第五十六話:絶望の巨影、不屈の乙女たちが紡ぐ最後の戦線
その巨大な「異形」が、干上がった海底から砂浜へとその太い脚を踏み出した瞬間、世界からすべての色彩が失われたかのように思えた。
『深淵の使徒』。
数万の亡者の怨嗟を編み上げて作られたような漆黒の巨躯。頭部に不気味に並ぶ三つの青白い眼球は、地上の生命すべてをただの「餌」としか認識していない、絶対的な虚無を湛えていた。奴が巨大な三叉の神槍をわずかに傾けるだけで、周囲の空間が物理的な重圧によってミシミシと軋み、大気が腐食の臭気で満たされていく。
防壁の内側にいた守備隊の戦士たちは、誰一人として声を上げることすらできなかった。
「あ、ああ……あんなの、どうやって倒せって言うんだ……」
「俺たちの武器が……星銀の槍が、届きもしない……」
ある者は槍を手落とし、その場にへたり込んだ。ある者は、神話の天災そのものを前にして、完全に思考を停止させ、虚ろな目で宙を見つめている。
先ほどまで「勝てる」と沸き立っていた歓声は一瞬で掻き消え、防壁の中は、死を待つ者たちの重苦しい沈黙と、圧倒的な絶望感によって完全に支配されていた。
あまりの次元の違いに、街の戦士たちの心は、戦う前に完全にポッキリと折られてしまったのだ。
――だが。
その絶望の底にあっても、決して下を向かない、四人の少女たちがいた。
「――ふん、ぬぅぅぅぁぁぁぁぁッ!!! カハッ……!」
**ズガァァァァァンッ!!!**
凄まじい衝撃波とともに、ティオの身体が大きく後方へと弾き飛ばされた。
深淵の使徒が、地上の虫ケラを払うかのように無造作に放った槍の風圧――ただの風圧である。それを正面から受け止めたティオの銀盾は、激しく火花を散らし、打ち付けられた星銀の補強板が限界を超えて悲鳴を上げていた。
彼女の左肩の傷口からは、再び鮮血が噴き出し、健康的な小麦色の肌を赤く染めている。だが、彼女の赤い瞳には、絶望の色の代わりに、烈火のごとき闘志がギラギラと燃え盛っていた。
「まだまだ……! まだですっ! 私の足が動く限り……この盾が粉々に砕け散るまでは……! 貴様のような化け物に、我が主の、みんなの街への歩みを進めさせるわけには……いかないんだぁぁぁッ!」
ティオは口元の血を乱暴に拭うと、折れそうになる両足に力を込め、再び地面を深く踏み締めた。
彼女は知っていた。自分が一歩でも退けば、その瞬間に防壁が崩壊し、後方にいるユウマが、そして街の皆がその巨体に踏み潰される。その恐怖よりも、ユウマを失うことの恐怖の方が、彼女にとっては遥かに大きかった。傷つき、血を流しながらも、若き女騎士は文字通り「不落の壁」として、使徒の進行を必死に押し留め続けていた。
「ギシャァァァッ!」
「ル、グルァッ!」
使徒の威容に呼応し、周囲の雑兵たちが、盾を失いかけたティオの隙を突こうと一斉に槍を突き出してきた。その数、十数体。
「――我が姉妹の道を塞ぐなと、言っているでしょうがぁぁぁッ!」
**シュバァァァァッ!!!**
空間を切り裂く濃紺の残光。
満身創痍のはずのララが、影の底から狂気的な速度で躍り出た。
彼女の脇腹には、先ほど受けた凄絶な打撃の痕がどす黒く残っており、息を吸うたびに激痛が彼女の美しい顔を歪ませていた。しかし、彼女の二振りの刀は、少しのブレもなく、ティオへ迫る異形どもの首を正確に、かつ容赦なく切り落としていった。
飛び散る黒い血飛沫が、ララのミッドナイトブルーの髪を濡らす。ヴェールの奥の瞳は、冷徹な暗殺者のそれでありながらも、使徒の巨体を見据えて、鋭い「隙」を窺い続けていた。
「ティオさん、そのまま支えなさい! 奴がその不気味な槍を振り上げる瞬間……必ず、その懐に一瞬の死角が生まれますわ! わたくしのこの命に代えても、あの三つの眼球、すべて引き裂いてみせます!」
「はい、ララさん……! 合わせてみせますっ!」
傷つき、ボロボロになりながらも、二人の前衛は、互いの背中を預け合い、神話の天災に対して一歩も退かずに牙を剥き返していた。
防壁のすぐ裏手。魔力を極限まで使い果たしたルネは、すでにその背中の小さな羽根を動かす体力すら残されていなかった。
いつもなら宙を軽やかに舞う彼女の身体は、冷たい石畳の上にがっくりと膝をつき、両手で身体を支えるのがやっとの状態だった。オッドアイの瞳からは光が失われかけ、呼吸は浅く、激しく喘いでいる。
しかし、彼女は目をつむらなかった。
「……ハァ、ハァ……ユウマさま、聞こえる、ですか……っ。……使徒の足元、右側から、影の波が……回り込もうとしてる、ですぅ……。ティオさんの死角……、ララさん、そこから、十歩下がった場所に、特異個体が伏せてるですぅ……!」
ルネは、自身の脳が焼き切れるかのような激痛に耐えながら、魂を削るようにして索敵の魔力を絞り出し続けていた。彼女は魔法が使えなくなったとしても、その「目」と「声」がある限り、戦うことを諦めない。
自分の索敵が遅れれば、前線で命を張る姉妹たちが死ぬ。それが分かっているからこそ、小柄な身体を震わせながら、的確な敵の位置をユウマたちへ伝え続けていた。
「リリィさん、次の、油瓶の信管……っ。……防壁の、左側の隙間に、配置するですぅ……!」
「分かった、分かったよぉ、ルネちゃん! すぐに持っていくからねぇ!」
リリィは、使徒の圧倒的な威圧感による精神的ショックから、完全には立ち直れていなかった。彼女の細い指先は、今でもガタガタと震えており、涙がボロボロと溢れて止まらない。エルフの国で世界の終わりが記された禁書を読んだ時の、あの「絶対的な無力感」が、彼女の胸を締め付けていた。
けれど、リリィは、しゃがみ込むことを拒絶した。
「みんな、諦めちゃダメだよぉ! 弱音を吐いたら、リリィが怒っちゃうんだからぁ!」
彼女は泣きながら、大声を張り上げた。
折れかけていた守備隊の戦士たちの手を強引に引っ張り、傷口に包帯を巻き、気付けの薬草を口に放り込んでいく。
魔法が使えないハーフエルフ。戦闘力を持たない彼女が、今、この戦場で誰よりも激しく動き回り、崩壊しかけた戦線を精神的につなぎ止めようとしていた。
「ほら、あなたも立って! 槍を拾って! ティオちゃんもララちゃんも、あんなに血を流しながら、ユウマさまとこの街のために戦ってるんだよぉ!? 私たちがここで諦めたら、リリィたちが大好きな、あの温かい温泉に、みんなで二度と入れなくなっちゃうんだよぉぉ!!」
リリィの、悲痛ながらも力強い叫び。
その声は、恐怖に凍りついていた守備隊の戦士たちの心に、小さな、しかし熱い火を灯し始めていた。
「……そうだ。俺たちは、村長に、あの女の子たちに、守ってもらうためだけにここに残ったわけじゃねえ……!」
「おうよ……! あの化け物に、俺たちの家を、踏みにじらせてたまるかよ!」
リリィの声に導かれるように、一人、また一人と戦士たちが武器を拾い上げ、再び防壁の銃眼へと取り付き始めた。
前線で盾となるティオ。
影から刃を振るうララ。
限界を超えて目となるルネ。
そして、泣きながらも戦線をつなぎ止めるリリィ。
四人の少女たちの、どこまでも気高く、どこまでも不屈なその姿が、絶望の巨影に覆われた最前線に、確かな「希望の灯火」を灯し続けていた。
「……みんな……」
ユウマは、彼女たちの背中を見つめ、短剣の柄を、文字通り指が白くなるほどの力で握り締めた。
恐怖は、もうどこにもなかった。あるのは、自分を信じ、この街を愛し、命を懸けて戦う彼女たちを、絶対に死なせないという、魂の底から湧き上がる猛烈な怒りと、決意だけだった。
「アビサル・アポストル……。貴様がどれほどの天災だろうと、僕たちの絆を、この街の未来を、踏み潰せると思うなよ……!」
血煙と硝煙が入り乱れる防壁の奥で、ユウマは、四人の少女たちと共に、真の絶望へと立ち向かうための「最後の一手」を、その胸の中で研ぎ澄まし始めるのだった。
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