2.このままでは過労死
「お父さーん!」
叫びながら、近所を走り回る女性――小堂聖子はお父さんの行方を探していた。
お父さんは認知症で、目を離すと勝手に玄関を出て、ふらりとどこかへ行ってしまう。なのに、今日はうっかりしていた。パートへ行こうとしたところ、急に雨が降って来たため洗濯物を取り込んだりしてバタバタしているうちに、お父さんは玄関へと出て行ってしまったのだ。
これで完璧にパートには遅れる。携帯電話でパート先へ遅れる旨を頭を下げて連絡しながら、歩き回る。まだそう遠くへは行っていないはずだ。案の定、
「お父さん!」
家の角を曲がってすぐの電柱にぶつかろうとしている寸前だった。
「危ない!」
電柱は避けた。が、道路の溝に足を突っ込んでしまう。そしてバランスを崩して転倒してしまった。
「お父さんっ!」
すぐに聖子は駈け寄る。
溝は結構深く、五十センチ以上はある。前々から危ないと注意していた箇所だった。
「お父さんっ、大丈夫っ?」
「おーイタタッ」
見れば鼻から血を垂らしている。もしや頭を打ったのか。足などを捻ったり骨折していたりもしないか。
誰か助けを呼びたくても、母は家から一キロ離れた畑にいる。いつも携帯を鳴らしても着信音が聞こえないらしく、出てくれないことが多い。一体何のための携帯か分からない。もちろん音量設定を最高にもしてみたが、ダメだった。
「お父さん、出られる?」
とりあえず、お父さんを道路に引っ張り上げようとする。「イタタッ、何すんだ!」と、助けようとしているのに怒鳴られる。こんなとき、聖子は苛立ちを超えて泣きたくなる。でも相手は認知症。仕方がないの一言でグッと我慢する。
(誰か、助けてよ……)
聖子は母が四十歳の時に出産した子だった。遅くに生まれた子は可愛いものらしく、その愛を一身に浴びて育ってきたが、まさかこんなに早くして介護が必要になるとは思ってもみなかった。
目尻に涙が浮かぶが流している暇はない。力づくで何とか父を溝から出す。そして、怪我の具合を確かめる。
鼻血以外に怪我はないが、念のために病院へ連れて行き検査をした方がいいかどうか。
(CT撮影って高いんだよね……)
こんな時にそんなことを心配してしまうのが情けない。命を前にしてお金が云々を言っていられないが、しかし決して裕福な家ではなく、節約しながらギリギリに切り詰めて生活をしている状態だった。
父は自分の鼻血を手で拭き、その手を服にベタベタとなすりつける。服は血だらけだ。鼻血はまだ止まらず出ている。意識はハッキリしているため、救急車を呼ぶと近所の人たちが心配して出て来て迷惑を掛けてしまうので、病院へ連絡して救急外来へと車で向かった。
病院へ行くとCTの検査結果はどこも異状なく、父はケロリとしていて、優しくしてくれる看護師さんを見て嬉しそうだった。それを見て一気にドッと疲労が襲いかかってくる。
もう、パート先へは今日は出勤できない旨を電話で伝えた。幸いにも、職場の人たちは聖子の家庭の事情をよく理解してくれている。年配の方が多いため、聖子と似たように親の介護をしながら働いている人が多かいからだった。
お父さんを車に押し込み、家まで帰ると母が帰って来ていた。
時刻はもう夕方近く。
父のことをお母さんに頼み、今度はスーパーへと食材を買いに行く。全く息をついて休む暇もない。こんな毎日が日常茶飯事にある。
買い物の帰り途中、雨が降り出した河川敷の上で車を停めた。大雨が降ると増水しやすい。ここも危険な場所として注意している。
何となく、車から降りる。
そのうち雨は本降りになってきていて、傘を差していない体はずぶ濡れていく。
聖子はしばし河川敷を眺める。そして、大粒の雨が降る空を見上げる。
「もう、限界……こんなの、イヤ……っ」
ここで泣いても雨で分かりやしない。聖子は思いっ切り涙を流した。
どうして自分がこんな目に。友人たちはもう結婚をして、子育てをしている子もいる。結婚はまだでも、彼氏のいる子ばかりだ。聖子には、いるはずがない。こんなパートと介護の毎日で出会いなどない。それどころかオシャレを楽しむ余裕もなく、髪は安くて早い千円カットで済ませていた。
身も心もボロボロだ。
聖子はふらふらと橋の手すりに掴まり下を覗き込む。ここで謝って落ちてしまえばどうなるだろうかと、ぼんやりと頭によぎらした時だった。
急に視界が遮断される。
そして、辺りが真っ暗になり前が見えなくなったかと思えば――、
「あらまぁ、大変ね。ご苦労様」
見知らぬ女が闇から浮かび上がるように現れた――地面から宙に浮いた姿で。
「誰?」
聖子は何が起こったのか頭がボゥとしていて理解できず、ただ目の前の女に問いかけることしかできない。
「私? 私はあの世の使者の御加世よ。あなたは小堂聖子、二十九歳ね。今、死のうとしてた? 死にたいって思ってる?」
死にたい気分だが、実際には死にたくはない。
「……生きられるなら、生きたいに決まってる。でも……」
こんな変な幻覚まで見ている。もう自分はダメかもしれない、と聖子は力なくうな垂れる。
「分かったわ、じゃあソウル・チェンジしましょ?」
「ソウル・チェンジ? 何それ?」
「こんな所で川に身を投げるより、死にたいと思ってる人と魂を入れ替えて、あなたは新しい体で好きに自由に生きて人生を謳歌するのよ。どう?」
「よく言っている意味が分からないけど、そんなことができるなら、夢のようね」
「じゃあ、オーケーってことね?」
「いいわよ、どうせこんな人生。捨てたっていい。その新しい体とやらにしてちょうだいよ」
「分かったわ。それじゃあ――」
御加世はいつものように大きく広げた腕を胸元でクロスさせ、決め台詞を吐いた。




