切り(リセット)せよ』

 

「……損切り、か」

 

 思わず口から漏れた言葉に、瑞希が反応した。


「あんた、さっきから変な独り言を言ってるわね。成功者の真似事? そんなもん、この地下には届かないわよ」


「……すみません。でも、私はこのまま腐りたくないんです」


「腐る? 贅沢ね。ここは『死体置き場』よ。使い古されて、弾かれた職人の。あんたも、私も」

 

 瑞希は立ち上がり、棚の奥から一つ、埃を被った箱を取り出した。

 その中には、数十本の試作フレームが入っていた。どれもが、現代の洗練されたデザインとはかけ離れた、無骨で、しかし異様なまでの生命力を放つ曲線を持っていた。

 

「これ……」


「私の遺作。……と言いたいけれど、副社長の親父――鰐淵社長に『コストがかかりすぎる』ってボツにされたゴミよ。機械じゃ再現できない、指の加減が必要な設計。今の工場には、これを形にできる馬鹿は一人もいない」

 

 私は吸い寄せられるように、その一本を手に取った。

 指先に触れた瞬間、電気が走った。

 

 ――このカーブ、知っている。

 

 それは、父・誠が手捻りで器を作る際、厚紙の上で泥が描く、あの「命の揺らぎ」と同じ曲線だった。

 不意に、父の言葉が蘇る。


『職人が仕事を干された時にやることは一つだ。誰にも文句を言わせない「化け物」を作り出す。それだけだ』

 

「矢野さん。これ……磨いてもいいですか?」

 

 瑞希は目を見開いた。


「……バフ機もないこの部屋で? 爪で削るつもり?」


「いいえ。私は、職人ですから」

 

 私は鞄から、私物のハンドクリームと、数種類の細かな耐水ペーパーを取り出した。そして、週末に工房で使い続けている「秘密の研磨布」を。

 

 私は、ビジネスYouTubeを聴くために使っていたワイヤレスイヤホンを外した。

 

 シュッ、シュッ、と。

 地下室に、素材を削る繊細な音が響き始める。

 私の指先は、キーボードを叩くためのものではない。

 一万回繰り返された量産の記憶と、土にまみれて手に入れた「熱」を、一つの形に込めるためのものだ。

 

 数時間が経った。

 窓のない地下室では時間の感覚が狂う。けれど、目の前にあるフレームは、地下の貧弱な蛍光灯の下で、月光のような冷たく、鋭い輝きを放ち始めていた。

 

 瑞希が、震える手でそのフレームを奪い取った。


「……信じられない。あんた、この短い時間で……アセテートの『芯』まで指が届いてる」


「私は、ただの『部品』じゃありません。私は、富永紬です」

 

 その時、地下の扉が勢いよく開いた。

 入ってきたのは、不機嫌そうな顔をした副社長の勇人だった。

 

「富永さん。データの入力はどうなってる。遊びでゴミをいじっている暇があるなら――」

 

 言葉が止まった。

 勇人の視線が、瑞希の手に握られた、あのフレームに釘付けになる。

 

「……それは、何だ。現行のラインに、あんな輝きを出せる工程はないはずだ。どの機械を使った」

 

 私はゆっくりと立ち上がった。

 以前のように、彼の視線に縮こまることはない。

 むしろ、彼を見下ろすような感覚さえあった。

 

「機械は使っていません。副社長が『非効率』だと切り捨てた、私のこの手がやったことです」

 

 私は、ボロボロで、節くれ立ち、油の匂いが染み付いた自分の手を、彼の目の前に差し出した。

 

「私の指先には、一万本のネジを締めた記憶と、一万個の器を回した熱があります。それは、あなたのタブレットの数字には、一生書き込めないデータです」

 

 勇人の顔が、屈辱で歪む。


「……たった一本の試作品で、何が変わると思っている。ビジネスは、再現性だ。君一人にしかできないことは、組織にとってリスクでしかない」


「なら、そのリスクを、あなたが制御してみせればいい。それが『マネジメント』でしょう?」

 

 かつてYouTubeで聞きかじった言葉が、今の私には「自分の言葉」として、重く、鋭く響いた。

 

 勇人は何も言わずに背を向け、扉を乱暴に閉めて去っていった。

 

 嵐が去った後の地下室。

 瑞希は、私の顔をじっと見つめていた。


「……あんた。いい顔になったわね。……ちょっと、手を見せなさい」

 

 彼女は私の手を取り、その硬くなった皮膚を、愛おしそうに撫でた。


「いい職人の手よ。……富永紬。明日もここに来るんでしょ?」


「はい。まだ、整理しなきゃいけない『お宝』が、ここにはたくさんありますから」

 

 私は、もう一度デスクに向かった。

 相変わらず部屋は暗く、カビの匂いがする。

 けれど、今の私には見える。この暗闇の中に、無数の指先の灯火が、今にも燃え上がろうとしているのが。

 

 私はキーボードではなく、再びヤスリを手に取った。

 背筋を、かつて祖父が建てた神社の柱のように、真っ直ぐに伸ばして。

 

 私の闘いは、ここから始まる。

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