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第三話:忍び寄る影と、静かなる波紋

 遺跡での生活が始まって、三日が過ぎた。

 外の森からは、相変わらず身の毛もよだつような獣の遠吠えが聞こえてくるが、この石造りの箱の中だけは、冷ややかな静寂に守られている。

 ユウマは、ボロボロになったスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り上げていた。

 三日間、逃走と労働で泥と汗にまみれた体は、自分でも顔をしかめるほど不快な粘り気を帯びている。

「ユウマさまぁ、お水、用意したのよぉ」

 リリィが、遺跡の奥にある井戸から汲んできたばかりの水を手桶に入れて運んできた。

 歩くたびに、お尻まで届く銀髪が**さらり**と揺れ、彼女の豊かな肢体が柔らかく弾む。

「悪いね、リリィ。……ふぅ、冷たいな」

 ユウマは手桶から水を掬い、顔を洗った。

 **ジャブジャブ**と音を立てて、溜まっていた煤と泥を落としていく。氷のように冷たい井戸水が、熱を持った肌に染み渡り、沈んでいた意識を強制的に引きずり出した。

「リリィも、体を清めたらどうだい? ずっと閉じ込められていたんだ、気持ちいいよ」

「そうなのぉ? じゃあ、リリィもぉ……えいっ」

 リリィは屈託のない動作で、肩にかかっていたドレスの紐を指で弾いた。

 **するり**。

 重力に従って、布地が石床に落ちる。

「……っ!? リ、リリィ、何をしてるんだ!」

 ユウマは慌てて背を向けた。

 視界の端に焼き付いたのは、月の光を反射する真珠のような白い肌と、驚くほど肉感的なラインを描く腰回り。

「えぇ? 体を綺麗にするんじゃないのぉ? リリィたちの故郷ではぁ、みんなで泉に入るのが普通だったからぁ、恥ずかしくないんだよぉ?」

 背後から、**パシャパシャ**と水を弾く音が聞こえてくる。

 リリィは全く気にする様子もなく、手桶の水を自分の肩から浴びていた。

「あぅ……冷たいけどぉ、気持ちいいのぉ……。肌が**ぷるぷる**に潤っていくみたいだよぉ」

 彼女が自分の腕や胸元を洗う音が、狭い遺跡内に反響する。

 ユウマは真っ赤になった顔を両手で覆い、必死に雑念を振り払おうとした。

(落ち着け……彼女には悪気はないんだ。文化の違いだ。……それにしても、あんなに細いのに、どこにあれだけの質量が……)

 **ピチャッ、ピチャッ**という艶めかしい音が止み、しばらくして「終わったのぉ」と声がした。

 振り返ると、リリィは濡れた銀髪を絞りながら、幾分すっきりとした顔で微笑んでいた。濡れた髪が肌に張り付き、透き通るような青い瞳がいつもより輝いて見える。

 体を清め、清潔な心地になった二人だったが、直面している現実は依然として厳しかった。

 それからの三日間、ユウマは遺跡内を隅々まで調べた。

 だが、この監獄は驚くほど合理的で、そして狭かった。

 中央にリリィのいた牢獄、奥に井戸と小さな魔法の畑、あとは入り口に続く通路があるだけだ。隠し部屋もなければ、便利な魔道具が落ちているわけでもない。

「……やっぱり、この中にあるものだけじゃ、先が見えないな」

 ユウマは、石床に指で描いた「現状」を見つめて嘆息した。

 外に出れば魔物の餌食。中に留まれば、いずれ底を突くかもしれない魔法の野菜。

 せっかくリリィを助け出し、自分も生き延びたというのに、次に何をすべきかの「正解」が見えてこない。

 ユウマは膝を抱え、この先どうすればいいのかを必死に考えていた。

 かつての仕事では、行き詰まれば周囲に相談できた。だが今は、自分が判断を間違えれば、リリィまで路頭に迷わせてしまう。

「ユウマさまぁ……難しいお顔をしてるのぉ。また知恵熱が出ちゃうよぉ?」

 リリィが心配そうに、ユウマの肩を**もみもみ**と解し始めた。彼女の手は驚くほど柔らかく、指先が触れるたびに**もちっ**とした感触が伝わってくる。

「……リリィ。この場所で、僕たちはいつまで平穏に暮らせるんだろう。結界があるとはいえ、外との繋がりがまったくないままじゃ、いつか限界が来る」

「リリィはねぇ、ユウマさまがいればぁ、それだけで幸せなのぉ。でもぉ、ユウマさまが笑ってないのは、リリィも悲しいのよぉ……」

 リリィはユウマの横顔を覗き込み、励ますように**ゆさっ**と胸を弾ませて微笑んだ。

 その温かさに、ユウマは少しだけ救われる思いだった。

 そんな膠着状態の中、四日目の朝。

 異変は、リリィの小さな叫び声から始まった。

「……あれぇ? おかしいのぉ……」

 魔法の畑で収穫作業をしていたリリィが、眉を潜めて籠の中を覗き込んでいた。

「どうしたんだい、リリィ?」

「あのねぇ、ユウマさま。昨日、リリィが数えておいたはずの、熟した『魔精芋』が二つ足りないのぉ……」

「……足りない? リリィが食べたわけじゃないんだろう?」

「違うよぉ! リリィはちゃんと、ユウマさまの分と分けて置いておいたんだよぉ。それに、このお芋はぁ、魔法でゆっくり育つからぁ、数が合わないなんてことは今まで一度もなかったのぉ……」

 リリィは不安そうに、**ぷにっ**とした指先を口元に当てた。

 ユウマの背筋に、冷たいものが走る。

 この遺跡には、自分とリリィの二人しかいないはずだ。

 そして結界は、外からの魔物の侵入を完璧に防いでいる。

「……リリィ、これまでこの遺跡で、君以外の生き物を見たことは?」

「ネズミさんもいないのぉ……結界があるからぁ」

 リリィが怯えたようにユウマの背中にしがみついてきた。

 **ぎゅっ**と抱きしめられた背中に、彼女の震えが伝わってくる。

 ユウマは、改めて遺跡内を見渡した。

 リリィの牢獄、井戸、畑。

 隅から隅まで調べ尽くしたはずのこの空間。だが、自分たちが寝ている時、あるいはリリィが井戸で水を汲んでいる時――自分たちの目が届かないわずかな隙に、何かが動いている。

 **カサッ……**。

 背後の陰から、微かな、乾いた音が聞こえた気がした。

 ユウマは息を止め、音のした方――リリィがかつて閉じ込められていた牢獄の、さらに奥にある物置の陰を凝視した。

 そこには、自分たちの視覚が届かない、小さな死角がある。

「リリィ、灯りを持って。……もう一度、隅々まで確認するんだ」

「あぅぅ……怖いのぉ、行きたくないよぉ……っ」

 リリィはユウマのシャツを強く掴み、必死に涙を堪えながら頷いた。

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