第四十九話:仄暗き奈落の侵蝕、血煙に染まる防壁
「ギシャァァァァァッ!!」
「ルル、ォォオォォオォッ!!」
防壁の狭い銃眼から吹き込んでくるのは、生臭い潮の香りと、肉を焼く禍々しいまでの熱気、そして耳を聾するほどの異形の咆哮だった。
砂浜を包み込んでいたリリィの業火は、未だ衰えることなく激しく燃え盛っている。だが、深淵の本隊――その物量は、地上の常識を遥かに超越していた。数千の同胞がドロドロに溶け、燃えカスと化していくのを出発点とするかのように、次から次へと、海原の奥底から新たな漆黒の波が這い上がってくる。
一体、また一体。黒曜石の甲殻を持つ特異個体が、まるで炎の壁を強引に圧殺するように、その強靭な肉体を盾にして突進を繰り返していた。
「くっ……! 奴ら、なんて数だ……! 防壁の隙間を完全に狙ってきてるぞ!」
ユウマは短剣を強く握り締め、背中に冷たい汗をぶつぶつと滲ませながら叫んだ。
先ほどララとティオの鮮やかな連携によって一体を仕留めたものの、戦況は「優勢」から、完全な「均衡状態」へと移行し、そして今、じりじりと「劣勢」の坂を転がり落ちようとしていた。
後方に陣取るユウマ、リリィ、ルネの三人は、息を詰めて最前線の二人を支援し続けている。
「ユウマさま、右から四体、さらに左の死角から五体、特異個体が防壁の基部に張り付いたですぅ! このままだと、防壁自体が奴らの腐食の魔力で物理的に押し潰されるですぅ!」
ルネのオッドアイの瞳が、激しく魔力を明滅させる。彼女は小柄な身体を限界まで震わせ、地中と空中の魔力流を必死に操作して、敵の進軍ルートを遅らせる「影の縛り」を放ち続けていた。だが、敵の密度が濃すぎる。彼女の額からは、透き通るような汗が幾筋も流れ落ち、衣服を濡らしていた。
「みんな、これを使ってぇ! まだ油の瓶は残ってるから、リリィがどんどん信管をセットするよぉ!」
魔法を使えないリリィは、自らの腕を泥と煤で汚しながら、重い陶器瓶の栓を狂ったように抜き、点火用の魔石を括り付けていた。彼女の豊かな胸元が激しい呼吸のたびに大きく波打ち、引き締まった肢体からは、戦場に不釣り合いなほどの、悲痛なまでの生命の輝きが放たれている。
「ハァァァァァァッ!!」
**ドガァァァァンッ!!**
ティオの大盾が、再び特異個体の三叉槍を弾き飛ばす。
だが、その衝撃は確実に彼女の身体を蝕んでいた。銀盾の表面に打ち付けられた星銀の補強板は、腐食の呪いこそ防いでいるものの、純粋な物理的質量による「重低音の打撃」までは相殺しきれない。ティオの健康的な小麦色の肌は激しい疲弊で紅潮し、口元からは一筋の赤い血が伝い落ちていた。
「ティオ、無理をするな! 交互に下がって呼吸を整えろ!」
ユウマが叫ぶ。
「い、いいえ……! 私が下がれば、この防壁の中に奴らが雪崩れ込みます……! ユウマさんに、奴らの汚らわしい刃を向けさせるわけには……いきませんっ!」
ティオは激しく喘ぎながら、折れそうになる膝を強引に突き出し、再び大盾を構え直した。
だが、戦場の混沌は、彼女たちの忠誠心を引き裂くようにして、最悪の瞬間を紡ぎ出す。
「ギシィァァァァァッ!!」
突如として、防壁の崩れた隙間――ティオの盾の届かない、遥か上方の通気口から、一体の特異個体が長い槍を突き出してきた。
その槍の先端が狙うのは、後方で必死に油瓶を調整している、防具を持たないリリィの背中だった。
「リリィ、危ないっ!!」
ユウマの制止の声よりも、その異形の動きの方が一瞬早かった。
「え――?」
リリィが顔を上げた瞬間、漆黒の穂先が彼女の胸元へと迫る。
「――させないと言っているでしょうがぁぁぁッ!!」
**ズガァァァァンッ!!**
凄まじい肉体の駆動音とともに、ティオが自らの身体を文字通り「弾丸」のようにして真横へと投げ出した。
大盾を強引に割り込ませ、リリィの目の前で槍の軌道を逸らす。しかし、あまりにも無理な体勢での防御だった。
キィィィン、と鋭い金属音が響いた直後、特異個体の槍の側面が、ティオの剥き出しになった左肩を深く切り裂いた。
「くっ……あ、あぁぁぁッ!?」
ティオの短い悲鳴。
鮮血が美しくも凄惨に飛び散り、彼女の左腕から力が抜ける。大盾がガラガラと音を立てて石畳の上に落ちた。
「ティオちゃん!? いやぁっ、リリィのせいで……!」
リリィが真っ青になって叫び、倒れ込むティオの身体を抱きとめる。ティオの左肩からは、ドクドクと赤い血が流れ出し、彼女の訓練服を瞬く間に染めていく。
「大丈夫……です、リリィさん。かすり傷……、盾は、まだ、持てま……」
ティオは必死に立ち上がろうとするが、激痛に顔を歪ませ、その場に膝をついてしまう。防衛線の絶対的な要であった不落の盾が、ついに崩れた。
「ガァァァァァッ!!」
これ好機と見た別の特異個体が、今度は索敵と影縛りで魔力を使い果たし、足元のふらついているルネへと狙いを定めた。三叉槍が、ルネの小さな胸元を貫こうと、猛烈な速度で突き出される。
「……あ……」
ルネのオッドアイの瞳に、迫り来る死の光が映る。
「我が前で、調子に乗り乗るんじゃありませんわよ……!」
**シュバァァァァッ!!**
影の底から、ララが凄まじい速度で躍り出た。
彼女は二振りの刀を完全に交差させ、ルネの目の前で特異個体の槍を強引に噛み殺す。冷気の魔力を全開にして奴の腕を凍らせようとした、その刹那――。
奴の背後に隠れていた、もう一体の特異個体が、ララの動きを完全に予測していたかのように、その長い尾を鞭のようにしならせてララの脇腹へと叩きつけたのだ。
**ドカッ!!!**
「ウッ……!?!?」
ララの口から、短い息が漏れる。
彼女の纏う濃紺の衣装が引き裂かれ、細くしなやかな脇腹の白い肌に、どす黒い打撃痕が刻まれた。衝撃でララの身体が真横へと吹き飛び、防壁の岩肌に激しく背中を打ち付ける。
「ララさん!?」
ルネが叫ぶ。ララは刀を辛うじて手放さなかったものの、脇腹を押さえたまま、その場に頽れた。ヴェールの隙間から見える彼女の顔は、苦痛に白く染まっている。
「……うふふ、見事な、不意打ちですわね……。ですが、わたくしを……舐めない、ことよ……っ」
ララは強気な言葉を吐くが、その身体のキレは明らかに鈍っていた。
ティオが負傷し、ララも手負い。
防壁の中央には、息を切らしたユウマと、負傷した仲間を抱えるリリィ、そして魔力を激しく消耗したルネだけが残されていた。
バンカーの銃眼の向こう側では、さらに数を増したアビサル・レギオンの異形どもが、不気味な笑い声を上げるかのように、三叉槍を打ち鳴らし始めていた。
圧倒的な、劣勢。
緊迫感と絶望の臭気が、狭い防壁の中に充満していく。ユウマは、自らの短剣を強く握り直し、傷つきながらも自分を必死に守ろうとする少女たちの前に、一歩、踏み出そうとしていた。
「……まだだ。まだ、終わらせてたまるか……!」
血の匂いと、緑の業火の煙が入り乱れる中、誰もが息を呑むほどの極限の緊張感が、その戦場を完全に支配していた。
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