第四十八話:不落の盾、神速の刃――深淵の特異個体を穿て
「奴らが流砂の罠を踏み抜いたですぅ! 今ですぅ!」
防壁の最前面からルネの鋭い叫び声が響き渡る。
海原を埋め尽くさんばかりに押し寄せていたアビサル・レギオンの先鋒が、一斉に砂浜の第一防衛線へと突っ込んだ。
**ズズズズズズッ!!!**
次の瞬間、土竜族が何週間もかけて地下に張り巡らせた空洞が一斉に崩落し、砂浜が巨大な「蟻地獄」と化して外敵を貪り始めた。方向転換の効かない深海の異形どもは、自らの重みに振り回され、次々と流砂の底へと沈み込んでいく。
「それだけじゃないよぉ! 妖花族の皆の魔藻、一斉に編み上げちゃってぇ!」
リリィが高台から全軍に向けて拡声の魔導具(彼女自身は魔法を使えないため、土竜族が作った機械式のもの)へ大声を張り上げる。
流砂の底から、どす黒い緑色の『海魔藻』の根が、まるで生き物のように一斉に触手を伸ばした。バキバキと音を立てながら、身動きの取れない異形どもの足首や甲殻に絡みつき、その地中に神経を麻痺させる毒の胞子を大量に噴き出していく。
「ギシィァァァッ!?」
「ブ、グルゥ……ッ!?」
数千の先遣隊が、一歩も進めぬまま砂浜に釘付けにされ、不気味な悲鳴を上げた。完璧な連携。ユウマが仕掛けた「足元を奪う罠」は、アビサル・レギオンの機動力を完全に無力化していた。
「仕上げだよぉ! 『リリィ特製・深海焼きの油』、いっちゃえーっ!」
高台のバンカーから、守備隊の手によって、次々と大きな陶器瓶が投擲された。
砂浜に激突して砕け散る瓶。中から溢れ出た不気味な緑色の油が、異形どもの全身を覆う漆黒の防護粘液へと絡みつく。そこへ、妖狐族の放った一本の火矢が着弾した。
**ドガァァァァァンッ!!!**
爆発的な大轟音とともに、砂浜全体が「緑色の業火」によって埋め尽くされた。
それは魔力による炎ではない。爆炎草の種子油と硫黄、樹液による純粋な化学反応の炎。アビサル・レギオンが誇る「魔力を吸収する粘液」は、その物理的な超高温の前に全く機能せず、逆に粘液そのものが燃料となって激しく燃え上がった。
「ギィァァァァァァァッ!?!?!」
水の中でも消えない地獄の業火が、異形どもの甲殻をドロドロに溶かし、肉を焼き焦がしていく。圧倒的な、蹂躙。リリィの知識が、ティオの言った通り、まさに神をも殺す広域殲滅兵器となって海岸線を支配していた。
「すごい……! このままいけば、本隊だろうと一匹残らず焼き尽くせるぞ!」
守備隊の戦士が興奮気味に声を上げる。
ユウマもまた、防壁の奥で戦況を見つめながら、拳を握りしめていた。作戦は完璧だ。奴らの弱点を徹底的に突き、こちらの手札を最適に叩き込んでいる。勝てる。このままいけば、街に指一本触れさせずに完全勝利を収められる――。
誰もが、そう確信しかけた、その時だった。
「……ッ!? ユウマさま、不穏な魔力の塊が、炎を割って高速でこちらに向かってくるですぅ!」
ルネのオッドアイの瞳が、恐怖に大きく見開かれた。
**ズバァァァァァンッ!!!**
激しく燃え盛る緑の炎を、内側から「漆黒の衝撃波」が強引に切り裂いた。
爆炎の中から飛び出してきたのは、通常の個体とは明らかに一線を画す、三体の『特異個体』だった。
その体躯は通常の倍近く、全身の甲殻はサビ付いた黒ではなく、まるで黒曜石のように滑らかで禍々しい光沢を放っている。何より異様だったのは、奴らの身体から立ち上る「腐食の霧」の密度だった。触れる空気さえもパチパチと不気味に歪ませるほどの圧倒的な闇のオーラ。奴らは流砂を強引に跳び越え、魔藻を強靭な三叉槍で切り刻みながら、凄まじいスピードでユウマたちのいるバンカーの防壁へと肉薄してきた。
「ギシュゥゥァァァァッ!!!」
先頭の一体が、跳躍。手にした巨大な槍が、凄まじい風切り音を立てて防壁の隙間へと突き出される。
「――させませんっ!!」
**ドゴォォォォォンッ!!!**
金属と金属が激突する、鼓膜を震わせるような大轟音が響き渡った。
ティオがその身の丈を超える銀盾を斜めに構え、特異個体の渾身の一撃を正面から受け止めたのだ。土竜族が施した星銀の補強板が、奴の槍から放たれる凄絶な腐食の霧をパチパチと火花を散らして弾き返す。
「くっ……う、あぁぁぁッ!」
ティオの引き締まった身体が、衝撃で数センチメートル後方へと引きずられる。いつもならどんな攻撃も微動だにせず受け止める彼女の足元が、じりじりと削られていく。奴の腕力は、先遣隊の比ではなかった。
「ギシシッ!」
さらに、残る二体の特異個体が、ティオの盾の死角を突くようにして、左右から同時に防壁へと躍り込んできた。
「そこまでに、しておきなさいな」
**シュバァァァァッ!!!**
空間を切り裂く、冷徹な一閃。
ララが影の中から滑り出すように現れ、二振りの刀で左右からの突撃を間一髪で受け流した。ミッドナイトブルーの髪が激しく乱れ、彼女の放つ冷気の魔力が、特異個体の黒い甲殻を一瞬で白く凍りつかせる。
「チィッ……さすがに、手応えがありますわね……!」
ララがヴェールの奥で美しい眉をひそめた。
彼女の神速の剣技をもってしても、特異個体の分厚い黒曜石の甲殻を完全に切り裂くことはできず、火花を散らして弾かれる。奴らは即座に体制を立て直し、凄まじい手数の突きをララへと繰り出してきた。
キィン! カカァン! バキィィン!
防壁の狭い空間の中で、息をもつかせぬ超高速の攻防が展開される。
特異個体の参入により、それまで完璧だった迎撃のテンポが完全に狂わされていた。バンカーのすぐ外では、未だ燃え盛る炎の向こうから、次なる増援の影が蠢いているのが見える。もしこの三体をここで迅速に処理できなければ、防衛線の要であるバンカーが内側から崩壊し、戦況は一気に破滅へと傾く。
「ティオ! ララ! 離れるな、二人で連携するんだ!」
ユウマが防壁の後方から、喉がちぎれんばかりの声で叫んだ。
「ティオが正面の攻撃を完全に受け止めろ! 奴の体勢が崩れた瞬間、その隙をララが突くんだ! 一体ずつ、確実に仕留めるぞ!」
ユウマの的確な指示が、激しい金属音の中に響き渡る。
その言葉に、ティオの赤い瞳に再び鋭い闘志が宿った。
「――了解ですっ! ララさん、右の奴を崩します! 私の背中を、預けます!」
「ええ、いつでもいけますわ、ティオさん! その醜い首、わたくしが刈り取らせていただきます!」
「はぁぁぁぁぁぁッ!!」
ティオが地を蹴り、大盾をさらに前方へと押し出した。特異個体の槍を強引に盾の表面で滑らせ、奴の懐へと一歩踏み込む。
星銀の盾が放つ清浄な光が、一瞬だけ特異個体の視界を遮った。
「ギ、ギシィ!?」
「今です、ララさん!」
「――『残響』、疾りなさい」
ティオの盾の隙間から、ララの身体が文字通り「影」となって飛び出した。
超低空からの鋭い踏み込み。ララは限界まで身体を沈め、そのしなやかな肢体を極限までしならせながら、特異個体の剥き出しになった首の関節へと、二振りの刀を交差させるようにして叩き込んだ。
**ズバァァァァァンッ!!!**
青白い冷気の軌跡が空間を走り、特異個体の巨大な頭部が、ガチガチに凍りついたまま宙を舞った。どす黒い血液が噴き出すよりも早く、ララは着地と同時に次の一体へと視線を向けた。
「一体、撃破ですぅ! でも、まだ後ろから別の特異個体が海を割って上がってくるですぅ!」
ルネの悲痛な叫びが響く。
戦況は、未だ予断を許さない。優勢から一転して始まった、文字通りの総力戦。
激しい怒号と金属音、そして炎の爆ぜる音が入り乱れる海岸線で、ユウマたちは自らの街の未来を懸け、牙を剥く深海の絶望へと、真っ向から立ち向かっていくのだった。
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