176 温泉
夜になり、外の空気はさらに冷えていた。
玄関の引き戸を開けると、澄んだ空気が流れ込んでくる。
「……寒っ」
愛菜が小さく肩をすくめる。
「さっきより冷えてるな」
蒼が言う。
「夜はこんなもんだよ」
澪が先に外へ出る。
「でも、空見てみ」
そう言われて、愛菜が見上げる。
「……すご」
思わず声が漏れる。
夜空いっぱいに、星が広がっている。
「こんな見えるんだ」
「こっちは空広いからな」
蒼が言う。
「街灯も少ないし」
「いいでしょ」
澪が少し笑う。
「こういうの、当たり前だからさ」
三人で歩き出す。
雪を踏む音が、静かに響く。
「寒くない?」
蒼が横を見る。
「大丈夫」
愛菜が頷く。
「ちゃんと着てるし」
「ならいいけど」
軽く言う。
「この道さ」
澪が前を歩きながら言う。
「昔よく通ってたよね」
「あー」
蒼が頷く。
「裏の公園行くときな」
「そうそう」
澪が笑う。
「冬でも普通に遊んでたし」
「今考えると意味わかんねぇよな」
「ほんとだよ」
そんな会話を聞きながら——
愛菜は、少しだけ後ろから二人を見る。
(……自然だな)
やがて、温泉が見えてくる。
「ここです」
澪が言う。
小さめの、落ち着いた建物。
明かりが暖かく灯っている。
「いい感じ」
愛菜が小さく言う。
中に入る。
暖かい空気が、身体を包む。
「じゃあ」
澪が振り返る。
「一回ここで分かれましょうか」
「だな」
蒼が頷く。
「あとで出たら外で待ち合わせでいいか?」
「うん」
澪が頷く。
暖簾の前。
一瞬だけ、三人の間に静かな空気。
「じゃあ」
蒼が言う。
「あとで」
「うん」
愛菜も頷く。
女湯。
湯気が立ち込める。
静かな空間。
「あー生き返るー」
愛菜が小さく呟く。
肩まで浸かる。
身体がゆっくりと緩んでいく。
「どうですか?」
澪が隣で言う。
「いい感じですか?」
「すごくいいです」
素直に答える。
「疲れ全部抜けそうです」
「でしょ」
澪が少し笑う。
少しだけ、間。
湯の音だけが響く。
「さっきさ」
澪がぽつりと言う。
「蒼ちゃんの話してたじゃん」
「……はい」
愛菜が少しだけ頷く。
「昔、ずっと一緒にいたんだよね」
静かに続ける。
「家も隣だし、帰ってくると毎日みたいに」
「なんか、当たり前だった」
愛菜は、黙って聞く。
「雪の日もさ」
少しだけ笑う。
「坂のとこで滑って転んだりしてさ」
「夏は普通に外で遊んで」
「ほんと、ずっと一緒にいた」
「……そうなんですね」
愛菜が小さく言う。
「うん」
澪が頷く。
少しだけ、視線を落とす。
「だからさ」
言葉を選ぶように、少し間を置く。
「蒼ちゃんが野球やめたって聞いたとき」
「……」
「普通にショックだった」
静かに言う。
「ずっと、続けると思ってたから」
湯気の向こうで、表情ははっきり見えない。
「……」
愛菜は、何も言わない。
少しだけ間。
「……でさ」
澪がふっと息を吐く。
「私」
少しだけ笑う。
そのまま続ける。
「蒼ちゃんのこと、ずっと好きだった」
湯の音だけが、静かに響いていた。




