第三十四話:深海の蕾、陽光の下で綻ぶ
激しい嵐が過ぎ去り、里には再び突き抜けるような青空が戻ってきた。
雨に洗われた森の緑はより一層濃さを増し、湿った土の匂いに混じって、妖花族が育て始めた花の香りが風に乗って漂っている。
ララが里に運び込まれてから、三日が過ぎた。
彼女の回復力は目覚ましかった。深海族特有の強靭な生命力に加え、リリィが用意する栄養満点の食事と、ルネが森で見つけてきた滋養強壮に効く果実、そして何よりティオが甲斐甲斐しく行う看病が功を奏したのだ。
「……あ、ユウマさん! ちょうど良かったです」
ユウマがララの休む部屋を訪れると、入り口でティオと鉢合わせた。ティオの手には、空になった粥の器と、洗濯を終えたばかりの清潔な布が抱えられている。
「ララの様子はどうだい?」
「はい! もう顔色もすごく良くなって。今はベッドの上で、リリィさんに髪を整えてもらっています。……あの、ララさんって、本当にお綺麗ですよね。同じ女性の私でも、見惚れちゃうくらいで」
ティオが少し照れたように笑う。ユウマが室内に入ると、そこには窓から差し込む陽光を浴びて、ミッドナイトブルーの髪を輝かせているララの姿があった。
「おっ、ユウマさまぁ! 見て見てぇ、ララちゃんの髪、リリィがツヤツヤに編み上げてあげたんだよぉ!」
リリィが自慢げに胸を張り、ララの長いウェーブ髪にかんざしを挿した。
ララは静かに微笑みながら、ベッドの端に腰掛けていた。着替えを終えた彼女は、妖狐族の仕立て屋が急ぎで作った、深いスリットの入った濃紺の薄衣を纏っている。
その衣は彼女の圧倒的なプロポーションを強調していた。呼吸するたびに波打つ豊かな胸元、しなやかな曲線を描く腰回り。ヴェールで目元を隠していながらも、その立ち姿からはしっとりとした大人の色気が溢れ出している。
「……村長様。……お見苦しいところを、お見せしてしまいましたわね」
ララがヴェール越しにユウマの方へ顔を向け、しなやかな所作で一礼した。
「いや、元気そうで安心したよ。……どうだい、少し外を歩けそうかな? 今日は天気もいいし、里の皆にも紹介しておきたいんだ」
「……はい。喜んでお供いたしますわ。……わたくしも、命を繋いでくださったこの里の空気を、肌で感じてみたいと思っておりましたの」
ユウマはララの手を引き、ゆっくりと部屋の外へ、そして里の広場へと連れ出した。
一歩外へ出た瞬間、ララは小さく息を呑んだ。
深海という光の届かない世界で生きてきた彼女にとって、地上の太陽は眩しすぎるほどだったが、そのヴェール越しの「心眼」は、光そのものではなく、そこに溢れる「温かな気配」を感じ取っていた。
「わぁ……。なんて、賑やかな音ですの……。……槌の音、笑い声、それに……芽吹く命の鼓動が聞こえますわ」
広場に出ると、再建作業をしていた里の人々が次々と足を止めた。
「おっ、村長! その方が、海岸で助かったっていう……」
土竜族のガドが、大きな爪についた泥を払いながら近づいてきた。
「ああ。彼女はララ。今日から僕たちの仲間になる。……ララ、彼は土竜族のガドさんだ。この里の強固な土台を作ってくれている」
ララは静かに膝を折り、深々と頭を下げた。
「……ガド様。……お初にお目にかかりますわ。わたくしのような余所者を、温かく迎えてくださり感謝いたします。……その、力強い腕の音……里を守る尊いお仕事ですわね」
「へへっ、なんだか照れるねぇ。……嬢ちゃん、無理しなさんなよ。腹が減ったら、俺たちの自慢の地下貯蔵庫から一番いい芋を持ってきてやるからな!」
ガドが豪快に笑うと、今度は妖花族のシランや、妖狐族の女性たちが集まってきた。
「綺麗な髪……。深海の雫みたい。これ、私たちが育てた花です、歓迎の印に」
シランが、一輪の青い花を差し出す。
「ありがとうございますわ。……ふふ、お花の優しい吐息が聞こえるようですわね」
ララが花を愛おしげに手に取ると、里の子供たちが彼女の周りを取り囲んだ。
「お姉ちゃん、目が見えないの?」
「怖くないよ! ぼくたちが手を繋いで歩いてあげる!」
子供たちの純粋な言葉に、ララの肩が微かに震えた。
彼女はそっと腰を落とし、子供たちの小さな手を自身の白い手で包み込んだ。
「……怖くありませんわ。……皆様の心の灯火が、こんなに明るくわたくしを照らしてくださっていますもの。……ああ、なんて、なんて温かいのでしょう……」
深海での孤独な戦い、同胞との別れ、そして死を覚悟した漂流。
凍てついていた彼女の心が、里の人々の屈託のない挨拶と笑顔によって、春の雪解けのように溶け出していく。
里を一通り案内し終え、二人は少し離れた高台にある、大きな樫の木の下へと辿り着いた。
そこからは、再建が進む里の全景が一望できる。
土竜族が石を積み、猫娘族が材木を運び、妖花族が緑を植え、妖狐族が食事を振る舞う。異なる種族が混ざり合い、一つの未来を築こうとしているその光景は、ララがかつて知っていた「守護」の形とは全く異なる、生命の躍動に満ちたものだった。
「……村長様。……わたくし、驚きましたわ」
ララがヴェール越しに里を見つめながら、しっとりとした声で語り始めた。
「わたくしの故郷では、力を持つ者がただ静寂を守るのが正義でした。……でも、ここでは、誰もが誰かのために、笑いながら汗を流している。……あなたが作ろうとしているのは、ただの拠点ではなく、魂の拠り所なのですわね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。……君も、その一部になってほしいんだ」
ユウマがそう言うと、ララはゆっくりと彼の方を振り返った。
彼女は一歩踏み出し、ユウマのすぐ目の前まで歩み寄る。ヴェールに隠された彼女の顔が、至近距離でユウマを見上げている。
彼女が纏う、深海の潮風と甘い香草が混ざり合ったような妖艶な香りが、ユウマの鼻先をかすめた。
「……村長様。……いえ、よろしいでしょうか。……これからは、あなた様を『ユウマ様』とお呼びしても?」
その呼び方の変化は、単なる呼称の問題ではなかった。
彼女がこの里の「公のリーダー」としてではなく、彼女という一人の女性が、命を救ってくれた「一人の男性」として、その運命を預けるという誓いの現れだった。
「……ああ、構わないよ。よろしく、ララ」
「……うふふ。……ありがとうございますわ、ユウマ様」
ララは満足げに微笑むと、その豊かな胸元をユウマの腕にそっと押し付けるようにして、甘えるような仕草で寄り添った。
「わたくし、決めたのですわ。……あなた様が築くこの温かな世界を、わたくしの刃で、一欠片も傷つけさせはしないと。……癒やす魔法は持たぬこのわたくしですが、あなた様を悲しませる全ての『毒』を、わたくしが斬り払ってみせますわね」
その声は、限りなく優しく、そして底知れぬ剣鬼としての決意を秘めていた。
「……さあ、ユウマ様。……里に戻りましょうか。……わたくし、早く皆様のお役に立ちたくて、体が疼いてしまいますの。……あ、まずはユウマ様のお部屋を、わたくし色にピカピカに磨き上げて差し上げますわね?」
ララはしなやかに腰を揺らしながら、ユウマの腕を引いて歩き出した。
背中を追いかけてきたリリィやルネ、ティオが、そんな二人の様子を見て「あー! ララちゃん、もうユウマさまにベタベタしてるぅ!」「……抜け駆け、ですぅ」「ララさん、積極的ですね……!」と賑やかに声を上げる。
嵐が運んできた最強の「矛」は、今、温かな陽光の中で、守るべき者のためにその鋭い牙を「慈しみ」へと変え始めていた。
里を包む春の風は、新しく加わった「家族」を祝福するように、どこまでも優しく吹き抜けていった。
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