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毒の水槽は静かに満ちる  作者: 妙原奇天


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第1話 ガラスの喉

 白い壁は、息を吸うたびに音を奪った。機械の低い駆動音すら、ここでは遠い。誰かが喉を鳴らすと、それがまるで部屋の中心に落ちる石のように響いた。


 十三人の視線は、中央の長方形のガラス水槽に吸い寄せられていた。淡く揺れる水面は空調の風を受け、静かな波紋を描いている。水は透明で、どこまでも普通の水にしか見えない。それでも誰も近づこうとしなかった。この実験室には、普通という概念が存在していない。


 壁のスピーカーから女の声が落ちてくる。


 本日の給水は一人百ミリリットルまで。致死毒混入の可能性を忘れずに。


 乾いた宣告だった。ジョークの響きも慈悲の濃度もゼロだった。


 最初に動いたのは篠原凪だった。ガラス水槽に屈み、水面に映る自分の顔を見つめる。髪の乱れより目の動きを見る癖がついたのは、写真を趣味にしているせいかもしれない。水の中の自分は、どこか他人のように見えた。


 背後で八代怜が端末を操作する。医療担当としての義務感が、疲れを押し込めるように彼女の背筋を伸ばしていた。


 脱水が始まるのは早い。数時間で判断力が落ちる。だから今日の百ミリは命綱。


 淡々とした声。それが余計に不安を煽った。怜は普段から冷静だが、それゆえに彼女が焦りを見せないことが逆に怖い。


 誰が飲むのか。それが最大の問題だった。たった百ミリ。それを口にした瞬間、自分が最初の犠牲者になるかもしれない。


 沈黙を破ったのは大垣迅だった。腕を組み、水槽の縁をゆっくりとなぞりながら言う。


 順番を決めよう。公平にだ。


 公平。こんな状況で、そんな言葉がどれほど無力か、全員が分かっていた。だが、他に言いようがない。


 三雲トウマが手を挙げた。


 籤か、平均化。もしくは代表一名が飲む案でも。


 室温が一気に下がった。誰か一人にリスクを押しつける。それは提案した瞬間から敵を作る方法だ。トウマの顔も強張っていた。


 倉敷ミナが前に出る。自撮りライトを指先で転がし、不敵に笑った。


 代表制は視聴率は取れるけど、ここでは炎上しかしないよ。まずはにおいでも嗅がせて。


 怜が即座に否定する。


 匂いで分かれば苦労しない。これは化学毒じゃない可能性が高い。


 スピーカーが鳴った。


 注意。匂いによる判別は無効です。


 その言葉に、部屋全体が薄い絶望に包まれた。


 議論は堂々巡りになった。喉を鳴らす音が増える。唇を舐める気配が広がる。凪は気づいた。誰も水そのものではなく、互いの口元を見ている。飲むか、飲まないか。それが誰かの生死を左右する世界に変わった瞬間だった。


 大垣が前に出た。


 俺が飲む。筋肉量が多いぶん脱水に弱い。倒れたら足手まといだ。


 彼の声は強く、揺れていなかった。利他的なようで、同時に彼なりの交渉だった。反対しにくい言い方で先手を取る。それは生存戦略の一つだ。


 計量カップが百ミリの水で満たされる。水面が消え入りそうな光を反射し、それだけで誰かの生死が決まるように見えた。


 凪は咄嗟に口を開く。


 待って。撮らせて。


 写真は証拠になる。後々、嘘や記憶違いを縛る楔になる。それを狙った一言だった。


 しかし怜が肩を押さえる。


 やめて。彼の手が震えてる。


 カップを持つ大垣の手は、確かに震えていた。恐怖か、緊張か、それ以外の何かなのかは分からない。


 大垣は一息に飲んだ。喉が波打ち、小さく息を吐く。


 ……普通の水だ。


 安堵が一斉に漏れた。しかし同時に失望も走った。誰もが「自分以外の誰かが死ぬ可能性」を心のどこかで期待していた。その期待が外れた瞬間でもあった。


 AIが告げる。


 本日の健康チェックは二十二時。


 時間は残酷に進む。次に飲むのは誰か。公平を装った列は、利益と臆病によってねじれていく。ミナはカードを配り、順番を売り始めた。


 二番目は嫌。でも最後も嫌。だったら交換できる順番にしようよ。


 取引が静かに始まった。凪はメモを取りながら、怜の額に汗が滲んでいるのを見た。医療担当の汗は、ただの不快ではない。理性が疲れ始めている合図だ。


 怜、隠してることない?


 怜は一瞬だけ凪を見て、首を振った。


 この水…純水じゃない。ミネラルの配分が人工的すぎる。施設の意図が強く出てる。


 意図。意思を持った環境。その言葉が胸に引っかかった。


 夜。十三人の腹が同時に鳴った。空腹に抗う気力は残っていない。二十二時の健康チェックが始まる。端末に表示された「安定」の文字に、全員がようやく体を休める。


 しかし明け方、悲鳴が部屋を貫いた。


 芦原サラの唇が青く、呼吸が浅い。怜が駆け寄り、必死に脈を探る。


 AIは淡々としていた。


 本日、軽度の中毒症状を検知。原因不明。明日の給水ルールは改訂予定。


 大垣の顔色が青ざめた。最初に飲んだ彼は無事で、飲んでいないサラが倒れた。この矛盾が何を意味するのか。


 凪の胸に小さな泡が生まれた。恐怖とも疑問ともつかない泡。何かが噛み合わない。誰かが嘘をついている気がする。この水槽に仕掛けられたルールは、表に出ているものだけではない。


 泡は翌朝の放送で破裂する。


 給水ルールを改訂します。明日から、一名だけ、百ミリリットル。選ぶのは皆様です。


 沈黙が落ちた。


 これは水の争奪ではない。誰を生かし、誰を殺すかを決める儀式になった。


 ガラスの喉を潤すのは、水か毒か。それとも人間の本性か。

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