第十四話:宣告と疾走、断崖に響く咆哮
静寂は一瞬にして切り裂かれた。
ルネが告げた「裏手の崖からの急襲」という言葉が、ユウマの脳内で警報のように鳴り響く。フェリスが懸念していた最悪のシナリオが、想定よりも遥かに早いタイミングで動き出したのだ。
「リリィ! 君は今すぐ村長のフェリスさんのところへ走ってくれ! 狼男族の本体が裏手から来ていると、至急伝えるんだ!」
ユウマの切迫した声に、リリィは一瞬肩を震わせたが、すぐに決然とした表情で頷いた。
「わ、わかったのぉ! ユウマさま、ルネちゃん、気をつけてねぇ……っ!」
リリィは銀髪を振り乱し、豊かな胸を揺らしながら、村の中央にある長官宅へと全速力で駆け出していった。彼女の背中を見送る余裕もなく、ユウマはルネの小さな手を強く握る。
「ルネ、僕たちも行くぞ! 村の人たちに知らせながら裏手へ向かうんだ!」
「はい……なのですぅ……っ!」
二人は村のメインストリートを、喉が焼けるような勢いで走り出した。
平穏だった村の空気が、ユウマの叫び声によって塗り替えられていく。
「狼男族の襲撃だ! 全員、家に入れ! 子供を隠せ!」
「裏手の崖から来るぞ! 避難しろ!」
ユウマの声に、道を行く猫娘たちが次々と足を止める。最初は「何事か」と不審な目を向けていた彼女たちも、ルネの切実な形相と、森の奥から響き始めた不穏な地鳴り、そして本能が察知した死の気配に、顔を真っ青に変えていった。
「……本当なの!? また奴らが……っ!」
「家に入って! 早く!」
平和だった里は一転して混沌の渦に叩き込まれた。悲鳴が上がり、母親が子供を抱きかかえて家へ飛び込む。ガチャン、ガチャンと窓の鎧戸が閉まる音が、村のあちこちで銃声のように響く。
「ルネ、まだ間に合うか!?」
「……急ぐですぅ……っ! 『濁った赤』が、もう崖の上まで……すぐそこまで来てるですぅ……っ!」
ルネは走る衝撃で頭痛に耐えながらも、そのオッドアイを必死に見開いていた。彼女の視界には、森を食い荒らすように迫る、獣たちのどす黒い殺気がはっきりと映っていた。
一方、リリィからの報告を受けたフェリスの家では、一瞬にして緊張が極致に達していた。
「何だと!? 裏手の崖だと!? 奴ら、正面から来ると見せかけて……っ!」
フェリスは机を叩きつけ、傍らに置いてあった湾曲した長剣を掴み取った。
「者共、聞け! 臆病風に吹かれている暇はない! 槍を持てる者は全員、裏手の断崖へ急行せよ! ここを抜かれれば、この里に明日の太陽は昇らんぞ!」
フェリスの凛烈な号令が村の戦士たちに届く。彼女の鋭い猫耳は、既に遠くで木々がなぎ倒される不吉な音を捉えていた。恐怖で足が竦んでいた戦士たちも、長の覚悟を目の当たりにし、震える手で槍を握り締める。
「行くぞ! 里の女子供を守るんだ!」
猫娘族の戦士たちが、しなやかな身体をバネにして次々と裏手へと走り出す。だが、フェリスの内心は冷え切っていた。戦える者は二十人足らず。対する狼男族は、屈強な戦士が数十人。まともにぶつかれば、蹂躙されるのは火を見るより明らかだった。
ユウマとルネが、村の裏手に広がる断崖の入り口に辿り着いた時、そこには異様な光景が広がっていた。
切り立った崖の下。
そこは、この里で最も防御が薄いとされる難所だった。本来なら急勾配の岩肌が天然の城壁となっているはずだったが、狼男族は恐るべき跳躍力と爪を使い、その絶壁を強引に登り始めていたのだ。
「……あ、あぁ……っ。あそこに……ティオナさんが……!」
ルネが指差す先。
夕闇が迫り始めた崖下、狭い一本道の結節点に、一人の少女が立っていた。
ティオナ・レオグレイズ。
彼女は自分の身長を遥かに超える、あの無骨な大盾を地面に突き立て、一人で崖の上を見据えていた。
**――ガォォォォォォォォッ!!**
森の奥から、空気を震わせるような咆哮が轟く。
崖の上から、筋骨隆々とした人狼の影が一つ、また一つと姿を現した。その瞳は血走った赤色に染まり、口元からは飢えた獣の涎が垂れている。
狼男族の一番槍が、高所からの勢いを乗せて、ティオナ目掛けて飛び降りた。
振り下ろされる、岩をも砕く巨大な拳。
「……っ!」
ユウマは思わず息を呑んだ。
だが、次の瞬間、**――ガキィィィィィン!!**という、金属同士が激突したような、鼓膜を劈く衝撃音が崖下に響き渡った。
土煙が舞い上がる。
そこには、一歩も退かずに盾を構え続けるティオナの姿があった。
彼女の細い腕が、自分よりも数倍大きな狼男の全重力を受け止め、あろうことか弾き返していたのだ。
「……ここは、通しません……。私の大好きな場所を……汚させはしないのです……!」
ティオナの声は、風に吹かれれば消えてしまいそうなほど静かだった。だが、その背後に宿る決意の重さは、崖を駆け下りてくる狼男たちの群れを、一瞬だけ怯ませるほどの圧力を持っていた。
しかし、狼男族の影は、さらに後方から次々と湧き出してくる。
一人対数十人。
圧倒的な数の暴力が、孤独な盾の少女を飲み込もうとしていた。
「ティオナ!」
ユウマは叫びながら、その崖下へと駆け出した。
力はない。魔法もない。
けれど、この高潔な少女を、再び孤独な死の淵に追い込むことだけは、何があっても許せなかった。
「ルネ! 村の戦士たちが来るまで、時間を稼ぐぞ! 敵の配置を正確に教えてくれ!」
「……わかった、ですぅ!」
ルネのオッドアイが、極限の緊張の中でかつてない輝きを放つ。
断崖を舞台にした、絶望的な防衛戦の幕が上がろうとしていた。
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