第五十七話:深淵を割る黎明、死線を越えた一撃
**ドガァァァァァンッ!!!!!**
神話の槍が防壁の厚い石組みを掠め、爆風とともに数トンの巨石が四散した。飛び散る石の破片がティオの頬を掠め、一筋の赤い血が小麦色の肌に伝う。
すでに限界だった。ティオの右腕は、使徒の放つ「物理的な質量」と「腐食の風圧」を何度も受け止めたことで完全に感覚を失い、銀盾を握る指先は己の血で真っ赤に染まっている。
「ハァ……ハァ、ハァ……ッ! ま、だ……まだですっ……!」
ティオは激しく喘ぎ、肺が焼けるような痛みに耐えながら、折れそうな膝を強引に地面へと固定した。彼女の後ろには、戦索の魔力を限界まで絞り出し、鼻から一筋の血を流しながらも目を見開いているルネがいる。さらにその後ろには、傷ついた戦士たちに「頑張ってぇ! 諦めちゃダメぇ!」と声を枯らして叫び、包帯を巻き続けるリリィの姿があった。
劣勢。それは誰の目から見ても明らかだった。
だが、その絶望の泥沼の中で、ユウマたちの「意志」だけは、泥を被るほどに鋭く、そして熱く研ぎ澄まされていた。
「ギシュゥゥァァァァッ!!」
使徒の足元から、再び十数体の特異個体が、盾を失いかけたティオの死角へと殺到する。黒曜石の甲殻が、銃眼から漏れる緑の残り火に怪しく光った。
「――我が姉妹の道を、これ以上塞ぐなと言っているでしょうがぁぁぁッ!!」
**シュバァァァァッ!!!**
空間を切り裂く濃紺の残光。
ララが脇腹の激痛を無視し、文字通り「死線」を越えた速度で影から躍り出た。二振りの刀『残響』が美しく交差すると同時に、迫り来る特異個体三体の首が、ガチガチに凍りついたまま宙を舞う。
しかし、着地したララの膝が、激しい痛みのあまり一瞬だけガクリと折れた。
「くっ……うふふ、さすがに、少しばかり身体が重いですわね……」
ララはヴェールの奥で妖艶に、しかし確実に疲弊しきった笑みを浮かべた。彼女の纏う濃紺の衣装は、自らの血と敵の返り血で完全に黒ずんでいる。
「ララさん、右! 十歩後ろの影の底に、もう一体潜んでいるですぅ!」
ルネが枯れた声を振り絞り、正確な敵の位置を叫ぶ。
「感謝いたしますわ、ルネさん――そこねぇッ!」
ララはルネの指示を信じ、振り返ることもなく刀を後方へと突き出した。刃は正確に、影から飛び出そうとしていた特異個体の眉間を貫く。
耐えている。ボロボロになりながらも、四人の少女たちは互いの欠陥を埋め合うようにして、使徒の圧倒的な蹂躙に対して、文字通り「肉の壁」となって立ち塞がり続けていた。
(必ずある。どれほど巨大で、どれほど完璧に見える化け物だろうと、この地上に這い上がってきた以上、肉体を持つ物質である以上……絶対に『弱点』はあるはずだ!)
ユウマは防壁の奥で、短剣を握り締めたまま、使徒のあらゆる挙動を狂ったように脳内へ記録し、分析していた。
リリィが教えてくれた古代の禁書の記述。ルネが命懸けで感知し続けている使徒の魔力波形。ティオが盾で受け止めた際の衝撃の方向。そして、ララが肉薄した際に見せた、使徒のわずかな「拒絶反応」。
それらのすべてのピースが、ユウマの脳内で一つの線へと繋がり始めた。
「……そうだ。奴のあの巨大な神槍、あれはただの武器じゃない。海水の質量と腐食の霧をコントロールするための『魔力伝導体』だ」
ユウマの瞳に、極限の緊張感の中で、冷徹なまでの光が灯る。
「奴が槍を振り上げる時、三つの青白い眼球の輝きが一瞬だけ暗くなる。それは、全身の魔力をあの槍の一点に集中させているからだ。つまり……槍を放つ直前のその一瞬、使徒の本体は、完全に『無防備』になる!」
「ユウマさま……それ、本当ですか、ですぅ……?」
ルネが顔を上げ、オッドアイの瞳でユウマを見つめた。
「ああ、間違いない。だけど、その一瞬の隙を突くためには、奴に『渾身の一撃』を放たせる必要がある。奴が確実に僕たちを仕留めようと、すべての魔力を槍に込める、その瞬間を意図的に作り出すんだ」
ユウマの言葉に、最前線で血を流していたティオとララが、同時に振り返った。二人の顔には、恐怖ではなく、「ようやく反撃の手がかりを掴んだ」という、狂おしいほどの歓喜の笑みが浮かんでいた。
「……成る程。つまり、わたくしが死に花を咲かせる覚悟で、あの化け物の懐へ飛び込めばいいのね?」
ララが刀についた黒い血を払いながら、しっとりと微笑む。
「いいえ、ララさん。使徒の全力を引き出すための『最大の標的』は――この私の盾です!」
ティオが銀盾を強く叩き、激しい音を響かせた。
「奴は、何度も自分の攻撃を弾き返している私の盾を、目障りに感じているはずです。私がすべての防備を捨てて前方へ突撃すれば、奴は確実に、私ごと防壁を消し去るために『最大の突き』を放ってきます!」
「ティオちゃん、そんなの危険すぎるよぉ!」
リリィがティオの腕を掴み、涙ながらに叫ぶ。
「もし奴の全力を受け止めきれなかったら、ティオちゃんの身体、今度こそ粉々になっちゃうんだよぉ!?」
「分かっています、リリィさん。だからこそ……耐えてみせます。ユウマさんが、みんなが作ってくれたこの星銀の盾と、私の命を懸けて!」
ティオの赤い瞳には、一切の躊躇もなかった。主のために盾となり、主のために死線を越える。それが、彼女が自らに課した唯一の誇りだった。
「いや、ティオ、君一人にすべてを背負わせはしない」
ユウマは歩み寄り、ティオの血に染まった右手に、自らの手を重ねた。
「君が突撃すると同時に、リリィと僕で、残りのすべての『特製油瓶』に点火し、奴の足元へ投げ込む。火力を一瞬で爆発させて、奴の体勢をわずかに崩すんだ。ルネは、残ったすべての魔力を使って、使徒の槍を持つ右腕の影を、一秒、いや、コンマ数秒だけでいいから引き止めてくれ」
「……了解、ですぅ。……私の脳みそが、消し飛んでも、絶対に止めてみせるですぅ」
ルネが血の混じった笑みを浮かべる。
「そしてララ。君が、我が街の最高の『刃』だ」
ユウマはララを見つめた。
「ティオが使徒の全力を受け止め、奴の動きが一瞬だけ止まったその瞬間、リリィの炎を割って跳べ。奴の三つの眼球の中心にある『核』、そこを君の残響で、完全にブチ抜いてくれ!」
「ええ……ええ、ユウマ様! お任せくださいな。わたくしのこの命、この二振りの刃、すべてはあなた様が描く勝利の未来のために!」
ララは深く一礼し、その身体を究極の集中状態へと沈め始めた。彼女の周囲の大気が、青白い冷気でパチパチと凍りついていく。
「リリィ、これが僕たちの最後の仕掛けだ。怖いかい?」
ユウマが尋ねると、リリィは溢れる涙をブラウスの袖で力強く拭い、ユウマの顔を真っ直ぐに見返した。そのハーフエルフとしての美しい容姿には、幽閉の闇を潜り抜けた者だけが持つ、不屈の知性と覚悟が満ち満ちていた。
「ううん、怖くないよぉ、ユウマさま! リリィは魔法は使えないけれど、ユウマさまとみんなのことが、世界で一番大好きなんだもん! 大好きな人のためなら、リリィ、どんな化け物だって焼き尽くしてあげるんだからぁ!」
「よし――全責任は僕が持つ。全員、最後の作戦を、開始するぞ!!!」
「「「「おおおおおぉぉぉぉぉぉッ!!!!」」」」
**ズ、ズ、ズ、ズ、ズ……ッ!!!**
深淵の使徒が、その巨大な三叉の神槍をゆっくりと頭上へと掲げた。
奴の三つの青白い眼球が、不気味にギラリと輝き、周囲の雑兵どもが一斉に左右へと退避していく。奴自身も、この小生意気な地上の羽虫どもを、次の一撃で完全に圧殺する決意を固めたのだ。
周辺の腐食の霧が、渦を巻くようにして神槍の先端へと収束していく。空間が歪み、防壁の石造りの床が、奴の魔圧だけでメキメキと砕け散っていく。
「――我が名はティオ! ユウマ様の不落の盾なり!!!」
その絶大なる破壊の渦に向けて、ティオが地を蹴った。
左肩から血を流し、右腕一本で銀盾を構えた若き女騎士が、文字通り「一塊の流星」となって、使徒の巨体へと真っ直ぐに突撃していく。
「ギシ、ァァァァァァァッ!!!!」
使徒の眼球が、ティオの突撃を捉えた。
次の瞬間、奴の神槍から、地上のすべてを消滅させるかのような、漆黒の光線が放たれた。
**ドガァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!**
世界が、真っ黒な光によって埋め尽くされた。
ティオの構える星銀の盾が、奴の全力の一撃と正面から激突する。バリバリバリと、星銀の補強板が激しい火花を散らし、一本、また一本と亀裂が入っていく。
「あ、ぐぅ、あぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
ティオの口から、凄絶な悲鳴が上がる。彼女の足元の石畳は完全に粉砕され、彼女の身体は、奴の光線に押し潰されそうになりながらも、ミリ単位で前へと進み続けていた。背中の筋肉が悲鳴を上げ、皮膚が圧力で裂け、血が噴き出す。だが、彼女の目は死んでいなかった。
「今だよぉぉぉぉぉぉッ!!!!! 燃えちゃえぇぇぇぇッ!!!」
その激突の瞬間、リリィとユウマが、防壁の残骸から残りの特製油瓶、数十本を、使徒の足元へと一斉に投擲した。
土竜族の戦士たちも、リリィの声に応えて残りの備蓄をすべて投げ込む。
**ドガガガガガガガォォォォンッ!!!**
ティオの盾が耐え抜いたその一瞬、使徒の足元で、水の中でも消えない「緑色の地獄の業火」が、これまでを遥かに凌駕する規模で大爆発を起こした。超高温の化学炎が、使徒の巨体を包む亡者の粘液を一瞬で蒸発させ、その太い脚の甲殻をドロドロに溶かしていく。
「ギ、ギシィァァァァァッ!?!?!」
初めて、使徒の口から、戸惑いと苦痛の混ざった咆哮が上がった。
足元を焼かれ、奴の巨大な体勢が、わずかに前方へと傾く。
「……そこ、ですぅ……! 動く、な、ですぅぅぅぅッ!!!」
ルネが、自身の両目から鮮血を流しながら、全霊の叫びを上げた。
使徒が体勢を崩したその影の隙間に、ルネの残りの全魔力を編み込んだ、最大にして最硬の「影の楔」が、ガチィィィィンッ!と突き刺さった。使徒の巨大な右腕が、槍を引こうとしたその動作のまま、空間に完全に固定される。
時間にして、わずか一秒に満たない、コンマ数秒の静止。
だが、ユウマたちが命を懸けて繋ぎ止めた、それはあまりにも決定的で、あまりにも美しい「勝機」だった。
「――ララ!!! 行けぇぇぇぇぇッ!!!!」
ユウマの声が、戦場を引き裂いた。
「――『残響・極界落花』」
緑の爆炎の渦を割って、一筋の「濃紺の閃光」が天へと駆け上がった。
ララは自らの負傷を完全に忘れ、肉体の限界を完全に突破した神速の跳躍を見せていた。彼女の持つ二振りの刀は、絶対零度の冷気を纏い、美しく、そして冷徹な軌跡を描きながら、使徒の無防備な三つの眼球の中心――その禍々しい『核』へと、一直線に突き進んでいく。
絶望の闇を切り裂く、黎明の刃。
少女たちの不屈の絆と、ユウマの指揮がもたらした、運命を逆転させるための一撃が、今、深淵の使徒の心臓部へと向かって、容赦なく振り下ろされようとしていた。
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