第三十三話:波紋の記憶、深海より来たりし「刃」
里の中央にある、ユウマの自宅。その一室には、薬草の爽やかな香りと、薪が爆ぜる静かな音が満ちていた。
外では依然として激しい雨が降り続いていたが、厚い壁に囲まれた室内は温かく、海岸の殺伐とした空気とは無縁だった。
寝台の上で、件の女性が静かに横たわっている。
リリィとティオの手によって、砂と海水に汚れた服は着替えさせられ、傷の手当ては済んでいた。彼女が最後まで離そうとしなかった二振りの刀は、ユウマの判断で、彼女の手が届く枕元に丁寧に置かれている。
ユウマ、リリィ、ルネ、ティオの四人は、彼女を囲むようにしてその目覚めを待っていた。
「……う、ん……」
長い睫毛が震え、彼女を覆っていた深い眠りの幕が上がった。
女性はゆっくりと身を起こそうとするが、すぐに激しい眩暈に襲われたのか、額を押さえて眉を潜めた。
「無理をしないで。ここは安全な場所だ」
ユウマが静かに声をかけると、女性はビクリと肩を震わせ、反射的に枕元の刀へと手を伸ばした。だが、そこに殺意はなかった。ただ、それだけが彼女にとっての唯一の杖であるかのような、悲痛なまでの依存だった。
「……わたくし、は……」
青いヴェールの下から漏れた声は、鈴を転がしたように澄んでいて、しっとりと濡れたような色気を帯びていた。彼女は目が見えないはずのヴェール越しに、ユウマの方へと正確に顔を向けた。
「……助けて、いただいたのですわね。……この暖かさ、水の音……海の、外……」
「ああ、海岸で倒れている君を僕たちが見つけた。酷い嵐だったからね」
ユウマがそう告げると、女性はゆっくりと、深々と頭を下げた。
寝間着として貸し出した薄手の衣が、彼女の豊かな胸の曲線に沿ってしなやかに沈み込む。
「……感謝いたしますわ。拾われたこの命、何とお礼を申し上げればよいか……。わたくしの名は、ラピスラ・ヴォル。遥か深き海の底より、流れ着いた亡者にございますわ」
ラピスラ――彼女がポツリポツリと語り始めた内容は、ユウマたちが想像していた以上に過酷な運命の断片だった。
彼女の脳裏には、今も青黒い海底の情景が焼き付いている。
深海族の住まう国は、地上の光が届かぬ代わりに、魔法の光と静寂に包まれた美しい場所だった。ラピスラはその国の守護を担う一族に生まれ、幼い頃から二振りの刀「残響」と共に生きてきた。
『ラピスラ、お前は我が一族の異端だ。癒やしの魔法を一切使えず、ただ斬ることのみに長けている……。それは、深海の平穏には不要な力かもしれん』
父の言葉が、回想の中で苦く響く。
深海族は本来、水の魔法を用いた癒やしや、波を操る術を得意とする種族だ。しかし、彼女はその全ての資質を「身体能力」と「技巧」に全振りしたかのような存在だった。魔法が使えない代わりに、彼女の五感は極限まで研ぎ澄まされ、水の抵抗を微塵も感じさせない剣技を身につけていた。
悲劇は、前触れもなく訪れた。
海底の裂け目から現れた「名もなき暗黒の軍勢」。彼らは魔法を吸い込み、深海の光を食い尽くしていった。
『逃げなさい、ラピスラ! お前のその刃で、未来への道を切り拓くのです!』
炎ならぬ黒い魔力が渦巻く中、ラピスラは二振りの刀を抜き放った。
癒やすことができない彼女にできるのは、ただ一つ。自分を逃がそうとする同胞たちの盾となり、迫り来る敵を斬り伏せることだけだった。
「……わたくしは、斬り続けましたわ。……水の音が、敵の血の音にかき消されるまで。……どれほどの方々の屍を越えて、あの暗い海を這い上がってきたのか、もう覚えてもおりませんの……」
地上へと続く海流に飛び込んだ時、彼女の意識は既に限界だった。
海流は激しい嵐と混ざり合い、彼女の体を揉みくちゃにした。重い甲冑を脱ぎ捨て、ただ刀だけを守り、波に身を任せた。
「……最後に見たのは、灰色の空と、叩きつけるような雨でしたわ。……ああ、わたくしは独りなのだわ、と。そう思って、全てを諦めようとした時……」
ラピスラはヴェール越しに、ユウマ、そしてリリィたちの気配を慈しむように感じ取った。
「……温かな、お日様のような手の温もりを感じたのですわ。……それが、あなたでしたのね」
話を聞き終えた室内には、沈黙が流れていた。
同じように居場所を失い、この里に辿り着いた猫娘族や他の種族たちの境遇と、彼女の物語が重なった。
「大変だったねぇ、ララちゃん……。あ、勝手にあだ名つけちゃったけどぉ。そんなに悲しい思いをしてきたなんてぇ……」
リリィが涙ぐみながら、ラピスラの細い肩を抱きしめた。
ラピスラは一瞬驚いたように体を強張らせたが、すぐにリリィの豊かな胸の温もりに触れると、ふわりと微笑んだ。
「……ララ。……ふふ、素敵な響きですわね。……わたくしをそんな風に呼んでくださるなんて、本当に心がお優しい方……」
「……ララさん、ですぅ。……大丈夫、ここには怖い人はいないですぅ」
ルネもベッドの端に座り、ラピスラの冷えた手を両手で包み込んだ。
「……ララさん。私も、この里を守るために盾を持っています。あなたのその刃が何を斬ってきたとしても、今はゆっくり休んでください。この里は、ユウマさんが作った『家』なんですから」
ティオの真っ直ぐな言葉に、ラピスラはヴェールの下で、一筋の涙を流した。
「……家。……わたくしに、まだそんな場所が許されるのでしょうか。……魔法も使えず、ただ敵を斬ることしかできない、不吉な刃であるこのわたくしに……」
ユウマは一歩前に出ると、彼女の枕元にある刀――「残響」を見つめて言った。
「ララさん。僕はこの里の村長として、多くの『異端』と呼ばれた人たちを受け入れてきた。魔法が使えないことが欠点だなんて、ここでは誰も思わない。むしろ、その技術で仲間を守れるなら、それは最高の才能だ」
ラピスラはユウマの言葉を噛み締めるように、ゆっくりと何度も頷いた。
「……ユウマ様。……わたくし、決めましたわ」
彼女はベッドからしなやかに滑り降りると、まだふらつく足取りながらも、ユウマの前に跪いた。
深いスリットから覗く白い太腿と、大きく波打つ胸元が、彼女の献身的な決意を物語るように揺れる。
「拾われたこの命、そしてこの『残響』の刃。全て、あなた様に捧げますわ。……わたくしを、あなたの影に、あるいはあなたの足元の石にでもしてくださいませ。……あなた様が望むなら、わたくしは誰よりも鋭い、あなただけの『矛』となりますわね」
ヴェールに覆われた彼女の顔からは、しっとりとした色気と、揺るぎない忠誠心が立ち上っていた。
「……分かった。よろしく、ララ。でも、石になんてならなくていい。これからは仲間として、一緒にこの里を盛り立てていこう」
ユウマがその手を差し伸べると、ラピスラはその大きな手に自分の頬を寄せるようにして、愛おしげに寄り添った。
「……はい、村長様。……ふふ、まずはこのお部屋の掃除から、始めさせていただきましょうかしら。……わたくし、身の回りのお世話は得意なんですのよ?」
嵐の夜、最果ての海岸に打ち上げられた深海の剣士は、こうしてユウマたちの四人目の仲間として、その数奇な運命を里の物語に重ね合わせた。
窓の外の雨音は、いつしか彼女の持つ刀の名前と同じ、穏やかな残響へと変わっていた。
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