141 大人の関係
「なかったことにするってこと?」
その言葉が、静かに落ちる。
凛は、少しだけ目を伏せた。
すぐには、答えない。
「
……違うよ」
小さく、でもはっきりとした声。
愛菜は、何も言わずに待つ。
「なかったことにしたいわけじゃない」
凛はゆっくりと顔を上げる。
「ちゃんとあったし」
「ちゃんと、愛菜ちゃんが決めたことも分かってる」
その言葉に、胸の奥が少しだけ締まる。
「
……でも」
凛は、少しだけ息を吐いた。
「それでも、私は」
一瞬だけ、言葉を止める。
「蒼くんの隣にいるのは」
まっすぐ、見てくる。
「愛菜ちゃんがいいって思った」
愛菜は、少しだけ視線を落とす。
(……じゃあ)
自分は、どうする?
あのとき。
自分で決めたこと。
“譲る”って決めた。
でも——
(……ほんとに、それでいいの?)
心の奥で、何かが動く。
「
……ならさ」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
そのとき——
ふと、頭に浮かぶ。
グラウンド。
乾いた打球音。
歓声。
そして——
あのときの蒼の笑顔。
(……あんな顔)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(……やっぱり私は)
一瞬、目を閉じる。
逃げるように手放したはずの気持ちが、
もう一度、はっきりと形になる。
(……好きだ)
ゆっくりと、目を開く。
「私も、自分で決めていい?」
凛は、少しだけ驚いたように目を見開く。
でも、すぐに——
「
……うん」
小さく、笑った。
「いいよ」
愛菜は、まっすぐ凛を見る。
迷いは、もうなかった。
「蒼の隣」
一瞬だけ、息を吸う。
「私がもらうね」
静かに、でもはっきりと。
凛は、ほんの少しだけ目を細める。
そのまま、しばらく愛菜を見つめて——
首を横に振った。
「……その方がいいと思う」
一度、言いかけて。
ふっと息を吐く。
「ううん、違う」
まっすぐ、愛菜を見る。
「そうじゃなきゃダメだよ」
少しだけ声が強くなる。
「蒼くんの隣は、私じゃない」
「ずっと一緒にいた愛菜ちゃんじゃなきゃ、ダメなの」
その言葉は、迷いがなかった。
愛菜は、ほんの一瞬だけ目を見開く。
でも——
すぐに、小さく笑った。
「
……そっか」
それだけ言う。
二人の間にあった何かが、すっとほどけていく。
もう、ぎくしゃくした空気はなかった。
ただ——
少しだけ、大人になった関係がそこにあった。




