第五十八話:深海の残響、黎明の光に溶けて
**キィィィィィィィン――ッ!!!!!**
空間のすべてを凍りつかせるような、極限の金属音が戦場を支配した。
天高く舞い上がったララの二振りの刀――『残響』が、使徒の三つの不気味な眼球のちょうど中心、禍々しい闇の魔力が渦巻く『核』へと完全に突き刺さった。ララの細くしなやかな肢体は、極限まで張り詰められた弓のようにしなり、彼女のミッドナイトブルーの髪が、爆風の逆風を受けて美しく夜空に広がっている。
「これで……終わりに、いたしますわぁぁぁッ!!!」
ララがヴェールの奥の瞳を獰猛に見開き、喉がちぎれんばかりの叫びを上げた。
彼女の全身から、これまでの人生で蓄積されたすべての冷気の魔力が、二振りの刃を通じて使徒の核へと一気に流し込まれていく。
**バリバリバリ、メキメキメキッ!!!**
使徒の黒曜石の甲殻が、核を中心に急速に白く凍りつき始めた。数万の亡者の怨嗟によって形成されていた漆黒の巨躯が、絶対零度の冷気によってその結合を物理的に破壊され、ガラス細工のように脆く変貌していく。
「ギ……ギシ、ィ……ア、ァ、ァ……ッ!?!?!」
深淵の使徒は、信じられないというように三つの眼球を激しく痙攣させた。地上の羽虫と侮っていた存在に、まさかこれほど致命的な一撃を叩き込まれるとは夢にも思っていなかったのだ。奴は最後の力を振り絞り、ルネの影縛りを強引に引きちぎって、巨大な神槍をララへと向けようとした。
「……させ、ない、ですぅぅぅぅッ!!!」
防壁の陰から、ルネが口元から溢れる血を拭うこともせず、自身の細い指先を地面へと突き立てた。彼女のオッドアイの瞳は完全に血走っており、限界を超えた精神力で、大地の底に残る最後の魔力を絞り出す。
使徒の影から無数の黒い刺が突き出し、奴の右腕を再び空間へと縫い止めた。ほんの一瞬。だが、その一瞬があれば、彼女たちの「絆」を繋ぐには十分すぎた。
「ティオちゃん、今だよぉ! 奴を押し込んでぇぇッ!!」
リリィが涙を流しながら、叫び声を上げる。
「はぁぁぁぁぁぁッ!!!!! 砕け散れぇぇぇッ!!!」
最前線で光線を浴び続けていたティオが、最後の力を振り絞って地を蹴った。
彼女の小麦色の肌からは無数の血が吹き出していたが、その赤い瞳は勝利だけを見据えていた。右腕一本で構えた大盾を、使徒の溶けかけた足元へと文字通り体当たりで叩き込む。
**ドガァァァァァンッ!!!!!**
体勢を完全に崩し、仰向けに倒れ込もうとする使徒の巨体。その無防備になった核へ、ララが自らの体重のすべてを乗せて、二振りの刀をさらに深く、根元まで突き立てた。
「――響き渡りなさい、『残響』!!!」
**パリィィィィィィィンッ!!!!!**
世界が、真っ白な光の粒子によって埋め尽くされた。
使徒の核が、ララの最大解放された冷気によって内側から完全に爆発したのだ。
その瞬間、ララが愛用し続けてきた二振りの名刀『残響』の表面に、無数の細かい亀裂が走った。使徒の強大な魔力の逆流と、限界を超えた冷気の出力に、刃が耐えきれなくなったのだ。
カラン、カラン……と、悲しげな金属音を立てて、ララの双剣は最後の一撃と引き換えに、粉々に砕け散って砂浜へと落ちていった。
そして――。
**ズゥゥゥゥゥゥゥゥォォォォンッ!!!!!**
体長数十メートルに及ぶ深淵の使徒の巨体が、完全に凍りついたまま、砂浜へと轟音を立てて崩れ落ちた。
倒壊した巨体は、地面に激突した衝撃で、まるで巨大な氷の彫刻が壊れるように、サラサラとした白い塵となって霧散していく。奴が纏っていた禍々しい腐食の霧も、朝の引き波とともに、綺麗さっぱりと海の彼方へと洗い流されていった。
周囲に残っていたアビサル・レギオンの雑兵どもは、主を失ったことで完全に戦意を喪失し、あるいは塵となり、あるいは這うようにして、一斉に不気味な海の中へと逃げ帰っていった。
荒れ狂っていた黒い波が、嘘のように静まっていく。
雲の隙間から、温かな朝の光が、静かに海岸線へと降り注ぎ始めた。
「……か、勝った……?」
守備隊の戦士の一人が、ぽつりと呟いた。
その声は、静まり返った海岸線に小さく響いた。
「勝った……! 俺たちの勝ちだぁぁぁぁぁッ!!!」
「村長! ティオ様! ララ様! ルネ様! リリィ様!! 俺たち、生き残ったんだぁぁぁッ!!!」
次の瞬間、防壁のあちこちから、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
土竜族の戦士たちは互いに頑丈な身体をぶつけ合って涙を流し、妖花族の女性たちは抱き合って勝利を喜び合っている。誰もが、神話の時代の災厄を退けたという奇跡に、身体を震わせていた。
だが、最前線の中心に立つ少女たちには、もう歓声に応えるだけの力は残されていなかった。
「……あ……」
ティオの右腕から、不意に力が抜けた。
彼女がこれまで何百回、何千回と敵の攻撃を防ぎ、自らの命そのものであった巨大な銀盾――。
使徒の全力の光線を受け止め続けたその盾は、中心から綺麗な二つへと割れ、ガシャリ、と虚しい音を立てて砂浜へと崩れ落ちた。土竜族が施した最高の星銀の補強板も、その役割を完全に全うし、役目を終えたように輝きを失っていた。
「私の……盾が……」
ティオは、壊れてしまった盾を見つめ、どこか呆然としたようにつぶやいた。だが、その顔に悔いはなかった。彼女の引き締まった肢体は限界を迎え、そのまま糸の切れた人形のように、砂浜へと倒れ込もうとする。
「――ティオ!」
その身体が地面に落ちる直前、ユウマが激しく駆け寄り、彼女の豊かな胸元を抱きとめた。
「ユウマ……さん……」
ティオは、ユウマの温かい胸の中で、安心したように赤い瞳を細めた。
「私……守れましたか? あなたの、みんなの街を……」
「ああ、完璧に守り抜いてくれたよ、ティオ。君は最高の、世界一の騎士だ」
ユウマが強く彼女を抱きしめると、ティオの頬が、怪我の紅潮とは異なる、純粋な嬉しさでぽっと赤くなった。
「ふふ……本当に、不公平ですわね、ティオさんだけずるいですわ」
隣から、しっとりとした、しかし酷く疲れ切った声音が聞こえた。
ララが、柄だけになってしまった武器を砂浜に捨て、自らの脇腹を押さえながら、ふらふらとした足取りで歩み寄ってきた。彼女のミッドナイトブルーの髪は塩水と血で固まっていたが、その佇まいは、どこまでも妖艶で、美しかった。
「ララ!」
ユウマは空いた左腕で、ララのしなやかな腰を支え、自らの身体へと引き寄せた。
「無茶をしやがって……。二振りの刀が、壊れちゃったな」
「構いませんわ、ユウマ様……。あの刃は、私の過去の『怨念』そのもの。奴の核をブチ抜いた瞬間、私の過去も、綺麗に砕け散ったのですから……。これからは、あなた様が与えてくださる新しい光だけを、この目に映して生きていきますわ……」
ララは、ユウマの首筋にその濡れた顔を埋め、深く、満足そうな吐息を漏らした。ヴェールの奥で見せた彼女の笑顔には、長年彼女を縛り続けていた故郷の亡霊から、ついに解放されたという、本物の救いが宿っていた。
「……ユウマさま……、私、も……褒めて、ほしいですぅ……」
足元から、弱々しい声が聞こえた。
ルネが、自分の小さな羽根を完全に丸め、ユウマの服の裾をぎゅっと握りしめていた。オッドアイの瞳はもう半分閉じかけており、今にも眠ってしまいそうなほど衰弱している。
「ルネ!」
ユウマはティオとララを優しく抱えたまま、膝をついて、ルネの小さな身体を自分の膝の上へと乗せた。
「凄い索敵だったよ、ルネ。君の目がなければ、僕たちは何度も死んでいた。本当にありがとう」
「……えへへ……ユウマさまの、お膝、あったかい、ですぅ……。……もう、一歩も、動けない、ですぅ……」
ルネは満足そうに小さな鼻を鳴らし、ユウマの胸元に顔を押し付けて、そのまま小さな寝息を立て始めた。魔力を使い果たした彼女にとって、ここが世界で最も安全なシェルターだった。
「もう! みんな、ユウマさまに甘えすぎだよぉ!」
防壁の残骸から、リリィが泥だらけの両手を腰に当て、ぷんぷんと怒りながら歩いてきた。
彼女の金髪は煤で真っ黒になり、綺麗な顔も泥だらけだったが、その瞳には、かつての幽閉生活にはなかった、仲間と共に戦い抜いた者だけが持つ、眩いばかりの生命の輝きが満ちていた。
「リリィ……。君の声が、みんなの心を繋ぎ止めてくれたんだ。ありがとう」
ユウマが心からの感謝を伝えると、リリィは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、すべての緊張が解けたように、ふにゃりと柔らかい、極上の笑みを浮かべた。
「うん! リリィね、とっても怖かったけど……ユウマさまが、リリィの知識を信じてくれたから、頑張れたんだよぉ! だからね、リリィも……混ぜてぇぇ!」
リリィはそう言うと、ユウマと、彼に抱きつくティオ、ララ、ルネの全員を包み込むようにして、上から大きく抱きついた。ハーフエルフとしての豊かな体温と、どこか甘い樹液のような香りが、血生臭かった戦場を優しく上書きしていく。
朝日が、海岸線全体を黄金色に染め上げていく。
不気味に荒れ狂っていた海は、今や穏やかな凪となり、寄せては返す波の音が、心地よいリズムとなって傷ついた彼らの身体を癒やしていた。
ティオの盾は壊れ、ララの双剣も失われた。全員が満身創痍で、一歩も動けないほどの疲弊の中にいる。
けれど、彼らの胸にあるのは、圧倒的な「安堵」と、仲間と共にこの大切な場所を守り抜いたという、確固たる幸福感だった。
「……終わったんだな」
ユウマは、腕の中の愛おしい少女たちの温もりを感じながら、静かに目を閉じた。
この嵐が過ぎ去れば、またあの賑やかな商人たちが、多種族の笑い声が、この街へと戻ってくる。自分たちが命を懸けて守り抜いたこの地上で、これまで以上に豊かで、誰もが笑って過ごせる「最高の街」を、また明日から、みんなで作っていけばいい。
心地よい朝凪の音に包まれながら、ユウマたちは、長く激しい戦いの終わりを、静かに、しかし深く噛み締めるのだった。
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