第五十五話:不屈の咆哮、そして深淵の最奥から這い出る絶望
**ガギィィィィンッ!!!**
「ぐ、うぅぅぅッ……!」
狭い防壁の中に、耳を劈くような硬質な金属音が木霊する。
左肩を深く切り裂かれ、鮮血に染まったティオは、それでもなお、右腕一本で星銀の銀盾を文字通り泥臭く地面に突き立てていた。その健康的な小麦色の肌には、飛び散った返り血と煤が混ざり合い、いつもなら完璧に整えられている美しい髪が、汗で額に張り付いている。
「ティオちゃん、もう無理しちゃダメだよぉ! 傷口が開いちゃう!」
リリィが涙目で叫びながら、手持ちの薬草の粉末をティオの傷口へ必死に擦り込んでいた。魔法の使えないリリィにとって、これが今できる唯一の、そして命懸けの戦いだった。彼女の豊かな胸元は、恐怖と焦燥で激しく上下し、上質な旅装はすでに仲間たちの血で赤黒く汚れている。
「……言ったはずです、リリィさん。私の盾が砕けるまでは、ユウマさんの前に奴らを一歩も……通さないと!」
ティオは悲痛なまでの声を張り上げ、奥歯が軋むほどの力で盾を押し返した。
そのすぐ傍らでは、脇腹に凄絶な打撃を受けながらも、ララが二振りの刀を構えて不敵に笑っていた。
「うふふ……本当に、しつこい泥人形どもですわね。わたくしの身体にこのような不作法な傷をつけたこと、その命のすべてを以て、償っていただきますわ!」
ララはミッドナイトブルーの髪を激しくなびかせ、痛みに耐えるようにして一歩、地を踏み締めた。ヴェールの奥の瞳には、かつて故郷を奪われた時と同じ絶望を、二度と繰り返さないという凄絶なまでの執念が宿っている。しなやかな大人の肢体が、限界を超えた速度で再び影へと溶け、特異個体の喉元を正確に切り裂いていく。
「……ハァ、ハァ……右から、さらに、三体……っ。……私の、影縛りで、一瞬だけ止めるですぅ……!」
ルネは小柄な身体を丸めるようにして、オッドアイの瞳から血が滲むほどの魔力を絞り出していた。背中の小さな羽根は激しく小刻みに震え、限界以上の索敵と足止めにより、彼女の白い肌は透き通るほどに蒼白くなっている。
圧倒的な、劣勢。
だが、誰一人として、その心を折ってはいなかった。
ユウマは、目の前で傷つきながらも自分を、そして街を守るために踏ん張る彼女たちの背中を見つめ、脳細胞を狂ったように加速させていた。
(必ずどこかに、この膠着を、劣勢を破る『糸口』があるはずだ。奴らは確かに強い、物量もある。だけど、どんな軍勢にも必ず効率的な『流れ』があるはずなんだ……!)
ユウマは短剣を構えたまま、銃眼の向こう側で激しく燃え盛る緑の業火と、そこを突破してくる特異個体の動きを凝視した。
その時、ユウマの目が、ある規則性に気づく。
「――待て。奴ら、ただ闇雲に突っ込んできているわけじゃない!」
「……ユウマさま、どういうこと、ですぅ……?」
ルネが息も絶え絶えに尋ねる。
「特異個体が防壁に取り付く直前、必ず、燃え盛る炎の向こう側から『高い周波数の甲高い鳴き声』が聞こえてくる。あの鳴き声が、奴らの突撃のタイミングを統制しているんだ。……ルネ! あの鳴き声の主の魔力、探知できるか!?」
ルネは即座に目をつむり、大地の底へと意識を向けた。数秒の後、彼女は目を見開く。
「……いたですぅ! 前線から、五十メートル後方の、炎の影……! 周囲の雑兵よりも、二回りほど小さな個体が、奇妙な魔力を発信し続けているですぅ! あれが、この特異個体たちの『指揮官』ですぅ!」
「見つけたッ……!!」
ユウマの瞳に、鋭い反撃の光が灯る。
「リリィ! まだ動かせる油の瓶はいくつある!?」
「え、あ、うん! リリィが命懸けで作った特製の瓶が、まだ三つ残ってるよぉ!」
「ティオ、右腕は動くかい!?」
「はい! 盾を構えるくらいなら、あと百回は耐えられます!」
「よし、作戦を変更する! 守り切るんじゃない、あの指揮官個体を一撃で潰して、奴らの連携を崩壊させるんだ!」
ユウマは即座に防壁の戦士たちへ指示を出した。
「ティオ、あの通気口の隙間から、ララを前方へ放り投げるための『踏み台』になってくれ! ララ、君の最高速度で、ルネが指し示すあの指揮官の首を落とせるか!?」
「ふふ、わたくしを誰だと思っていらっしゃいますの? ユウマ様のためなら、嵐の海すら切り裂いてみせますわ」
ララは不敵に微笑み、二振りの刀を美しく交差させた。
「リリィはララが跳ぶと同時に、あの指揮官の周囲へ残りの油瓶をすべて投擲して、敵の援護を遮断してくれ!」
「任せてぇ! リリィのノーコン、今日だけは神様、真っ直ぐ飛ばしてぇぇ!」
「ルネ、一瞬だけ、本当に一瞬だけでいい、あの指揮官の足元の影を縫い止めてくれ!」
「……御意、ですぅ。……私の、全魔力を、そこに賭けるですぅ!」
絶望的な劣勢の中で、ユウマの言葉が一本の強固な「芯」となり、少女たちの力を再び一つへと結集させていく。
「――今だ! 行けぇぇぇぇッ!!!」
ユウマの叫びが防壁内に響き渡る。
「はぁぁぁぁぁぁッ!!」
ティオがその頑丈な銀盾を水平に構え、渾身の力で上へと跳ね上げる。その盾の表面を、ララが凄まじい脚力で踏み締め、大空へと躍り出た。
まるで、新緑の夜空を疾る濃紺の流星。
「これでも、喰らいなさいなぁぁ!!」
リリィが渾身の力で投げつけた三つの陶器瓶が、見事な放物線を描いて指揮官個体の頭上へと直撃し、緑色の爆炎がその周囲の護衛を一瞬で焼き尽くす。
「……動くな、ですぅ!!」
ルネのオッドアイから放たれた漆黒の影の触手が、指揮官個体の足首へとガチリと絡みつき、その動きを完全に停止させた。
「ギ、ギシシィ!?」
異形が驚愕の声を上げたその瞬間。
「――『残響・落花二連』」
空中から垂直に舞い降りたララの刃が、冷気の魔力を爆発させながら、指揮官個体の首を綺麗に一文字に切り裂いた。
**ズバァァァァァンッ!!!**
指揮官の頭部が緑の炎の中に転がり落ちると同時に、防壁に群がっていた特異個体たちの動きが、まるで糸の切れた人形のようにピタリと止まり、統制を失って右往左往し始めた。
「やった……! 作戦成功だ! 奴らの連携が崩れたぞ!」
守備隊の戦士たちが歓声を上げる。
統制を失ったアビサル・レギオンの兵力は、今や残りわずか。流砂と魔藻、そして未だ燃え盛る業火の中に孤立した雑兵たちが、次々と地上の武器によって討ち取られていく。
均衡は破られ、戦況は一気にユウマたちの「完全なる優勢」へと転じかけていた。誰もが、これで勝てる、この嵐を乗り越えられたと、心の底から安堵しかけた――その瞬間だった。
**ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ……。**
世界全体の「音」が、一瞬にして掻き消えた。
いや、消えたのではない。あまりにも巨大で、あまりにも不気味な「重低音の地鳴り」が、空間に存在するすべての音を圧殺したのだ。
海岸線の砂浜が、まるで巨大な生き物の背中のように激しく波打ち、せっかく築き上げた防壁の石組みに、ピキピキと無数の亀裂が入っていく。
「な、なんだぁ……!? この地響きは、さっきまでの比じゃないよぉ……!」
リリィが自分の身体を支えきれずに床へとへたり込み、恐怖に顔を歪ませた。
「……あ、ありえない……。ありえないですぅ……」
ルネが、自身の頭を両手で抱え込み、ガタガタと激しく震え始めた。彼女のオッドアイの瞳からは、過剰な精神的ショックにより、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
「……海の底が、丸ごと、上がってくるですぅ……。魔力の質が、今までの化け物とは……次元が、世界が違うですぅ……。あんなの、あんなの勝てるわけないですぅ……!」
「ルネ……? 一体、何が来るっていうんだ……」
ユウマの背筋に、これまでに経験したことのないような、絶対的な「死」の予感が突き刺さる。
**ズバァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!**
海岸線から数百メートル先、海そのものが、まるで天を突く巨大な黒い「壁」のように垂直に跳ね上がった。緑の業火など、その圧倒的な海水の質量によって一瞬で押し潰され、じゅっという虚しい音と共に完全に消滅する。
引き波が砂浜を抉り、完全に干上がった海底から――それは、姿を現した。
体長数十メートル。
人間の形を歪に模しながらも、その全身は、数千、数万の亡者の顔が蠢く「生きた漆黒の呪詛」で形成されている。頭部には、深海の底でしか育たない不気味な光を放つ青白い巨大な三つの眼球があり、その手には、街の防壁を丸ごと一突きで破壊できるほどの、巨大な「深淵の神槍」が握られていた。
そいつがただそこに一歩、這い上がってきただけで、空間全体の空気が、物理的な「重圧」となってユウマたちの身体にのしかかってきた。呼吸ができない。心臓が、恐怖で引き絞られるように痛む。
アビサル・レギオンの本隊を統べる真の恐怖――『深淵の使徒』。
神話の時代に地上の半分を海の底へと沈めたとされる、歩く天災そのものが、今、ユウマたちの最善の策を嘲笑うかのように、その圧倒的な絶望の巨体を現したのだった。
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