第九話:曇天の行軍と、崩れる足取り
二日目の朝は、重苦しい湿気を帯びた霧とともに明けた。
遺跡での目覚めとは違い、周囲を囲むのは見渡す限りの深い緑と、どこか冷淡な森の呼吸音だけだ。
「……ん、ぅ……」
岩の裂け目で目を覚ましたルネが、小さな声を漏らして自分の額を押さえた。その顔色は、昨日よりも一段と青白い。
「ルネ? どうしたんだ、顔色が悪いぞ」
ユウマがいち早く気づき、彼女のそばに膝をつく。リリィも慌てて、眠りから覚めて**ゆさっ**と胸を揺らしながら駆け寄った。
「ルネちゃん、大丈夫ぅ? どこか痛いのぉ……?」
「……だいじょうぶ、ですぅ……。少し、頭が……**ズキズキ**するだけ、ですぅ……っ」
ルネは無理に微笑もうとしたが、その頬は痛々しく引き攣っていた。昨日一日中、神経を極限まで研ぎ澄ませて「魔力の色」を見続け、さらに夜通し微かな気配を追い続けた反動だろう。吸血鬼という強靭な種族とはいえ、まだ幼い彼女の精神には、この森の索敵は重すぎる負担だった。
「今日は無理をしない方がいい。少しここで休んで、体調が戻ってから……」
「ダメ、ですぅ……っ! ユウマさま、ここ……危ないですぅ……。さっきから、結界のあった方向から……嫌な、粘りつくような色が……こっちに伸びてきてるですぅ。ここにいたら、見つかっちゃう……ですぅ……っ」
ルネは震える足で立ち上がり、ユウマのシャツを必死に掴んだ。その瞳は恐怖に揺れている。彼女の『超知覚』は、休息を求める体よりも先に、忍び寄る「死」の気配を察知していた。
「……わかった。行こう。ルネ、無理は承知だけど、道案内をお願いできるかな」
「はい……ですぅ……っ。……あっち、ですぅ。木の間を……抜けるですぅ……」
こうして、二日目の行軍が始まった。
しかし、状況は昨日よりも格段に悪かった。
足場の悪い急斜面、行く手を阻む巨大な羊歯植物。ルネは一歩踏み出すごとに、**フラッ**と身体を揺らし、その度にリリィが隣で彼女の細い腰を支えた。
「ルネちゃん、リリィに寄りかかっていいんだよぉ? ほら、リリィの体はぁ、柔らかいからぁ、クッション代わりにするのぉ」
「あぅ……お姉さま……ごめんなさい、ですぅ……」
リリィの献身的な支えを受けながら、三人は牛歩のような速度で森を進む。
数時間が経過し、太陽が真上に昇る頃には、ルネの容態は目に見えて悪化していた。彼女の呼吸は浅く、**ゼェ、ゼェ**という苦しげな音が漏れ、オッドアイの輝きも今にも消え入りそうに濁っている。
「……ぅ……あ……」
ついにルネの膝が折れ、地面に崩れ落ちそうになった。ユウマが間一髪でその小さな体を抱きとめる。
「ルネ! ……もう限界だ。これ以上は一歩も進ませられない」
「でも……ユウマ、さま……まだ、気配が……っ」
「いいんだ、ルネ。僕がなんとかする。……ルネ、この近くに、少しでも身を隠せて、水がある場所はないか? 君の今の状態じゃ、逃げ切る前に体が壊れてしまう」
ユウマの切実な声に、ルネは朦朧とする意識の中で、最後の一振りの力を振り絞って目を凝らした。
「……あっち……ですぅ。……かすかに、水の……青い色が、見える……ですぅ……」
ルネが指した方向へ、ユウマは彼女を横抱きにして走り出した。リリィも、荷物を抱えて必死に後を追う。
茂みを掻き分け、急な崖を下ると、そこには透き通った水を湛えた小さな川が流れていた。川べりには柔らかな苔がむした岩場があり、周囲の木々が天然の天蓋となって、空からの視線を遮っている。
「ここで休もう。リリィ、手伝ってくれ」
「はいなのぉ!」
ユウマはルネを平らな岩の上にそっと寝かせた。彼女の額からは脂汗が流れ、呼吸は乱れたままだ。
「リリィ、水を。冷たい水で彼女を冷やしてやってくれ」
「わかったのぉ! ルネちゃん、今すぐ楽にしてあげるからねぇ」
リリィは手際よく布を川の水に浸し、ルネの額に乗せた。冷たい水の感触に、ルネは**はふぅ……**と小さく息を吐き、少しだけ強張っていた表情を緩めた。
ユウマは川の対岸を見据え、周囲を警戒する。
結界のない世界での初めての野営。ルネが動けない今、守れるのは自分しかいない。
かつての管理職時代、トラブルが起きた現場で「自分が動くしかない」と覚悟を決めた時の感覚が、より鋭利な形でユウマの胸に蘇っていた。
「……リリィ、君はルネのそばにいて。僕は少し、周囲に罠……というか、近づく者がいたら音が鳴るような仕掛けを作ってくる」
「ユウマさまぁ……気をつけてねぇ。リリィ、ルネちゃんのことぉ、しっかり見てるからぁ」
リリィは不安げに、だが信頼の籠もった瞳でユウマを見送った。
せせらぎの音だけが響く川辺。
三人の旅は、最大の試練を迎えようとしていた。
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