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指先を灯す  作者: あめたす


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第13話:光の射す場所、影の伸びる場所

第13話:光の射す場所、影の伸びる場所


 眼鏡のフレームを研磨するバフ機の回転音が、今日も工場に響いている。

 あの日、山奥で消え去りたいと願った夜から半年。私の背筋は、磨き抜かれた一本の芯を通したように、真っ直ぐ作業台に向かっている。

 

 バルセロナでの成功は、私に「責任者」という肩書きをもたらした。

 一万分の一の作業を完璧に繰り返す。その「量産職人」としての矜持は、今や工場の若い職人たちの指針になりつつあった。

 

「富永さん、ここのテンプルの磨き、チェックお願いします」


「いい艶ね。でも、あとコンマ一ミリ、角を落として。掛ける人の耳の裏に、もっと優しく寄り添うように」

 

 後輩に声をかけ、ふと窓の外を見る。福井の空は低く、淡い灰色に沈んでいるけれど、今の私にはその色が「落ち着いたアセテートの生地」のように美しく見えた。

 順風満帆。

 私の人生という名の最高傑作は、ようやく正しい設計図の上を走り始めた。

 ……そう、思っていた。

 

 ガシャッ、と。

 工場の入り口の重い鉄扉が、不快な音を立てて開いたのは、そんな昼下がりのことだった。

 

「……何の騒ぎ?」

 

 ラインの動きが止まる。

 入ってきたのは、社長の鰐淵利幸。その後ろには、見慣れない高級なスーツを纏った若い男が、冷徹な視線を工場内に走らせて立っていた。

 男の顔を見て、工場長の坂巻さんが露骨にたじろぐ。

 

「よお、皆。今日は大事な発表がある」

 

 社長の声が、バフ機の低音を切り裂いた。

 

「わが社は来月から、海外の大手アパレルチェーンと大規模なOEM契約を結ぶことになった。月産、今の三倍だ。それに伴い、経営体制を刷新する。……紹介しよう。私の息子で、今日から副社長に就任する、鰐淵勇人だ」

 

 副社長。

 その男――勇人は、私たちが手塩にかけて調整してきた作業台を、まるで汚物でも見るような目で一瞥し、口を開いた。

 

「初めまして。……と言っても、皆さんと仲良くするつもりはありません。僕の仕事は、この『非効率な骨董品』のような工場を、数字で戦える組織にハックすることですから」

 

 その声を聞いた瞬間、私の背筋に、嫌な冷気が走った。

 

 その日の夕方。

 私は、新副社長に呼び出された。

 かつての私なら、この部屋に入るだけで歯並びを気にし、指先を隠していただろう。けれど今は違う。私は真っ直ぐに彼を見据えた。

 

「富永紬さん。君が例の『限定モデル』を成功させた責任者だね」

 

 勇人はデスクの上のタブレットに指を滑らせ、表情一つ変えずに続けた。

 

「君のやっていることは、職人の自己満足だ。一万本の中に『一万回分の体温』を込める? そんなポエムは、うちのキャッシュフローには一円の足しにもならない。これからのOEMに必要なのは、体温のない、均一で安価なプロダクトだ」

 

「……眼鏡は、道具である前に、人の顔の一部になるものです。均一であればいいというものでは――」

 

「反論は求めていない」

 

 勇人は私の言葉を遮り、一枚の書類を突きつけた。

 

「君の『作家性』は、今のラインには邪魔だ。他の職人のスピードを鈍らせる。明日から、君のデスクは地下の資材倉庫に移してもらう」

 

「資材……倉庫?」

 

「ああ。データの入力と、過去の不良品の在庫整理だ。君のその『正確な指先』は、キーボードを叩くのには向いているだろう?」

 

 頭の後ろを殴られたような衝撃だった。

 責任者からの、事実上の解任。それどころか、職人としての「死」を宣告されたに等しい。

 

 更衣室に戻ると、同僚の紗枝が心配そうに私を待っていた。

 

「紬ちゃん……聞いたわ。副社長、ひどすぎる。坂巻工場長も必死に止めたんだけど、社長が息子に全権を握らせちゃって……」

 

「大丈夫、紗枝さん。……慣れてるから。こういう理不尽には」

 

 私は強がって笑った。けれど、更衣室の鏡に映った自分の顔は、真っ赤なリップを塗っているのに、どこか色褪せて見えた。

 

 家に帰ると、父・誠が工房の掃除をしていた。

 私は何も言わずに、厚紙と泥を手に取る。

 

「……紬。手が震えてるぞ」

 

 誠の声に、ハッとした。

 泥を捏ねる指先が、目に見えて刻んでいた。

 

「会社で、何かあったな」

 

「……干されたの。私のやり方は非効率だって。倉庫でデータ入力だけしてろって言われた」

 

 悔しさが、泥の中に滴り落ちる。

 誠は私の作業をじっと見ていたが、やがて短く言った。

 

梯子はしごを外されたか。……だがな、紬。梯子を外されて困るのは、宙に浮いてる奴だけだ。お前はもう、自分の足で土の上に立ってるんだろ」

 

 父の言葉が、冷え切った胸に微かな火を灯す。

 

「いいか。職人が仕事を干された時にやることは一つだ。誰にも文句を言わせない『化け物』を作り出す。それだけだ」

 

 翌朝。

 私は重い足取りで、工場の地下にある資材倉庫の扉を開けた。

 埃っぽく、カビの匂いが漂う薄暗い空間。

 そこには、かつて「天才」と呼ばれながら、組織に磨り潰されて引退したはずの元職人、矢野瑞希が、壊れた椅子に座って古い新聞を読んでいた。

 

「あら。新しい『生贄いけにえ』が来たわね」

 

 瑞希は、錆びついたような声で笑った。

 

 私は、震える指先をぎゅっと握りしめた。

 ビジネスYouTubeの中の成功者たちは、こんな時「レバレッジ」や「ピボット」という言葉でスマートに解決するのかもしれない。

 けれど、私は泥臭い職人の娘だ。

 

 この暗闇の中で、もう一度火を灯してやる。

 私はデスクに座り、目の前の古いキーボードに指を置いた。

 その背筋は、まだ、折れてはいない。

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