13 幸せ
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蒼は息を吐き、三郎の顔を見る。
「……そんな感じだった」
三郎は目を丸くして、驚いたように声をあげる。
「おお……マジかよ」
蒼は少し視線を伏せる。
夏祭りの夜。
花火の下で笑っていた愛菜の顔が、ふと頭に浮かぶ。
三郎は腕を組みながら言った。
「でもさ、お前ら結構長く付き合ってたんだろ?」
蒼は小さく頷く。
「……まあな」
その言葉と同時に、蒼の頭の中にまた別の記憶が浮かび上がる。
恋人になってからの日々。
何でもないはずの毎日が、やけに特別に感じていたあの頃の時間。
――あの頃は、ずっとこんな日が続くと思っていた。
蒼はゆっくりと目を閉じる。
そして、また過去を思い出す。
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付き合い始めてからの毎日は、不思議と何でもないことが特別に感じられた。
「ねえ蒼、今日の授業ノート見せてよ」
「お、いいけど、間違っても笑うなよ」
「えー、蒼の字ちょっと汚いじゃん」
「うるせぇ」
そんな些細なやり取りでも、二人でいると自然に笑い合える。
昼休み、教室で弁当を食べながらくだらない話をする時間も、
放課後に少しだけ一緒に歩く帰り道も、
全部が今までとは少し違って見えた。
恋人になっただけで、世界が少しだけ変わった気がした。
ある日の放課後。
野球部の練習が終わるころ、グラウンドのフェンスの外に愛菜の姿があった。
腕を組んで、じっとグラウンドを見ている。
マウンドの上には蒼。
キャッチャーミットを構えているのは太陽だった。
「ナイスボール!」
太陽の声がグラウンドに響く。
蒼はもう一球、思い切り腕を振る。
ボールがミットに収まる。
パシン、と乾いた音。
フェンスの外で、それを見ていた愛菜は小さく呟く。
「……かっこいい」
その声は誰にも聞こえないくらい小さかった。
練習が終わり、蒼がグラウンドを出てくる。
その時、太陽がフェンスの外を見る。
「あ、愛菜じゃん」
蒼がそっちを見る。
「あー……」
太陽は少し笑う。
「相変わらず待ってるんだな」
「うるせぇよ」
太陽は肩をすくめる。
「いい彼女じゃん」
蒼は少し照れくさそうに頭をかく。
「ちゃんと送ってけよ」
「分かってるって」
蒼がフェンスの外に出ると、愛菜が嬉しそうに笑った。
「お疲れ」
「待ってたのか」
「うん」
少し照れた顔で言う。
「蒼の練習、見てた」
「……マジ?」
「うん。蒼、すごく真剣な顔してた」
蒼は少し照れくさそうに笑った。
「まあ、練習だしな」
そのまま二人で歩き出す。
夕焼けに染まる帰り道。
少しして、愛菜がぽつりと呟く。
「蒼」
「ん?」
「絶対、甲子園行ってね」
蒼は少し驚いて愛菜を見る。
でも、すぐに笑って頷いた。
「任せとけ」
その時は、何も疑っていなかった。
あの夏が、ずっと続くものだと。
秋になると、二人の関係はすっかり日常に溶け込んでいた。
放課後の教室。
部活帰りの自販機の前。
休日に寄った小さなカフェ。
「蒼、今日はどの本読んでたの?」
「いや、面白そうなのがあったから」
「ふーん。今度私も読んでみようかな」
そんな些細な会話が、当たり前のように続いていく。
教室で並ぶ机。
昼休みの弁当。
放課後のコンビニ。
どれも全部、二人の思い出になっていった。
そして、クリスマス。
街はイルミネーションで輝いていた。
駅前の広場には、大きなクリスマスツリーが立っている。
「すごい人だな」
「クリスマスだしね」
吐く息が白くなる。
「寒くない?」
「ちょっと寒いかも」
そう言う愛菜に、蒼は少し迷ってから自分のマフラーを外した。
「ほら」
「え?」
「巻いとけ」
愛菜は少し驚いたあと、小さく笑った。
「ありがと」
二人で並んでイルミネーションを眺める。
静かな時間。
その時、愛菜が小さく呟く。
「蒼」
「ん?」
「今日、楽しい」
蒼は少し笑った。
「俺も」
愛菜が少しだけ近づく。
「蒼」
「ん?」
「目、閉じて」
「え?」
言われるまま目を閉じる。
次の瞬間。
柔らかい感触が、唇に触れた。
ほんの一瞬。
目を開けると、愛菜が少し照れた顔で笑っていた。
そして、にやっとする。
「びっくりした?」
「……」
「蒼、顔真っ赤」
「うるさい」
愛菜は楽しそうに笑う。
「蒼、初キス?」
「……」
「図星だ」
蒼はため息をつく。
「お前は違うのかよ」
愛菜は少しだけ笑う。
「どうだろうね」
少しだけ間を置いて、優しく言う。
「でもさ」
「ん?」
「蒼でよかった」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
愛菜はまたからかうように笑った。
「そんな顔してると、またキスするよ?」
「しねーよ」
「ほんとに?」
そう言いながら、楽しそうに蒼の隣を歩き出す。
その夜の帰り道。
二人の距離は、いつもより少しだけ近かった。




