第五十九話:響き渡る笑い声、そして新たな風(最終話)
あの大戦から、数ヶ月の月日が流れた。
かつて黒い波と禍々しい霧に覆われ、神話の天災が這い上がってきた海岸線には、今やどこまでも穏やかで、透き通るような青い海が広がっている。寄せては返す白い波は優しく砂浜を撫で、潮風はかつての生臭さを完全に失い、心地よい潮の香りを街へと運んでいた。
ユウマが下した避難勧告によって、一時的にゴーストタウンのようになっていた街は、今や以前を遥かに凌駕するほどの圧倒的な活気と繁栄を取り戻していた。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 大森林の奥深くで採れた、瑞々しい極上の果実だよ! 王都の高級店舗じゃこの倍の値段はする代物だ!」
「こっちの織物も見ていってくれ! 妖花族の皆さんが紡いだ特別な糸で編んだ、軽くて絶対に破れない仕立ての一品だぞ!」
中央広場には、色鮮やかな天幕が所狭しと立ち並び、威勢のいい行商人たちの掛け声が響き渡っている。
街を一時的に離れていた商人たちは、ユウマたちの完全勝利の報を聞くや否や、「あの災厄を無傷で退けた、世界で最も安全な街」としての価値を瞬時に見抜き、以前の数倍の荷を馬車に積んで戻ってきたのだ。それどころか、噂を聞きつけた王都の大商会や、遠方の国々からの交易船までもが、この街の港や街道に列をなしている。
さらに、街の発展は商業だけに留まらなかった。
「あらゆる種族が分け隔てなく笑って暮らせる、温泉のある平和な街」という評判は、戦火や差別、貧困に苦しんでいた世界中の人々にとって、まさに地上の楽園のように響いたのだろう。毎日のように、人間の農民、山を追われた獣人、職人気質の土竜族など、多種族の移住希望者が長い列を作って街の門を叩いていた。
新しく造成された、街の中央にある緑豊かな公園。
そこでは、柔らかな木漏れ日の中で、驚くべき光景がごく当たり前の日常として繰り広げられていた。
「まてまてーっ! 捕まえちゃうぞー!」
「あはは、お兄ちゃん遅いよー!」
狼男族の小さな子供が、ふさふさの尻尾を揺らしながら、人間の人間の女の子と一緒になって、芝生の上を元気に駆け回っている。そのすぐ近くでは、妖狐族の少年が、土竜族の子供が作った精巧な泥の城を見て「すげえ!」と目を輝かせていた。
種族の垣根など、そこには最初から存在しないかのようだった。子供たちはただ、同じ街に住む友達として、互いの手を握り合い、無邪気な笑い声を響かせている。
公園のベンチに座り、その平和な光景を、ユウマは穏やかな微笑みを浮かべて見つめていた。
「……本当に、いい街になったな」
ぽつりと溢れた言葉には、深い充足感が満ちていた。
現代日本からこの世界にやってきて、右も左も分からぬまま始まった村長としての生活。目の前の仲間を守るために必死に走り続け、温泉を掘り、罠を仕掛け、時には命を懸けて強大な敵と戦ってきた。そのすべての苦労が、目の前ではしゃぐ子供たちの笑顔という、最高の形で結実している。
「本当に、そうですねぇ、ユウマさま」
隣に座るリリィが、ふんわりとした金髪を揺らしながら、ユウマの肩にそっと自らの頭を預けた。
彼女は今、総務としての膨大な書類仕事から一時的に解放され、心からの安らぎを楽しんでいるようだった。その美しい横顔には、かつて星詠みの塔に幽閉されていた頃の陰りはひとかけらもなく、ただ街の未来を愛おしむような、優しい光が宿っている。
「リリィね、毎日こうやって子供たちの笑い声を聞いているだけで、もう胸がいっぱいになっちゃう。ユウマさまが私をあの暗闇から連れ出してくれたから、私はこんなに素敵な世界を見ることができたんだよぉ。本当に、ありがとう」
「僕の方こそ、リリィの知識がなければ何度も挫けていたよ。ありがとう、リリィ」
ユウマが彼女の手を優しく握りしめると、リリィは嬉しそうに目を細め、さらに身体を寄せ合ってきた。
「……ずるいですぅ。リリィさんだけ、ユウマさまの隣を独占するのは禁止ですぅ」
ベンチの後ろから、トコトコと足音を立ててルネが姿を現した。
彼女はいつもの黒いマントを脱ぎ捨て、街の仕立て屋が作った可愛らしい白いワンピースを着こなしていた。使徒との戦いで魔力を使い果たし、数日間眠りこけていた彼女だったが、今や完全に元気を取り戻し、その特徴的な左右で色の異なる瞳をパチクリとさせてユウマを見つめている。
「ルネ。体調はもう完全にいいのかい?」
「問題ないですぅ。……今の私は、お腹がとっても空いているですぅ。だから、ユウマさまにおやつを買ってもらう権利があるですぅ」
ルネはそう言って、ユウマの反対側の膝の上にちゃっかりと腰掛け、その小さな身体を預けてきた。彼女の瑞々しい体温が、ユウマの心をさらに温めていく。
「ユウマさん、ルネさん、ここにいらしたのですね!」
芝生を横切って、快活な足取りでティオが歩いてきた。
彼女の左肩の深い傷は、妖花族の特製薬草と温泉の効能によって、今や綺麗な白い皮膚へと戻っている。何より目を引いたのは、彼女の腕に抱えられた、新たな「大盾」だった。
大戦で粉々に砕け散った銀盾に代わり、土竜族の鍛冶師たちが街の救世主である彼女のために、星銀と未知の鉱石を文字通り寝食を忘れて叩き上げ、新たに作り上げた不落の盾。それは以前の倍以上の強度を持ちながらも、ティオの体によく馴染むよう、洗練された美しい青銀色の輝きを放っていた。
「新しい盾、すごく似合っているよ、ティオ」
ユウマが声をかけると、ティオは小麦色の肌を少し赤くしながら、誇らしげに胸を張った。
彼女の赤い瞳には、以前のような悲壮な覚悟ではなく、大切な人々を守り続けるという、健やかで前向きな誇りが満ちあふれている。
「はい! 土竜族の皆さんが、私のために最高の盾を打ってくれました。この盾があれば、例え天が落ちてこようとも、ユウマさんの前を歩き続けることができます!」
「ふふ、相変わらずティオさんは実直ですわね」
ティオの後ろから、静かな足取りでララが歩み寄ってきた。
彼女は特徴的な深い青色の髪を風になびかせ、いつも顔を覆っていたヴェールを外し、その息を呑むほどに美しい素顔を完全に晒していた。故郷を滅ぼした怨敵を自らの手で討ち果たしたことで、彼女を縛る呪縛は完全に消え去ったのだ。
彼女の腰には、以前の双剣ではなく、街の治安維持のために作られた一振りのシンプルな長刀が帯びられていた。
「ララ、素顔で歩くのにはもう慣れたかい?」
「ええ、ユウマ様。この街の皆様は、わたくしの過去も、この姿も、すべてを『仲間』として受け入れてくださいますから。隠す必要など、最初からどこにもございませんの。……これからは、この新しい刃で、あなた様が作られたこの平和な日常を、末永く守らせていただきますわ」
ララはユウマの前に跪き、その細い指先でユウマの手にそっと触れた。彼女の微笑みには、大人の艶やかさと、一人の女性としての深い、揺るぎない愛が宿っていた。
リリィ、ルネ、ティオ、ララ。
そして、公園で遊ぶ子供たち、市場で笑い合う多種族の住人たち、新しく移住してきた人々。
ユウマが作り上げ、彼女たちと共に守り抜いたこの街は、今、間違いなく世界で最も幸福な場所として、眩いばかりの黎明の光の中にあった。
「みんな、本当にありがとう。僕たちの冒険は、一つの大きな節目を迎えたけれど……この街の日常は、これからもっと、面白くて温かいものになっていくはずだ。これからも、よろしくな」
ユウマが全員の顔を見渡し、力強く宣言すると、四人の少女たちは、それぞれに異なる、しかし最高に美しい満面の笑みを浮かべて頷いた。
「「「「はいっ、ユウマさま(さん、様)!!」」」」
響き渡る笑い声と、どこまでも穏やかな潮騒の音。
元一般人の村長と、彼を支える不屈の乙女たちが紡いだ、大温泉開発と世界の危機を巡る物語は、ここに、これ以上ないほどのハッピーエンドとして、ひとまずの幕を閉じるのであった。
――同日、夕刻。
賑やかな宴の準備が進む街の中心から少し離れた、高台の物見櫓。
ユウマたちが去り、しんと静まり返ったその場所の床に、一通の「手紙」が、いつの間にか、風に揺られるようにして置かれていた。
上質な羊皮紙で作られたその手紙の表面には、人間の文字でも、エルフの文字でもない、どこか星の軌道を感じさせるような、見たこともない神秘的な幾何学模様の紋章が刻印されている。
風が吹き抜け、手紙の端がパタパタと音を立ててめくれる。
そこには、地上の言葉とは異なる、しかし確かに何らかの強い『意志』を持った、次のような一文が記されていた。
『深淵の使徒の敗北を確認。……観測対象「ユウマ」、およびその周囲の個体群。彼らの持つ「絆」というエネルギーは、予測値を大幅に超過。……これより、第二段階への移行を具申する。――大いなる天の星々の導きに従い、次の試練を、地上へと下さん』
手紙は、夕暮れの赤い光を浴びながら、まるで最初から存在しなかったかのように、静かに、青白い光の粒子となって空気中へと溶けて消えていった。
遥か彼方の夜空、まだ太陽が沈みきっていない東の空に、一瞬だけ、不自然に強い輝きを放つ「未知の赤い星」が、妖しく瞬いたような気がした。
だが、今の街には、そんな不穏な気配を吹き飛ばすほどの、温かな多種族の宴の歌声と、ユウマたちの幸せそうな笑い声が、どこまでも、どこまでも高く響き渡っているのだった。
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今回が最終話となります!最後まで読んでいただきありがとうございます。励みになります。
最終話、少し含みを持たせませたが、続きを書くかは未定ですm(_ _)m




