第七話:決断の黎明と、震える拳
石造りの監獄遺跡を包んでいた「永遠の安らぎ」は、一匹の魔鼠の死骸とともに終わりを告げた。
通路の奥を見つめるユウマの横顔は険しい。ルネがそのオッドアイで捉えた「結界の綻び」は、目に見えない速度で確実に広がっている。ここが魔物たちの牙から逃れられる聖域でなくなるのは、もはや時間の問題だった。
「……ルネ、君の目で見える範囲でいい。この森のどこかに、人が集まっているような……『集落』のような場所はないか?」
ユウマの問いに、ルネは居住まいを正した。彼女は集中するように、赤と金の瞳を限界まで見開く。
「……探してみる、ですぅ。……キィィィン……」
微かな魔力の共鳴音が、彼女の瞳から漏れる。ルネは意識を遠く、森の深淵へと飛ばしていった。
その間、リリィは黙々と動いていた。彼女は魔法の畑に膝をつき、実った魔精芋を一つずつ丁寧に掘り起こしていく。
「ユウマさま、ここにあるお芋はぁ、全部持っていくのぉ。井戸のお水もぉ、水筒にパンパンに詰めておいたよぉ……。もしもの時に、ひもじい思いはさせないんだからぁ」
リリィは不安を押し殺すように、努めて明るい声を出していた。彼女が動くたびに、お尻まで届く銀髪が**さらさら**と床を掃き、豊かな胸が**ゆさっ**と揺れる。彼女なりに、これから始まる過酷な旅に備えようとしていた。
丸一日、ルネは瞑想に近い状態で索敵を続けた。
そして二日目の朝、彼女はカッと目を見開くと、一点を指差した。
「……見つけた、ですぅ! ここから……歩いて二日くらいのところに、魔物じゃない、たくさんの『命の光』が集まっている場所があるですぅ!」
「集落か。……よし、目的地は決まった」
ユウマは、ルネが指した方向を睨み据えた。
そこへ行くには、あの地獄のような森を二日間歩き続けなければならない。武器も防具もない自分たちが、果たして辿り着けるのか。
「ルネ、道中の魔物の配置も見えるかい?」
「はいですぅ。……あっちに大きな熊が寝ているですぅ……。こっちの茂みには、毒を持つ蛇がたくさん固まっているですぅ。……この『色の薄い場所』を縫っていけば、戦わずに済む……かもしれないですぅ」
ルネの指し示すルートは、迷路のように複雑に入り組んでいた。だが、彼女の特殊な視覚が捉える「色の薄い場所」こそが、唯一の生存ルートだった。
出発の時が来た。
ユウマは、リリィが用意してくれた食糧と水の袋を背負い、最後に一度だけ、自分が転生して最初に辿り着いたこの牢獄を振り返った。
歪んだ鉄格子。苔むした石壁。
ここを離れれば、二度とこの結界の守りには戻れない。
**ガタガタガタ……**。
ふと気づくと、自分の拳が激しく震えていた。
かつての日本では、プレゼンや会議で緊張することはあっても、命を奪われる恐怖に震えることなどなかった。
外から聞こえる、バキバキと木々をなぎ倒すような音。飢えた獣の遠吠え。
足が竦む。一歩を踏み出すのが、死の淵へ飛び込むように思えてならない。
(情けないな……。僕がしっかりしなきゃいけないのに)
ユウマが奥歯を噛み締め、俯いたその時。
横から、柔らかく温かい感触が彼を包み込んだ。
「……ユウマさま。大丈夫だよぉ」
リリィだった。彼女はユウマの震える拳を、自分の両手でそっと包み込んだ。彼女の掌はしっとりと温かく、ユウマの荒んだ心を溶かしていく。
「リリィ……」
「リリィもねぇ、とっても怖いのぉ。でもぉ、ユウマさまがいてくれるから、前を向けるんだよぉ? ユウマさまが震えていたらぁ、リリィがこうして、ぎゅーってしてあげるからぁ……ね?」
リリィはユウマの腕に自分の体を預け、**もちっ**とした感触とともに彼を勇気づけるように微笑んだ。その瞳には、彼を信じ切る純粋な光が宿っていた。
「……ユウマさま。私も、精一杯……見るですぅ。だから、一緒に行くですぅ……っ」
ルネもまた、反対側からユウマのシャツの裾を**つんつん**と掴んだ。
自分を頼りにしてくれる二人の少女。
彼女たちの命を背負っているのだという責任感が、恐怖を上回る熱となってユウマの胸に灯った。
「……ああ。行こう。僕たちが笑って暮らせる場所を探しに」
ユウマは震えを止め、力強く一歩を踏み出した。
遺跡の入り口、結界の境界線を越えた瞬間、森の湿った風が三人の頬を打った。
「ルネ、案内を頼む。……リリィ、僕から離れるなよ」
「わかったのぉ!」
「任せて……ですぅ!」
**ザッ、ザッ……**。
枯葉を踏みしめる音が、深い森の中に溶けていく。
ルネの目が捉える「安全なルート」を頼りに、ユウマたちは未知なる世界へと漕ぎ出した。
背後にある遺跡の影は、霧の中に消えていく。
彼らの前にあるのは、ただどこまでも続く、緑の迷宮と命懸けの二日間。
だが、繋いだ手の温もりだけは、決して消えることはなかった。
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