第3話 血清価値
金属製のベッドがきしむ音で、篠原凪は目を覚ました。天井の白いパネルに、擬似朝を告げる灯りがじわじわと広がっていく。寝返りを打つたび、右腕の内側が鈍く痛んだ。
昨日、採血された場所だ。
刺された痕は小さな赤い点になっていた。指先で触れると、ほんのり熱い気がする。そこに、「自分の価値」が詰まっているような錯覚が、じわりと胸の奥を重くした。
ベッドの向こう側で、芦原サラが小さく唸った。毛布を握る指に力が入り、額に薄く汗が浮かぶ。八代怜が椅子に腰かけたまま、半分眠りながらも彼女の脈を指で追っていた。
怜、寝てないのか。
凪が声をかけると、怜はまぶたをゆっくり上げた。目の下のクマがいつもより濃い。
少しだけ。血中データ、ずっと見てた。
端末の画面には、色と線のグラフがびっしり並んでいる。素人目にはただのカラフルな落書きだが、怜にはそこに意味が見えているのだろう。
サラは。
数秒ごとに変わる。上がって、下がって、また上がって。安定はしてないけど、昨日みたいな一気の崩れ方じゃない。
怜がサラの額に触れる。サラはうっすらと目を開け、凪を見た。
……おはよ。
かすれた声だったが、昨日よりはずっとマシだ。凪は安堵の息を吐く。
その時、天井のスピーカーが起動音を鳴らした。
篠原凪の血液解析が完了しました。代表篠原の血液から顕著な異常値は検出されませんでした。安全性評価、A。
乾いた女声が、部屋の空気を一瞬で変えた。
安全性評価A。
言葉の意味は単純だ。「今のところ危険じゃない」というだけのラベル。それなのに、周囲の視線が一斉に凪に集まる。
お前、Aなんだ。
向かいのベッドから大垣迅が身を起こす。まだ髪は寝癖だらけなのに、目だけは鋭かった。
自分で決めたわけじゃない。
凪は苦笑しながらも、胸の奥がざわつくのを止められない。「安全性評価A」という印が、自分の額にスタンプされたような気分だった。
廊下代わりの通路から、ばたばたと足音が近づいてくる。
おはよう、Aランクさん。
倉敷ミナが、いつも通りの軽い調子で入ってきた。手には小さなホワイトボードと、カラフルなペンの束を抱えている。
何、その言い方。
凪が眉をひそめると、ミナはにやりと笑った。
だってそうでしょ。公式に「安全性A」って言われたの、今のところアンタだけだよ? つまりここで一番「飲んでも死なない血」ってこと。
雑なまとめ方だな。
北園レオがベッドの端に座りながら苦笑する。だが、その目は冗談だけで動いてはいなかった。興味と期待と、わずかな羨望が混じっている。
スピーカーが続ける。
本日の給水ルールを告知します。代表制は継続。代表者は百ミリリットルの試飲権を持つ。その他参加者の給水は、一人五十ミリリットルまでとする。
誰かが小さくうめいた。五十ミリ。昨日より減っている。
また減ったのかよ。
牧村がぼそっとこぼす。
なお、本日より、血液サンプルの二次利用に関する試験を開始します。詳細は適宜告知します。
その一文が、意味の分からない不安を残して、放送は途切れた。
二次利用。
怜が眉を寄せる。
血清を、何に使うつもり。
凪は、右腕を無意識に押さえた。まだ痛むその場所から、何かがじるじると抜き取られていく気がしてならない。
ミナは、そんな空気を楽しむようにホワイトボードを立てかけた。
さ、じゃあ本日の企画会議始めまーす。
企画会議?
凪が聞き返すと、ミナはペンで「本日のテーマ」と書き、太線で囲んだ。
せっかくさ、「安全性Aの血液」が手に入ったんだから、活用法について真剣に検討しないと。
いや、俺のだよ、それ。
凪が即座にツッコむと、ミナは肩をすくめた。
そう、アンタの。でも同時に、「この部屋全体の資源」でもある。だってほら、昨日の放送聞いたでしょ。「代表者の血清は環境調整に利用されます」って。
それは、施設の話だろ。俺たちが勝手に使っていいとは――
五十ミリの水に、数滴混ぜたらどうなるかな。
レオがぽつりと言った。場の視線が彼に集まる。
安全性Aってことはさ、「飲んでも変な反応が出なかった血」ってことでしょ。もし、毒が「反応の強さ」で判定されてるなら、その血を混ぜれば、何か変わるかもしれない。
理屈としては雑すぎる。だが、「A」というラベルは、それを補って余りある説得力を持っていた。
数滴くらいなら、凪も死にはしないだろうしな。
牧村が冗談めかして笑う。笑いながらも、目は冗談ではない。
やめろよ。俺、家畜かなんかになったっけ。
凪は思わず声を荒げた。
冗談だって。
牧村は手をひらひらさせる。その軽さが、逆に凪の神経を逆撫でした。
怜が静かに口を開く。
……理屈がないわけじゃない。
え。
全員の視線が怜に集まった。彼女は端末の画面を指でなぞりながら、透明なグラフを空中に映し出す。
サラの血中データ。水を飲んでいないのに中毒症状が出たって、昨日話したでしょ。
怜はサラの手を軽く握りながら続ける。
もしも――よ。もしも毒が「水そのもの」じゃなくて、「体内に元からある何か」とくっついて活性化するタイプだとしたら。
毒が、内側にある。
凪は、昨日牧村が言った言葉を思い出す。
水は、そのスイッチを押すトリガー。だとすると、血清の中には「押される前」と「押された後」の両方が混ざってる可能性がある。
つまり。
大垣が腕を組む。
血を通して、それを他人に移したり、逆に中和したりできるってことか。
怜は、即答を避けるように一拍置いてからうなずいた。
感染って言うと誤解を生むけどさ。イメージとしては近い。ある人の体内で起きた反応が、別の人の体内で違う働きをすることもある。
全部仮説だけど、と前置きしつつも、その目は本気だった。
もし凪の血が「毒が活性化してない状態」だとしたら――それを少量混ぜることで、他の人の中で何かが起こるかもしれない。悪い方にも、良い方にも。
賭けだな。
三雲トウマがぽつりと呟いた。
でも、「何もしない」って選択も、じわじわ全員を削るだけだ。
誰かが喉を鳴らす音がした。
ミナは、ボードに大きく文字を書いた。
血清ドネーション制度。
その四文字に、凪の背筋がぞくりと冷たくなる。
ちょっと待て。それ、完全に俺の合意飛ばして進んでない?
もちろん合意は取るよ。
ミナは笑う。
ただ、「取るための場」を今から作るの。ほら、こういうの、コンテンツ化しないともったいないでしょ。
コンテンツ。
その言い方に、凪は思わず言葉を詰まらせた。ミナはペンを走らせながら説明する。
まず、凪くんが一日に提供できる血の量には限りがあります。過剰採血は危険。だから、一日に提供できるのは、例えば「五人分、各数滴」まで。
勝手に決めるな。
いや、これはむしろ凪くんを守るための制限だよ。上限がないと、みんなが「自分も自分も」って群がって、結果的にアンタが倒れる。
それは、たしかに正論だった。
だから、「誰に分けるか」を決める必要がある。ここで「仲のいい人から」とか「代わりに食料ちょうだい」とかやると、一気に格差と恨みが爆発する。だからこそ――
ミナはボードの下に、太字で書き込んだ。
公募抽選。
全員に応募資格あり。希望者は自分で手を挙げる。抽選で選ばれた人数分だけ、その日の「血清入り水」を獲得できる。
善意の仮面を被った市場原理。
三雲が、小さく苦笑した。
対価はどうする。
大垣が問う。ミナは待ってましたと言わんばかりにペンを走らせる。
対価は、労働ポイント。
労働ポイント?
ここでの雑務、看病、掃除、情報収集、交渉役。目に見えない働きって、評価されにくいでしょ。でも、この部屋の維持に必要な仕事。それを、ポイントとして記録する。
ミナはボードの端に「労働ポイント表」と書いた。
ポイントの多い人ほど、抽選への参加権が増える。例えば一ポイントにつき一枚の抽選券、とかね。そうすれば、「誰かのために動いた人ほど、恩恵を受けやすい」って構図ができる。
悪くない。
北園がぽんと手を打つ。
サボってるだけのやつが得するの、ムカつくしな。
ちょっと待て。
凪は首を振る。
抽選券を増やしたら、「貧乏クジ」を引く確率が上がるって話じゃないのか。これは「血をもらえる抽選」でもあるけど、「未知のものを体に入れる抽選」でもある。
それでも、並びたい人はいる。
怜が静かに言う。
ここにいる全員が、サラを見ている。何もせずに待つのが、一番怖いって分かってるから。
サラは毛布の中で、かすかに震えていた。唇の色は、また少し悪くなっている。体が、内側から何かに揺さぶられているみたいだ。
……もし、凪くんの血で、これが止まる可能性があるなら。
そう言ったのは、意外にもサラ本人だった。掠れた声で、唇を噛みながら。
私、試すよ。
やめろよ。
凪は即座に言い返した。
それで何かあったら――
何もしないより、マシ。
サラの目は、意外なほど強かった。怜がその肩に手を置く。
サラ。慎重にやる。絶対。
ミナは、そのやり取りすらコンテンツに変えるような目で見ていた。
いいね。ドラマある。
やめろ、その言い方。
凪は思わず苛立ちをぶつける。
人の生死を「面白い」で語るな。
ミナはほんの一瞬だけ目を細め、すぐにいつもの笑みを戻した。
ごめん。職業病。
その短い謝罪に、本気と冗談が半々で混ざっている。
午前中いっぱいを使って、「労働ポイント表」が作られた。ベッドの移動、掃除、看病の当番、配給時の整列管理。様々なタスクにポイントが割り振られ、各人の名前の横に数字が刻まれていく。
凪は、その表を眺めながら、自分の名前の横に書かれた「3」という数字に目を止めた。
記録と分析。
それが彼に割り振られた役割だった。水の配分や投票の記録、発言のログ。彼の端末には、ここ数日の出来事が時系列で保存されている。
午後。抽選の時間が来た。
ミナが持ってきたのは、白いプラスチックの箱だった。上部に小さな穴が空いている。中でカラカラと何かの音がする。
それ、どこから。
備品庫。ラベルに「乱数抽出用」とか書いてあった。絶対こういう時に使うやつでしょ。
ミナは箱を振りながら笑う。
各自、自分の抽選券を折りたたんで入れて。ポイントの枚数分ね。
紙片が次々と箱に放り込まれていく。誰もが、その小さな紙に願いと恐怖を一緒に畳み込んでいた。
凪も二枚の紙を入れようとして、ふと手を止める。
俺、入れていいのかな。
え、何で。
北園が首をかしげる。
自分の血、自分で飲んで何か意味ある?
凪は苦笑しながら紙を握りつぶし、ポケットに押し込んだ。
いいや。俺は、さっき飲んだばっかだし。
抽選券の回収が終わると、ミナは箱の蓋を閉め、よく振った。中身がシャカシャカと音を立てる。
じゃあ、記念すべき第一回、血清ドネーション抽選会を始めまーす。
その芝居がかった声に、誰かが小さく笑い、誰かが舌打ちし、誰かが祈った。
最初の当選者は、サラだった。
え。
本人が一番驚いていた。怜は小さく息を呑み、凪の方を見た。
大丈夫?
……大丈夫じゃないけど、やるしかない。
凪は医療ブースに移動し、採血アームに腕を差し出した。さきほどとは違い、今度はほんの数滴だけだ。それでも、針が刺さる瞬間の緊張は消えない。
透明なチューブを通って、小さな試験管に血が落ちる。怜が慎重にそれを取り出し、少量の水と混ぜた。
サラはベッドの上で、怜が差し出すカップを見つめていた。手は震えているが、目はしっかりしている。
……いくよ。
怜の声にうなずき、サラは唇をカップに付けた。一気に飲み干すのではなく、少しずつ。喉の動きが、凪の目にはスローモーションのように映った。
飲み終えた後、サラはしばらく目を閉じていた。見守る全員の時間が止まる。
どう。
怜がそっと尋ねると、サラはゆっくり目を開けた。
……分かんない。
そりゃそうだ、と誰かが小さく笑った。すぐに怒ったような視線が飛び、その笑いは喉の奥で止まる。
しばらく様子を見よう。
怜が結論を出し、サラは再び横になる。
二人目、三人目と抽選が進む。北園、牧村、そして小柄な女子の真帆が当選した。それぞれに、数滴の血が混ざった水が渡される。そのたびに凪の腕から少しずつ血が抜かれていく。
夕方には、右腕が重く感じられ始めていた。
ちょっと休もう。
怜が止めてくれなかったら、凪はもっと無理をしたかもしれない。
抽選会が終わり、箱が机の上に無造作に置かれたままになった。凪が水を飲んで喉を潤していると、視界の端で違和感が動いた。
箱の角が、微妙に変形している。
さっき見たときと、形が違う。
凪は立ち上がり、箱に近づいた。持ち上げると、予想とは違う軽さだった。蓋をそっと開ける。中には、抽選券を入れる前に見たときと違う色のラインが入っている。
これ、同じ箱じゃない。
凪は、心の底が冷たくなるのを感じた。
背後から、ひょいっと顔が覗き込む。
バレた?
ミナだった。
いつすり替えた。
抽選の前。みんなが券を書いてる間に。
凪は箱を見つめた。
仕込み、入れた?
入れてないよ。
ミナは即答する。その目は、嘘をついているようには見えない。
ただ、「抽選そのもの」をちゃんとランダムにし直しただけ。
意味が分からない。
凪が眉を寄せると、ミナは指で箱の内側をなぞった。
最初に持ってきた箱、中に仕切りがあったんだよね。上の層と下の層で、抽選券が偏る構造。あれ、どう考えても公平じゃない。
だからって、黙って変えるなよ。
言ったら、面白くなくなるでしょ。
その言い方に、凪の苛立ちが一気に燃え上がる。
ここ、撮影スタジオじゃないんだぞ。
ミナは肩をすくめた。
配信者の編集は、現実にも効くの?
凪は言った。
都合の悪いとこカットして、いいとこだけ並べ替えてさ。それで「面白い物語」に見せるのが仕事なんだろ。でも、今やってるのは、そういう「編集」じゃないのか。
ミナの目が、一瞬だけ揺れた。
……編集ってさ。
彼女はホワイトボードの方をちらりと見てから続ける。
本来は、「事実を削る」のが仕事じゃないよ。「事実の見せ方を決める」仕事。
それ、どこが違う。
同じだろ。
凪の反論に、ミナは口角を少しだけ下げた。
全部見せても、人は見ない。だから、「どこを見るべきか」を指定してあげる。それが編集。そうやって、一番伝えたいものを、ちゃんと届くようにする。
だったら聞くけど。
凪は箱を指差す。
今回、一番「伝えたいもの」は何なんだよ。
ミナは、少しだけ視線を落とした。
……公平っぽさ。
ぽっさ、って何だよ。
凪は頭を抱えたくなった。
完全な公平なんて無理。特にこんな閉じた空間じゃ。でも、「公平にやろうとしている感じ」は保てる。そうしないと、あっという間に空気が腐る。抽選箱の仕切りとか、そういう「分かりやすい不公平」は、編集で消せる。
彼女の言っていることは、分かるようで分からない。凪は深く息を吐いた。
最初から言えよ。すり替えたって。
だって、「あー今ミナが仕込みをしてます」って実況したら、絶対アンタ、止めるじゃん。
止めるに決まってる。
だよね。
ミナは苦笑した。
だから、ばれたときに説明する方が、まだマシかなって。説明はする。カットはしない。
凪はしばらく無言で彼女を見つめ、やがて肩の力を抜いた。
……分かった。
信用したわけじゃない。でも、「今度からはちゃんと言えよ」とまでは言わなかった。言えば、きっと彼女は、別のやり方で編集するからだ。
午後がゆっくりと過ぎていく。サラの様子は、不思議な波を描いた。熱が少し下がったかと思えば、急に寒気を訴え、また落ち着く。怜はその度に血圧と脈を測り、データを端末に記録していく。
凪の血が効いているのかどうかは、誰にも分からない。ただ一つだけ確かなのは、「何かをした」という事実だけだった。
夕食代わりの栄養ブロックを配り終えると、二十二時の健康チェックの時間が来た。各自の端末が一斉に起動し、指先から血液サンプルが吸い上げられる。
しばらくの沈黙の後、スピーカーが鳴った。
本日の中毒者、ゼロ。
短い一文。それだけ。
やったじゃん。
北園が思わず声を上げる。誰かが小さく拍手した。サラは、ベッドの上でほっと息を吐く。怜も目を閉じ、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
凪も、胸の奥で固まっていた何かがほどけるのを感じた。自分の血が原因で誰かが倒れる、そんな最悪の想像だけは避けられた。
だが、同時に別の疑問が生まれる。
じゃあ、今日のこれは――全部、無駄だったのか。
サラの波打つ症状。ミナの制度設計。労働ポイントと抽選。凪の腕から抜かれた血。
それらすべてが、「何も起きなかった」という結果に飲み込まれた。
本日の中毒者ゼロ。
AIの声は、喜びも安堵も乗せていなかった。ただの事実の通告として、その一文を放つ。
だからこそ。
誰も、心から喜べなかった。
ゼロという数字ほど、想像力を刺激するものはない。
誰も倒れていない。それなのに、この部屋の空気は重い。誰かが別の誰かを疑う視線だけが、濃度を増していく。
本当にゼロなのか。
どこまでが「中毒」と判定されるのか。
体内で何かが始まりつつあるだけで、まだ「症状」として出ていないだけなのではないか。
それとも、今日の血清試飲が、見えないレベルで何かを変えたのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかる。
夜。照明が落ち、薄暗い常夜灯だけになる。ベッドの上で横になりながら、凪は右腕の鈍い痛みに意識を向けた。
自分の血が、今日、何人かの喉を通っていった。
血液は、もう単なる「自分の一部」ではない。商品であり、資源であり、誰かの希望であり、誰かの不安の種でもある。
価値が付くということは、同時に、人質になるということだ。
もし明日、サラの容態がはっきりと良くなれば、「凪の血は効く」という物語が生まれる。その瞬間、凪はこの部屋で一番「価値のある体」になる。その価値を、誰がどう使おうとするのか。
想像しただけで、喉がきしんだ。
ガラスの水槽の水面には、相変わらず何も映っていない。けれど、凪にはそこに、薄い血の色が混じって見えた。
毒は、まだ姿を見せない。
見えないほど、想像は濃くなる。
眠れない夜が、静かに始まった。




