10.現実から逃げない
先程からキッチンで食材を前に、咲也は立ち尽くしていた。
『今夜はシチューがいいわね』
今朝、母親がそう言った。昨日作れなかったシチューだ。作ってくれという強制的な意味ではないようだったが。キッチンの時計の針を見ると、そろそろ午後七時を回る。帰って来てから作っていては少し夕飯が遅くなる。それに、疲れているのに料理など面倒だろう。
ここは一つ、親孝行を――と考え、シチューくらい作れると思ったものの、この家にはシチューの素がなかった。
それで、スマホでレシピを検索していたため、取り掛かるのに時間が掛かってしまったという訳だ。
おそらく、英人は作れるのだろう。秀才でイケメンで、料理ができるなんて。どこまで完璧なんだ。
ちなみに、スマホは交換した。友達のメッセージに何て返信していいか困るし、同じサイズと色なので親にバレることもないだろうと判断して。
しかし、咲也は家族のために料理を作ったことはない。小さい頃に一緒に作ったことはあったが。それに何より、そんな柄じゃない。それどころか、今はろくに会話も交わさない引きこもりの困った息子となってしまっている。
対して、英人は家族と円満なようで羨ましくもある。この絆は決して壊してはいけない――英人の体で生きる限り。
「よし、材料はカレーと同じように切る」
ピーラーで剥きにくい馬鈴薯のじゃがいもの皮を包丁で剥くのに苦戦しつつ、材料をどんどん切っていく。
「肉と野菜を炒めたら、水、牛乳、小麦粉を入れるっと」
ぐつぐつと煮える鍋をジッと見つめていると、
「ただいま、おっ、甘くていい香りだな」
父親が帰宅した。次いで、
「あら、シチュー作ってくれてるのね、ありがとう。食べたかったのよー」
母親も顔を出す。いつも帰りが一緒だが、同じ職場に勤務しているのだろうか? それとも、帰りの時間を合わせて一緒に帰宅しているのか?
すぐに、よそ様の家庭の事情にいらぬ詮索は無用。と、鍋に向かう。が、もうこの体の魂は咲也だ。知っておくべきか。しかし、わざわざ聞き出すのも不自然だ、これは難しい問題だ。
父親が冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し飲みながら、
「例の四階の人、亡くなったみたいだな」
「え?」
「エレベーターで喪服姿の人と乗り合わせたんだ。四階で降りて行った。間違いないだろう」
「ご高齢だったものねぇ。この寒さが堪えたかしら」
一昨日、エレベーターで会った目が赤かったおばあさんのことだ。やっぱり、この目の能力は本物ということか。決して英人を疑っていた訳ではないが。
背筋がスゥーと冷えた。
さっき、自宅に帰って手を洗う時に、英人の目の色は黄色だと確認済みだ。昨日からトイレへ行くたび鏡で目の色を確認している。少し心がピンと張り詰めている。受験勉強よりも、今はこっちの方に神経がすり減っている。
両親が部屋着に着がえて来ると、ちょうどシチューを煮込み終えた。お皿についで、テーブルに運ぶ。主食はパンかご飯か迷ったが、消費期限の近づいたロールパンにした。あとは、切っただけのトマトとちぎっただけのレタスのサラダ。これだけでも、咲也にしては上出来だった。
「あれ、そういやシチューの素ってまだあったの?」
「え?」
何だって? 市販の素を使ってるのか! コントみたいにガクッと肩を落とす。でも、
「美味しい! これ、ほんとに小麦粉と牛乳で作ったの?」
「ちゃんとシチューの味だよな? これ、市販の素よりウマいんじゃないか?」
二人に褒められ、咲也は心の中でドヤ顔をキメる。ネットで調べて初めて作ってみたけど、なかなかやるじゃないかと自分で自分を褒める。そういえば、こんな事って久しぶりだ。
「だいぶ、レパートリーも増えて上達したよな。いっそ、料理研究家になったらどうだ? おまえは我が息子ながらイケメンだし、絶対人気でるぞ」
「そうよ、動画サイトやSNSでアップよアップ!」
それ、医者の息子からほど遠い……もっと医者になれという圧が強いのかと思っていたが、この人たちは何も息子に求めていなさそうだ。良い意味で、自由なのだ。まだ、咲也の方が教師の息子らしく公務員の職につかねばと、プレッシャーを抱えていた。
「ごちそーさま」
「あら、シチューだけ食べたの? まだ胃の具合が悪いの?」
「んーまぁ……心配するほどじゃないよ」
英人と近づけたことが嬉しい反面、やはり特殊能力についての不安が付いて回る。学校の行き帰りで黄色や赤の目の人を見るたび、心は穏やかではなくなる。
「一度、胃カメラでもした方がいいんじゃないかしら? ねぇ、あなた?」
「前に血液検査で異常なかったから、必要ないだろ。胃カメラデビューにはまだ少し早い」
「のん気ねぇ」
「心配症だなぁ」
「まぁ、消化器外科医のあなたの診断は信頼してるわよ」
「眼科医のおまえの目も正しいよ」
なんと、父親は消化器外科医で、母親は眼科医と知る。何となく、父親は外科医かと思っていたし、母親が眼科医は女医らしいなぁと、偏見ではないが納得する。
そこへ、
――ウォーン、ウォーン
と、どこからか消防車のサイレンの音が聞こえてきた。その音は、だんだんと近づいてくる。
「なんか、近いな。どこだ?」
父親が席を立ってベランダの窓の外を見る。咲也と母親もベランダに近づく。すると、斜め方向にあるマンションの五階辺りから煙が出ているのが目視できた。
「すぐ近くじゃないか」
「まぁ……」
消防車が一台、二台と到着する。まだまだサイレンは鳴り響き、後から次々とやって来る。
こんな近くで火災を見たのは初めてだ。生々しい現場を前に、心が落ち着きなくそわそわする。血が騒ぐというやつか。その時だった、
「あそこっ、人がいるわ!」
火災が起きている五階の一つ上、六階の窓から顔を出す人の姿が見えた。逃げ遅れか。そして、その人の目を捉えた――黄色だ。瞬間、ホッとする。黄色ならば、助かるだろうと。しかし、フッとその目が急に赤色になった。信号機が変わるかのように。
サッと血の気が引く。
あの人はもう助からない。死が決まった。
目の色が変わるって、こういうことなのか? 英人の目も、こうやって変わるときが来るのか?
実際に、こうして目の当たりにして、その衝撃の強さに目が眩んで立っていられないほどだった。
「英人、どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
「俺、ちょっと行って来る。ここまでは火の手は届かないだろうけど、煙は届くかもしれないから、ベランダには出るなよ」
父親はそう言って、火災現場へと向かった。
英人は病気ではない。では、死ぬとしたら、事故か事件。事故といえば交通事故を思い浮かべるが、こうした火災も含まれる。それこそ、歩いていてマンホールに落ちるなど。いや、そんなドジを英人は起こさないだろうが、咲也ならばやりかねない。
(しっかりしなきゃ)
事件性については、ストーカーや通り魔か。通り魔は予測不能だが、ストーカーなら事前に防げる。
(助けるんだ、僕が)
死者が出るだろう火災現場を見ていられず目をそらそうとしたが、グッと目を凝らす。逃げるな。現実から、逃げるな。と、心に決意した。




