94 やっぱり
片付けが一段落して。
少しだけ時間が空いた。
「ちょっと飲み物取ってくるね」
凛がそう言って、その場を離れる。
⸻
少し離れた場所。
海の家の裏手。
人の気配が少しだけ遠くなる。
凛は自販機の前で立ち止まった。
そのとき。
「……凛ちゃん」
後ろから声がかかる。
振り向くと――愛菜がいた。
「あ、愛菜ちゃん」
「ちょっといい?」
いつもより、少しだけ落ち着いた声。
「……うん」
⸻
二人は、少しだけ人のいない場所に移動する。
波の音が、遠くに聞こえる。
⸻
「さっきさ」
愛菜がぽつりと言う。
「蒼と、楽しそうだったね」
凛は少しだけ驚く。
「……え?」
「ビーチバレーのあと」
「二人で話してたでしょ」
凛は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……うん」
「ちょっとだけ」
⸻
少しの沈黙。
愛菜は、視線を海に向けたまま続ける。
「凛ちゃんってさ」
「優しいよね」
「え……?」
「誰にでも優しいし」
「ちゃんと周り見てるし」
凛は少し戸惑う。
「……急にどうしたの?」
⸻
愛菜は、少しだけ笑う。
でもその笑顔は、どこか力が入っていなかった。
「ねえ、凛ちゃん」
「蒼のこと、どう思ってる?」
⸻
凛は、少しだけ息を止める。
頭の中に浮かぶのは――
さっきの時間。
砂浜。
触れた手。
約束。
⸻
「……楽しいよ」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「一緒にいると、すごく」
「落ち着くし」
「……いい人だなって思う」
⸻
「そっか」
愛菜は小さく頷く。
そのまま、少しだけ間を置いて。
⸻
「私さ」
静かに言う。
「蒼のこと、まだ好きなんだ」
⸻
凛の時間が、一瞬止まる。
「……え」
思わず、声が漏れる。
⸻
「高校のとき付き合ってて」
「蒼の肩のこと。」
「いろんなことがあって……別れたけど」
「でも、ずっと」
「忘れられなくて」
⸻
――私、蒼のこと、まだ好きなんだ。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
⸻
愛菜ちゃんは、静かに話している。
高校のとき付き合っていたこと。
蒼くんの肩のこと。
いろんなことがあって、別れたこと。
でも――
それでも、忘れられなかったこと。
⸻
ちゃんと、聞いてる。
全部、理解できる。
でも。
それ以上に――
胸の奥が、ざわざわしていた。
⸻
(……やっぱり)
凛は、心の中で思う。
⸻
ずっと、そんな気がしていた。
⸻
水着を買いに行ったとき。
愛菜ちゃんが、少しだけ言葉を止めたあの瞬間。
⸻
買い出しのとき。
二人が並んで歩いていた、あの空気。
⸻
あのとき感じた、言葉にできない違和感。
⸻
(あれは――)
ただの気のせいじゃなかった。
⸻
蒼と愛菜ちゃん。
二人の間には、
きっと。
⸻
私には分からない時間がある。
⸻
私が知らない、
二人だけの記憶がある。
⸻
私が入れない、
“二人だけの世界”がある。
⸻
さっきの海。
楽しかった時間。
砂浜で笑ったこと。
触れた手。
約束。
⸻
全部、本物のはずなのに。
⸻
その中に、
少しだけ混ざる。
知らない誰かの影。
⸻
(……私)
⸻
ほんの一瞬。
思う。
⸻
このまま、進んでいいのかなって。
⸻
でも。
その答えは、すぐに出る。
⸻
凛は、小さく息を吐く。
⸻
(……だめだ)
⸻
ゆっくりと。
でも、はっきりと。
⸻
心の中で、決める。
⸻
(このままじゃ、いけない)
⸻
顔を上げる。
いつも通りの笑顔を作る。
⸻
「教えてくれて、ありがとう」
⸻
その声は、ちゃんといつも通りだった。
⸻
でも――
⸻
その奥で。
⸻
凛の中の何かが、
静かに変わり始めていた。




