第四十七話:払暁の震え、そして深淵より沸き立つ漆黒の波
その日は、驚くほど静かな朝から始まった。
東の空が薄紫から淡い琥珀色へと染まっていく。いつもなら、商業ギルドの広場から馬車の轍の音や、露天商たちが木箱を運ぶ賑やかな声が聞こえてくる時間帯だが、今はただ、遠くから聞こえる低く重い潮騒の音だけが、冷え切った朝の空気を震わせていた。
ユウマの自宅の食卓には、湯気を立てる炊きたてのご飯、大森林の特産である川魚の塩焼き、そして妖花族が育てた新鮮な野菜の味噌汁が並んでいた。決戦の朝だからといって、特別なご馳走があるわけではない。いつも通りの、見慣れた、温かな朝ごはんだ。
しかし、室内に漂う緊張感は、これまでのどの戦いよりも濃密だった。
ティオはいつも以上に丁寧に箸を運び、ララはヴェールの奥で静かに目を閉じ、お茶の香りを愉しむように佇んでいる。リリィはユウマの器へおかずを甲斐甲斐しく取り分けながらも、その美しい瞳には、星詠みの塔で世界の真実を知った時のような、深い覚悟の光が宿っていた。
カチャリ、と静かに箸を置いたのはルネだった。
彼女はオッドアイの瞳を窓の外、遥か彼方の海岸線へと向け、小さく唇を動かした。
「……ユウマさま。……海の底の『黒い心臓』が、一斉に鼓動を速めたですぅ。……奴らの先頭集団が、地上の浅瀬に向けて急速に浮上を開始したですぅ。……襲撃まで、残り時間はもう、一刻(約二時間)もないですぅ」
ルネの無機質ながらも張り詰めた報告が、室内の空気を一瞬で凍りつかせた。
「……そうか。いよいよ、来るんだな」
ユウマは努めて冷静に、いつもの「頼れる村長」としての声を意識して応じた。
だが、その瞬間。
彼が持ち上げようとしたお茶の杯が、カタカタカタ……と小さな音を立てて震え始めた。
(……あ、あれ? おかしいな……)
ユウマは慌てて杯をテーブルに戻し、両手を膝の上で固く握りしめた。しかし、一度始まった震えは止まらない。それどころか、心臓が早鐘のように脈打ち、背中を冷たい汗が伝わっていく。
内心の恐怖が、抑えきれないほどに溢れ出していた。
相手は神話の時代から続く、地上のすべてを沈めようとする「深淵の軍勢」だ。先日の先遣隊とは比べ物にならない数、そしてそれを統べる未知の「使徒」。自分は元々、現代日本で生きていたただの一般人に過ぎない。狼男族を退け、街を大きくしてきたとはいえ、何千、何万という異形の化け物と命を懸けて殺し合うという現実の前に、身体が、本能が、恐怖に怯え、ビビり散らかしていたのだ。
(ダメだ、止めろ……! みんなが見ている。僕が怯えたら、みんなを不安にさせてしまう。僕はこの街の頭領なんだ。強く、毅然としていなきゃいけないんだ……!)
ユウマは必死に奥歯を噛み締め、呼吸を整えようとした。膝の上の拳に思い切り力を込め、震えを無理やり抑え込もうと躍起になる。
だが、その必死の虚勢は、彼を誰よりも近くで見守り、愛し続けてきた四人の少女たちに通じるはずもなかった。
「――もう、ユウマさまったら。そんなに力んじゃ、美味しい朝ごはんが消化不良になっちゃうよぉ」
ふわりとした金髪が視界をよぎり、隣に座るリリィが、ユウマの震える右手を両手で優しく包み込んだ。
幽閉されていた孤独な年月から自分を救い出してくれた、大好きな、命の恩人の手。リリィの手の温もりが、ユウマの強張った皮膚を通じて、冷え切った心へとじんわりと染み込んでいく。
「リリィ……」
「ビビっちゃうの、当たり前なんだからぁ。だって、ユウマさまは神様でも化け物でもない、とっても優しくて、傷つきやすい『人間の男の子』なんだもん。リリィね、強がってるユウマさまも格好良くて好きだけど、こうやって震えてるユウマさまのことも、愛おしくて堪らなくなっちゃうのぉ」
リリィはユウマの手に自らの頬を寄せ、しっとりとした慈愛の笑みを浮かべた。彼女の透明感のある美しさと、包み込むような大人の余裕が、ユウマの張り詰めた心をゆっくりと紐解いていく。
「……そうですぅ」
ルネがいつの間にかユウマの左側にすり寄り、その小さな手でユウマの左の拳を優しく解きほぐした。
「……ユウマさまが震えているのは、恐怖のせいだけじゃないですぅ。この街のみんなを、私たちを守りたいって、命の重さを知っているからこその震えですぅ。……そんな優しいユウマさまだからこそ、私たちはここにいるですぅ。……あんまり一人で格好つけられると、甘える隙がなくて困るですぅ」
ルネはジト目の奥に深い信頼を宿し、ユウマの腕にそっと身体を預けた。彼女の瑞々しい体温が、恐怖に震えるユウマの脇腹を温めていく。
「ユウマさん、前を見てください」
正面に座るティオが立ち上がり、その赤い瞳で真っ直ぐにユウマを見つめた。
彼女の腕には、星銀で補強された大盾が鈍く輝いている。温泉を経て一段と凛々しさを増した若き女騎士は、胸を張って、自らの誇りを告げた。
「私の盾は、あなたに命を救われ、あなたの優しさに触れたその日から、あなたのためにだけ存在しています。たとえ深海が天に届くほどの波となって押し寄せようとも、私があなたの前を歩く限り、その波があなたを濡らすことは絶対にありません。……ですから、どうか安心して、私たちの後ろで指揮を執ってください!」
「ティオ……」
「ふふ、皆様の言う通りですわ、ユウマ様」
最後に、ララがしっとりと微笑みながら、ユウマの後ろからその豊かな胸元を背中にそっと預けるようにして、耳元で囁いた。ミッドナイトブルーの髪から香る心地よいアロマが、ユウマの脳裏を支配していた恐怖の霧を一瞬で吹き飛ばす。
「わたくしの故郷を滅ぼした怨敵……ですが、今のわたくしには、あなた様が与えてくださった新しい家と、こんなにも心強い姉妹たちがおりますの。……怖くなどありませんわ。あなた様がただ、そこにいて微笑んでくださるだけで、わたくしたちは神をも殺す刃となれるのですから」
四人の魅力的な少女たちの、一切の揺らぎのない、圧倒的な愛と信頼。
それらがユウマの身体に満ち満ちた瞬間、不思議なほどに両手の震えがピタリと止まった。心臓のバクバクとした音は、恐怖ではなく、仲間と共に未来を勝ち取るための「昂ぶり」へと変わっていた。
「……みんな、ありがとう。情けないところを見せちゃったな」
ユウマは自嘲気味に笑い、だがその目には、いつもの確固たる強い光を取り戻していた。
「よし、朝ごはんは終わりだ。奴らを迎え撃ちに行こう!」
「「「「はいっ!!」」」」
自宅を出て海岸へと向かう道のり、ユウマたちは静まり返った街の中を歩んだ。
石畳の敷かれた中央通り。土竜族が手塩にかけて作った頑丈な石造りの店舗。商業ギルドの立派な建物。温泉へと続く山裾の並木道。
歩を進めるたび、これまでの歩みが思い出された。ただの寂れた、今にも滅びそうだった集落が、狼男族との共生を経て、妖狐族や妖花族、吸血鬼のルネ、深海族のララ、そしてハーフエルフのリリィを迎え入れ、これほど立派で美しい「みんなの町」へと発展したのだ。
沿道からは、街に残った土竜族の戦士たちや、妖花族の女性たちが、静かに、しかし熱い視線をユウマたちへと送っていた。誰もが星銀の武器を握り締め、自らの街を守る覚悟を決めている。その無言の激励を受けながら、ユウマは一歩一歩、確実な足取りで最前線へと向かった。
この町を、この光を、絶対に奴らに渡してなるものか――その想いが、ユウマの胸の中で強固な楔となって打ち込まれていった。
やがて、一同は防衛線の最前線である海岸線へと到着した。
そこに広がる光景は、いつもとは明らかに異なっていた。
空はどんよりとした鉛色の雲に覆われ、太陽の光を遮っている。海は不気味などす黒さを帯び、いつもより遥かに高い波が、轟音を立てて砂浜へと打ち付け、白く激しい泡を撒き散らしていた。潮風には、海水本来の匂いではない、生臭く、そして金属が腐ったような不快な魔力の臭気が混ざり合っている。
「……うわぁ、本当に荒れてるねぇ。海の底から、嫌な空気がいっぱい上がってきてるよぉ」
リリィが砂浜を見下ろす高台の防壁から海を睨みつけ、眉をひそめた。
「罠の作動状況は問題ないですぅ。……流砂の仕掛けも、海魔藻の根も、獲物が足を踏み入れるのを今か今かと待っているですぅ」
ルネがオッドアイの光を強め、防壁の淵に立って報告する。
ユウマたちは星銀の補強板が施された堅牢な石造りの防壁の中に陣取り、それぞれの武器を構えて、その「時」を待った。
三十分が過ぎ、一時間が経過した。
荒れ狂う波の音だけが響く、張り詰めた時間。
そして――ルネの予言したその刻限が、ついに訪れた。
「――来るですぅ!!」
ルネの鋭い叫びと同時に、海岸から数百メートル沖合の海面が、まるで地下で巨大な爆発でも起きたかのように、**ゴォォォォッ!!!**と凄まじい音を立てて、高く、巨大に盛り上がった。
盛り上がった海水が、四方に巨大な津波となって崩れ落ちる。
その引き波の向こうから姿を現したのは――海原を完全に埋め尽くすほどの、圧倒的な「漆黒の軍勢」だった。
全身を夜の闇のような黒い甲殻で覆い、手にはサビにまみれた不気味な三叉槍を握った半人半魚の異形。奴らの身体からは、地上の光を拒絶するような黒い霧が絶え間なく立ち上り、数千、数万というその質量が、波を割って一斉に海岸へと這い上がってきたのだ。
空間全体が、奴らの放つ呪わしい魔力によって激しく鳴動する。
凄まじい数のアビサル・レギオン。その軍勢の最奥、ひときわ巨大な漆黒の渦の中心には、地上の命をすべて嘲笑うかのような、禍々しいオーラを放つ「深淵の使徒」の影が、妖しく蠢いていた。
「……本当に、本の通りにたくさん上がってきたぁ……!」
リリィが息を呑む。
「ティオ、ララ、ルネ、リリィ! そして守備隊の皆!」
ユウマは腰の短剣を真っ直ぐに抜き放ち、押し寄せる漆黒の波に向けて、烈火のごとき大声を張り上げた。
「奴らに地上の恐ろしさを教えてやれ! 我が街の防衛線、戦闘開始!!!」
ユウマの号令とともに、リリィの知識とみんなの絆が試される、街の存亡を懸けた運命の大決戦が、ついにその幕を開けた。
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