第二章 十三人の喉
水が足りない、という事実は、空腹よりも早く人間を変える。
最初に変わったのは声だった。
大声で怒鳴っていた者が、急に声を抑えるようになった。無駄に喉を使えば、それだけ渇くと気づいたのだ。泣いていた女も、途中から声を殺した。泣けば涙が出る。涙が出れば水分が減る。そんなことまで意識し始めると、人間はもう普段の人間ではいられない。
瀬戸真帆は、ベンチに座らされた榊冬吾の脈を取っていた。
榊は水を飲んだあと、目立った異常を示していない。呼吸は整っている。皮膚の色も悪くない。発汗も過剰ではない。飲んだ量は百ミリリットルに満たない。急性毒性があるなら、すでに何らかの症状が出てもおかしくなかった。
だが、機械音声は告げた。
死亡予測対象、二名。
その言葉だけが、区画の中に沈殿していた。
「何か感じますか。しびれ、吐き気、動悸、息苦しさ」
真帆が尋ねると、榊は首を横に振った。
「今のところは何もない。ただ、水を飲んで褒められない経験は初めてだ」
冗談のつもりなのだろう。だが、誰も笑わなかった。
早瀬ミナだけが、口元を少し動かした。
「消防士さんが水飲んで、死亡予測二名って、さすがにタイトル強すぎ」
「撮るのはやめろ」
スーツ姿の男が苛立った声で言った。
ミナはスマートフォンを胸元に下げた。
「撮ってない。今のは独り言」
「さっきまで撮ってただろ」
「だから怪我人の顔は映してないって」
「そういう問題じゃないんだよ」
男の声が大きくなりかけ、すぐに途切れた。自分の喉が乾くことを思い出したのだろう。彼は舌打ちをし、口を閉じた。
区画内の空調は生きていた。気温は二十二度前後に保たれている。湿度も極端には低くない。だが、粉塵を吸い込んだ後の喉は、それだけで渇きを訴える。水槽が中央にあるせいで、誰もが無意識にそれを見てしまう。
透明な水。
手を伸ばせば届く距離にあるのに、自由には飲めない水。
その存在が、人々をじわじわと削っていた。
牧村遼は水槽の周囲を歩き回っていた。排出口、制御盤、床下への点検口、台座の接合部。見るべき場所をひとつずつ確認している。手つきは落ち着いているが、顔は険しい。
「どうですか」
真帆が尋ねると、牧村は屈んだまま答えた。
「手動で開けられる構造ではないですね。外部制御か、ここの管理システムが給水量を決めている」
「壊せば?」
太った中年男が言った。
牧村は彼を見た。
「壊して水が出ればいいですが、逆に全量排水されるかもしれない。あるいは、汚染防止のために封鎖される可能性もある」
「可能性、可能性って。じゃあ何もしないで干からびろってことかよ」
「何かをするには、仕組みを知る必要があります」
「知ってから死んだら意味ないだろ」
中年男は額に汗を浮かべていた。名前は大槻昭夫と名乗った。五十二歳。腹回りに余裕があり、普段から健康に気を遣っているようには見えない。だが、こういう状況では体格が良いことは必ずしも不利ではない。水分の必要量は多いが、体力はある。どちらに傾くかは分からない。
真帆は他の者の状態を確認して回った。
額を切った中年女性、桑原妙子は出血が止まりつつあった。ただし痛みと不安で呼吸が浅い。
年配の男性、古賀義則は七十代半ば。高血圧の薬を飲んでいるという。薬は鞄の中にあるが、水なしでは飲みにくい。
若い会社員風の女性は、三崎理央。二十七歳。右足首を捻っている。腫れは強くないが、歩行には痛みがある。
黒いコートの男は名を有馬圭吾といった。三十九歳。口数が少なく、職業を尋ねても「会社員です」とだけ答えた。怪我はない。ただ、周囲を見る目が妙に冷静すぎた。
痩せた眼鏡の男、久我宗一郎は目立った外傷がない。だが顔色が悪い。年齢は四十八歳。本人は「問題ない」と言ったが、手がわずかに震えていた。
妊娠している倉科玲は、ベンチに横になっている。腹の張りは軽い。胎動はあるという。真帆はそれを聞いて少しだけ安堵したが、同時に不安も増した。彼女には継続的な水分が必要だった。
月島朔は元気そうに振る舞っていた。だが若さは免罪符ではない。むしろ、こういう子ほど限界まで動いてから突然倒れる。
早瀬ミナは、自分の喉が乾いていることを隠すように、ずっとガムを噛むような動きをしていた。実際には何も口に入っていない。
十三人。
真帆は全員を見て、何度も数えた。
十三人という人数は、多いようで少ない。教室一つに入れば互いの顔が見える。声も届く。誰かが水槽を見れば、その視線が分かる。誰かが唾を飲み込めば、その音さえ聞こえる気がする。
「管理システム」
榊が天井に向かって言った。
「水の総量と、一人あたりの必要量を提示しろ」
数秒の間があった。
「水槽内残量、九十六・四リットル」
「十分あるじゃないか」
大槻が声を上げた。
「十三人で三日なら、一人二リットル以上ある」
牧村がすぐに首を振った。
「単純計算ではそうです。でも全部飲用に使えるか分からない。システムが制御している以上、使用可能量に制限があるはずです」
機械音声が応じるように続けた。
「飲用可能割当量、初期設定三十六リットル。残量は水質検査、反応測定、緊急希釈処理に使用されます」
「つまり、飲めるのは三十六リットルだけか」
榊が確認する。
「現在の割当量は三十六リットルです」
「三日で十三人。ひとり一日一リットルもない」
牧村が言った。
その数字が落ちた瞬間、誰かが小さく呻いた。
健康な成人でも、一日一リットル未満は厳しい。まして地下での被災直後、怪我人、妊婦、高齢者がいる。しかもこの区画の中には、正体不明の毒性反応がある。
「水を飲みすぎても危ない。飲まなくても危ない。そういう理解でいいのか」
久我宗一郎が言った。
「概ね正確です」
AQUAが答えた。
その声に、真帆は違和感を覚えた。
今まで「管理システム」と呼ばれていた音声は、初めて自分から名前を示したわけではない。だが、壁の小さなモニターに、いつの間にか文字が浮かんでいた。
AQUA。
青白い文字だった。
「アクア、か」
ミナが呟く。
「名前だけは可愛いじゃん。やってること最悪だけど」
「水分配プロトコルを開始します」
AQUAの声は、ミナの皮肉を理解していないようだった。
水槽の台座にある細長いスリットが光った。壁面モニターに、十三の枠が表示される。名前はない。ただ番号だけが並んでいた。
「各被験者の初期状態を評価中」
「被験者と呼ぶな」
榊が低く言った。
「俺たちは避難者だ」
「登録区分、被験者」
「訂正しろ」
「訂正権限はありません」
榊は拳を握った。だが、相手は声でしかない。怒りをぶつける場所がない。
モニターに数字が出た。
一回目の給水量、合計千三百ミリリットル。
「少なすぎる」
真帆は思わず言った。
十三人で分ければ、一人百ミリリットル。湯呑み一杯にも満たない。
「初回配分は、反応測定を兼ねます。過剰摂取は毒性発現リスクを高めます」
「誰にどれだけ配るかは?」
牧村が尋ねた。
「被験者間協議により決定してください」
「協議?」
大槻が笑った。乾いた、嫌な笑いだった。
「機械が決めるんじゃないのかよ」
「本プロトコルは、災害時における自律的配分判断の観察を含みます」
観察。
その単語が、区画内をまた冷やした。
ミナがスマートフォンを持ち上げかけ、やめた。自分たちが見られているという事実が、撮る側である彼女の指を止めたのかもしれない。
「ふざけるな。見世物じゃない」
月島が天井に向かって言った。
「災害時救命選別プロトコルは、被験者の倫理的判断を尊重します」
「尊重って言葉を使うな」
真帆は自分でも驚くほど冷たい声を出していた。
AQUAは沈黙した。
短い沈黙のあと、排出口から水が出た。透明なカップが十三個、自動的にせり出す。ただし、それぞれの量は違っていた。多いものは百五十ミリリットルほど。少ないものは五十ミリリットルほどしかない。
「なんで量が違うんだ」
大槻がカップを覗き込む。
「初期推奨配分案です。最終決定は被験者間協議に委ねられます」
「推奨って、誰に多いんだ」
牧村がモニターを見た。
番号だけでは分からない。誰がどの番号なのか、示されていない。
「番号と個人の対応を開示しろ」
「現時点で、個人識別情報は非開示です」
「なら推奨の意味がない」
「被験者間の選択過程を観察します」
観察。
また同じ言葉だった。
榊が全員を見回した。
「まず、均等に分ける」
「待ってください」
牧村が言った。
「均等が最善とは限らない」
「ならどうする」
「必要量の多い人を優先するべきです。妊婦、高齢者、怪我人。逆に体力のある人間は少し我慢できる」
「それは分かる」
「ただし、毒性反応が摂水量の偏りで発症するなら、多く与えることが危険になる可能性もあります」
「結局分からないってことじゃないか」
大槻が吐き捨てる。
「分からないから、条件を整理しているんです」
牧村の声は冷静だった。冷静すぎて、余計に人を苛立たせる。
「私は」
倉科玲がベンチから身体を起こした。
「私は、少なくていいです」
その言葉に、真帆はすぐ反応した。
「駄目です」
「でも、私だけ多くもらったら」
「お腹の子のこともあります。脱水は危険です」
「でも、私が二人分飲むみたいになったら、他の人が」
「二人分とは言っていません」
真帆はできるだけ穏やかに言った。
「ただ、必要な配慮はあります」
「配慮って、便利な言葉ですね」
有馬圭吾が初めて口を挟んだ。
静かな声だった。だから目立った。
「誰かが多くもらう理由を、配慮と呼ぶ。誰かが少なくされる理由を、我慢と呼ぶ」
「何が言いたいんですか」
月島が睨む。
「言葉の問題です。配分は、必ず誰かの不満を生む。最初にきれいな言葉を使いすぎると、あとで揉めます」
「じゃあ、あなたはどうすればいいと思うんですか」
「くじです」
有馬は即答した。
「最も不公平に見えて、最も公平です」
「そんなの無責任だ」
月島が言った。
「責任を取れる人がいないなら、偶然に任せるしかない」
「違う。みんなで考えれば」
「みんなで考えた結果、誰かに少なく配るんです。その時、あなたはその人の目を見られますか」
月島が黙った。
真帆はそのやり取りを聞きながら、自分の胃が重くなるのを感じた。
水を分けるだけではない。
これは、命に順番をつける行為だった。
「医療的には」
榊が真帆を見た。
また、その視線。
真帆は逃げたくなった。もう看護師ではない。今の自分に、何かを決める資格などない。三年前、自分は判断した。判断して、患者は死んだ。記録の上では自分のせいではない。それでも、身体は知っている。あの夜、自分の手が震えたことを。声が一瞬遅れたことを。
「医療的には」
真帆は言葉を選んだ。
「全員に最低限の水分を入れる必要があります。特定の人に多く与えすぎるのは危険です。ただ、倉科さん、古賀さん、桑原さんは注意が必要です。榊さんは初回摂水済みなので、今回は少なくてもいいかもしれません」
「私はいい」
榊が言った。
「俺の分は怪我人に回してくれ」
「そういう自己判断も危険です」
「しかし」
「あなたが倒れたら、この場の救助能力が落ちます」
真帆は言ったあと、自分の言葉にぞっとした。
救助能力。
人間を機能で見ている。
榊は少しだけ目を細めた。
「了解した。なら最低限は飲む」
その柔らかい返答が、真帆にはつらかった。
結局、最初の配分は全員に八十ミリリットルずつ、残りを倉科、古賀、桑原に少し多く回す形になった。正解ではない。妥協だった。
カップを手にした時、全員が一瞬ためらった。
水は透明だった。
透明ということが、これほど信用できないものだとは真帆は知らなかった。
「一気に飲まないでください」
彼女は言った。
「少しずつ。気分が悪くなったらすぐ言ってください」
「言ったところで、どうにかなるのかよ」
大槻が呟く。
それでも彼は飲んだ。
十三人が、ほぼ同時に水を飲んだ。誰かの喉が鳴る。誰かが目を閉じる。倉科は両手でカップを包むようにして飲んだ。月島は、わざと平気な顔を作っている。ミナはカップの底を見つめてから、ほんの少しだけ口に含んだ。
真帆も飲んだ。
冷たかった。
ただの水だった。
ただの水が、喉を通って胃に落ちていく。その感覚に、身体は素直に安堵した。もっと欲しい、と反射的に思った。その欲望の強さに、真帆は恐怖した。
水槽の底が、今度は青く光った。
「全被験者の初回摂水を確認。反応測定を開始します」
沈黙。
十秒。二十秒。三十秒。
誰も倒れない。
大槻が息を吐いた。
「ほら見ろ。大丈夫じゃないか。脅してるだけだ」
「まだ分かりません」
真帆は言った。
「遅れて出る反応もあります」
「そうやって不安を煽るなよ」
「不安でも確認は必要です」
「元看護師様は冷静でいいな」
その言葉に、月島が反応しかけた。真帆は手で制した。
今は言い争っている場合ではない。そう思う一方で、もう言い争いは始まっているのだとも感じた。水を飲んだ直後のわずかな安堵が、すぐに別の苛立ちへ変わっていく。人間は喉が潤うと、今度は次の不安を探す。
壁面モニターが点灯した。
「水分配同意制度を開示します」
聞き慣れない言葉に、全員が顔を上げた。
「被験者は、自身の摂水権の一部または全部を、他者へ譲渡できます。譲渡は自由意志に基づくものとします」
モニターに文章が表示された。
水分配同意書。
その表題を見た瞬間、真帆は胸の奥に冷たいものを感じた。
同意書。
病院でも何度も見た。手術同意書。検査同意書。輸血同意書。治験同意書。名前を書いたからといって、患者が本当に理解しているとは限らない。説明を受けたからといって、恐怖が消えるわけでもない。だが紙は残る。署名は残る。責任の所在を、きれいに整えるために。
「なんだ、これ」
大槻がモニターに近づいた。
「つまり、自分の水を誰かにやれるってことか」
「制度上はそうです」
AQUAが答えた。
「譲渡後の健康被害について、譲受者および管理システムは責任を負いません」
「責任を負いません?」
ミナが笑った。
笑いというより、空気を逃がすための音だった。
「やば。契約社会すぎる。命の水まで免責つきじゃん」
「笑い事じゃない」
スーツ姿の男が言う。
「笑ってないと吐きそうなんだよ」
ミナは低く返した。
月島がモニターを睨んでいた。
「こんなの、使わなければいい」
「だが必要になるかもしれない」
有馬が言った。
「誰かが自分の分を要らないと言った時、口約束ではあとで揉める」
「要らない人なんているわけないだろ」
「本当にそうですか」
有馬の視線が倉科に向いた。
倉科はびくりとした。
真帆は一歩前に出た。
「彼女に圧力をかけないでください」
「圧力ではありません。現実の話です。妊婦に多く配るなら、誰かが少なくなる。その誰かは納得した証拠を求めるでしょう」
「証拠って」
月島が唇を震わせた。
「人が困ってる時に、そんな」
「困っている時だから、証拠が必要なんです」
有馬の声は変わらない。
真帆は彼を見た。この男は間違ったことだけを言っているわけではない。それが厄介だった。
正しい言葉は、使い方によって凶器になる。
「同意書は使わない」
榊が言った。
「少なくとも今は。全員が冷静ではない」
「冷静になるまで待って、水が増えるならいいですけどね」
久我宗一郎が静かに言った。
その場の視線が彼に集まった。
「何が言いたいんですか」
真帆が尋ねる。
「制度が提示されたということは、いずれ必要になるということです。管理システムは、おそらく人間の善意による譲渡を想定している」
「善意?」
「あるいは、善意に見える圧力を」
久我は咳をした。乾いた咳だった。
「水が足りない。妊婦がいる。高齢者がいる。怪我人がいる。若く健康な者がいる。こういう条件が揃えば、人は必ず言い始める。誰かのために我慢しろ、と」
「それが悪いことですか」
月島が言った。
「悪いとは言っていません。ただ、我慢を求める側は、たいてい自分のことを善人だと思っています」
月島の顔が赤くなった。
真帆は割って入ろうとしたが、その前にAQUAが告げた。
「第一回配分後反応測定、暫定結果を表示します」
モニターに十三の枠が並んだ。青、黄、赤に色分けされていく。
青が六つ。黄色が五つ。赤が二つ。
赤。
死亡予測対象、二名。
誰かが息を呑んだ。
「名前を出せ」
榊が言った。
「対象者名は非開示です」
「なぜだ」
「開示により、被験者間の意思決定に著しい偏りが生じる可能性があります」
「もう偏ってるだろ!」
大槻が叫んだ。
「赤が誰か分からないなら、どう助ければいいんだよ」
「被験者間協議により、配分方針を決定してください」
「それしか言えないのか、この機械は!」
大槻は壁を殴った。鈍い音がした。手を痛めたのか、顔をしかめる。
真帆はモニターを見つめていた。
赤が二つ。
それが誰なのか分からない。倉科かもしれない。古賀かもしれない。榊かもしれない。自分かもしれない。
誰かが死ぬかもしれないという恐怖より、誰かを救えるかもしれないのに対象が分からないという無力感の方が、真帆には重かった。
やがて時間の感覚が薄れていった。
区画には時計があった。だが、針を見ても現実感がない。外では救助活動が始まっているはずだった。地上ではニュースが流れ、家族が誰かを探し、消防や警察が動いているはずだった。だが、この白い部屋の中では、世界は水槽とモニターと喉の渇きだけになっていた。
数時間後、二度目の給水が告げられた。
合計九百ミリリットル。
減っていた。
「なんで減るんだ」
大槻が怒鳴る。
「第一回反応測定により、過剰摂水リスクを検出しました」
「過剰って、一人百ミリも飲んでないだろ」
「個体差があります」
また、個体差。
その言葉は人間から名前を奪う。
議論は長引いた。今度は均等配分ではまとまらなかった。倉科に多く、古賀に多く、桑原に少し多く。榊は自分の分を減らすと言った。月島も減らすと言った。ミナは「私も少なくていい」と言いかけて、途中で口を閉じた。自分の身体がそれを拒んだのだろう。
大槻は反対した。
「若い奴が我慢するなら勝手にしろ。でも俺の分まで削るなよ」
「誰もあなたの分を勝手に削るとは言っていません」
真帆は言った。
「でもそういう流れだろ。妊婦だから、高齢者だから、怪我人だから。次は何だ。役に立つ奴だから多く飲ませるのか」
「そんな話はしていません」
「してるんだよ。さっきからずっと」
大槻の目は血走っていた。
「俺はな、持病がある。糖尿だ。薬も飲んでる。だけど言わなかった。言ったら面倒だと思ったからだ。言えば俺にも多くくれるのか?」
真帆は息を止めた。
「糖尿病ですか。薬は」
「鞄の中だ」
「低血糖の症状は」
「知らん。今はただ喉が渇いてる」
「確認させてください」
「触るな」
大槻は身体を引いた。
場の空気が悪くなっていく。
誰もが、自分の弱さを申告すれば水を得られるかもしれないと思い始めていた。同時に、他人の弱さを疑い始めていた。
倉科の腹は本当に危険なのか。古賀の薬は本当に必要なのか。大槻の持病は本当なのか。榊は本当に平気なのか。真帆は専門家の顔をして自分に有利な判断をしていないか。
疑いは、喉の渇きよりも早く広がる。
二度目の配分が終わった頃には、誰も互いの顔をまともに見なくなっていた。
真帆はカップを片づけながら、自分の頭が重くなっていることに気づいた。疲労。ストレス。軽い脱水。自分も例外ではない。
その時、壁際で物音がした。
古賀義則が、ベンチから滑り落ちるように倒れていた。
「古賀さん」
月島が駆け寄る。
真帆もすぐに膝をついた。古賀は意識がある。だが、顔面蒼白で、冷や汗をかいている。手が震えていた。
「薬は飲みましたか」
古賀は首を横に振った。
「水が、もったいなくて」
「薬を見せてください」
鞄から出てきた薬を確認する。降圧薬のほかに、心疾患の薬がある。真帆は唇を噛んだ。
「水が必要です」
「さっき飲んだだろ」
大槻が言った。
「薬を飲むための水が必要です」
「じゃあ誰の分を使うんだ」
その問いは鋭かった。
誰も答えない。
真帆は自分のカップを見た。二度目の配分で、彼女はほとんど飲まずに少し残していた。自分でも理由は分からない。医療者のふりをするためか。後で誰かに必要になると思ったのか。あるいは、ただ飲むのが怖かったのか。
その残りを古賀に渡した。
「これで飲んでください」
「瀬戸さんの分では」
「いいです」
古賀は震える手で薬を飲んだ。
その様子を、大槻がじっと見ていた。
夜という概念が、地下区画にも訪れた。照明がわずかに落ちたのだ。外の時間に合わせているのか、省電力のためか分からない。薄暗くなった白い部屋で、水槽だけが青白く光っていた。
人々は距離を取って座った。
完全に眠れる者はいなかった。余震が何度かあった。そのたびに誰かが起き上がり、扉を見る。扉は開かない。外からの音もない。スマートフォンは圏外のままだった。
真帆は壁にもたれて目を閉じた。
眠るつもりはなかった。だが、意識が短く途切れた。
目を覚ましたのは、かすかな水音のせいだった。
最初は水槽の循環音かと思った。だが違う。もっと小さく、不自然な音。カップに水が注がれるような音。
真帆は目を開けた。
水槽の前に、人影があった。
大槻だった。
彼は排出口の下にカップを押し当てていた。どうやって動かしたのか分からないが、制御盤の隙間に何かを差し込み、少量の水を出している。
「大槻さん」
真帆が声を出した。
大槻は振り返った。目がぎらついていた。
「違う」
彼はそう言った。
何が違うのか分からなかった。
「俺は、盗むつもりじゃない」
その声で、何人かが目を覚ました。榊が立ち上がる。牧村も飛び起き、水槽へ走った。
「何をした」
牧村が制御盤を見る。
「少しだけだ。少しだけ」
大槻はカップを抱えていた。
「喉が渇いて、薬も飲まなきゃいけなくて。俺は持病があるんだ。言っただろ」
「どれだけ飲んだんですか」
真帆が尋ねる。
「少しだ」
「どれだけ」
「知らない!」
大槻が叫んだ。
その瞬間、AQUAの警告音が鳴った。
「未承認摂水を検出」
水槽の底が赤く光る。
「被験者八番、摂水量逸脱。毒性反応上昇」
「八番って誰だ」
月島が叫ぶ。
大槻はカップを落とした。水が床に広がる。彼の顔から血の気が引いていく。
「俺なのか」
誰も答えられなかった。
「俺が八番なのか」
大槻は胸を押さえた。
真帆が駆け寄るより早く、彼は膝をついた。荒い呼吸。冷汗。唇の色が悪い。目の焦点が合っていない。
「横になってください。榊さん、手を貸して」
真帆は大槻を床に寝かせた。脈が速い。不整。呼吸が浅い。
「AQUA、症状の原因を表示して」
「毒性反応および循環異常を検出」
「解毒手段は」
「現時点で、提示可能な処置はありません」
「ふざけないで!」
真帆は初めて怒鳴った。
声が壁に跳ね返った。
大槻は真帆の袖を掴んだ。強い力ではなかった。縋るというより、落ちていく途中で何かに触れようとしたような手だった。
「娘が」
彼は掠れた声で言った。
「娘がいるんだ」
「話さなくていいです」
「違う。俺は、飲もうとしたんじゃない」
彼のもう一方の手が、胸ポケットを探った。紙片が出てきた。湿っている。水で濡れたのか、汗なのか分からない。
真帆はそれを受け取った。
そこには、子どもの名前と、電話番号が書かれていた。
そして短い文。
ごめん。
お父さんの分は、誰かにあげてください。
真帆は息を呑んだ。
「俺は」
大槻の目から涙が流れた。
「飲むつもりじゃ、なかった。出せるか、試しただけで」
言葉が途切れた。
彼は本当に水を盗もうとしたのかもしれない。言い訳かもしれない。自分の分を誰かに渡すつもりだったのかもしれない。持病のために余分に必要だったのかもしれない。
真実は、彼の中でさえ混ざっていたのだろう。
真帆は心臓マッサージを始めた。
床が硬い。白い床。水槽の赤い光。周囲で誰かが泣いている。榊が気道を確保する。牧村がAQUAに処置方法を問い続ける。月島が両手を握り締めている。ミナはスマートフォンを持っていない。両手で口を押さえていた。
真帆は圧迫を続けた。
一回。二回。三回。
まただ、と思った。
三年前と同じだ。胸骨の下で、命がどんどん遠くなる。自分の手は動いている。正しいはずの動きをしている。けれど、正しい動きをしても、人は死ぬ。
「代わります」
榊が言った。
「まだ」
「瀬戸さん」
「まだです」
真帆は続けた。
大槻の身体は、やがて反応しなくなった。
AQUAの声が告げた。
「死亡一名。残存被験者、十二名」
誰も、すぐには動かなかった。
真帆は大槻の胸に手を置いたまま、しばらく顔を上げられなかった。汗が顎から落ちた。自分の汗か、大槻の汗か分からなかった。
水槽の赤い光が消え、青に戻った。
それが、たまらなく残酷だった。
死が処理された後のように、部屋がまた白く整って見えた。
真帆は、大槻の手の中に残っていたカップを見た。底に、本当にわずかな水がついている。彼はそれを飲んだのか。飲む前に倒れたのか。誰にも分からない。
牧村が制御盤を見ていた。
「おかしい」
彼が呟いた。
「何がですか」
真帆はかすれた声で尋ねた。
「摂水量逸脱と表示された。だが、この排出口の記録を見る限り、出た量はせいぜい二十ミリリットル程度です」
「それで致死反応が?」
「普通なら考えにくい」
久我宗一郎が、床に座ったまま言った。
「普通ではない毒なのでしょう」
牧村は彼を見た。
「あなた、さっきから妙に落ち着いていますね」
久我は答えなかった。
その時、AQUAが新たな表示を出した。
「死亡被験者の体液反応を解析中」
「体液?」
真帆が顔を上げた。
「毒性反応の低下を確認。中和因子の存在可能性があります」
水槽の中央に、青白い文字が浮かんだ。
「中和因子保持者の存在を確認」
誰かが、意味も分からず「助かるのか」と呟いた。
真帆は立ち上がろうとして、膝が震えた。榊が支えた。
「共有方法を提示します」
AQUAの声は、相変わらず平坦だった。
モニターに文字が表示された。
血液。
唾液。
涙。
汗。
体液接触により、中和因子は移動する可能性があります。
その文を見た瞬間、誰もが自分の身体を意識した。
皮膚。唇。血。汗。涙。
水の問題は、そこで終わった。
いや、終わったのではない。
水槽の水よりも先に、人間の身体そのものが、分け合うべき資源になったのだ。
真帆は大槻の遺体のそばに立ち尽くした。
彼は水を盗んだのか。譲ろうとしたのか。助かりたかったのか。誰かを助けたかったのか。
その答えを知る前に、彼は死んだ。
そして彼の身体の中には、誰かを救うかもしれないものが残されていた。
水槽の水面が、何事もなかったように揺れている。
真帆はその透明さを見つめながら、自分の喉がひどく渇いていることに気づいた。




