表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/38

36 誘惑

「えーっと」


 とりあえず声を出した。倫太郎もそのままを繰り返す。


「ええーっとおぉ」


 考える間は一秒もない。

 あぁっ、もう! なるようになれ。


「大至急、お話ししたいことがあります」


「はい? あぁ、はい」


 倫太郎の声を聞いた麗奈は、訝し気に答えた。


「気をつけろよ、江崎が中にいるかもしれないし、麗奈も危ない。いざとなったらすぐに隣の……」


 扉がゆっくりと開いた。


 きちんと化粧された美しい顔。

 少し前まで関係があった二人の間に、果てしない距離を感じた。

 この人は本当に、俺が愛した麗奈なのか。

 歯並びの良い口で笑う顔が、作られたものだとわかる。見知らぬ他人のようで不気味だった。


 高志は、思いつくまま言葉を放ち、麗奈とのぎこちないキャッチボールを始めた。

 倫太郎は、以前よりも抑揚のない棒読みで話しはじめた。


「お姉さん、僕、見てしまいました」


「なにを?」


 麗奈は笑っているが、顔色を微かに曇らせた。

 片方の手で白いシャツの胸元をつまみ、もう片方の手で髪の毛先をいじっている。

 これは、言い訳か、いやらしいことを考えているときのクセだ。


「今までのも、お姉さんがやったんですよね」


 麗奈は、顔を強張らせて首をかしげながら、髪の毛をせわしなく指に巻き付けている。

 すると倫太郎は、突然、指示もなく麗奈を指さして言った。


「あなたがやったことは、すべてお見通しだ」


 どこかで聞いたような台詞を、寒気がするほどの棒読みで言い放った。


「は?」


 麗奈は、こ馬鹿にしたような笑いを浮かべて目つきを変えた。

 黒目がちの瞳に影がかかる。危ない。


「見ていたのは僕だけじゃない。お姉さんのストーカーもあの場にいました」


「何の話? っていうか、ストーカーは君でしょ?」


 言いながら首を横に傾けた。指に巻き付けていた髪をほどき、胸元を抑えていた手を外した。

 麗奈のどこかで、カチリと、スイッチが入った気がした。

 まずい。

 ころがされまくっていた経験でわかる。

 

 来る。


 麗奈は、腰をくねらせて壁に寄りかかった。


「前に、太った子と来た時のも、霊じゃなくて、本当はカメラで監視してたんでしょ? 私が気になるってことは、もう一度、アレしてほしいのかな」


 高志は耳を疑い、倫太郎へ声をぶつけた。


「アレってなんだよ! キス以外にもしたのか」


 倫太郎はすかさず怒鳴り返した。


「キスだけだ!」


 麗奈が、口の端を持ち上げて言った。


「そうね、キスだけだったわね。それとも、その先も知りたい?」


 色目を使って中学生を誘惑している。

 目の前に立つエロスの化身が、ひどく醜く見えた。

 もう、江崎のことなど、この女に教えてやる必要はないかもしれない。


「知りたくありません。ここに来た用は二つです。自首してください。あと、ストーカーに狙われています。気を付けてください」


 麗奈が髪をかき上げて、息をついた。


「意味不明なんだけど。なんで警察に行かなきゃならないのよ。それに、ストーカーってなに? ストーカーを警察に突き出せってこと?」


「違います。あの――今は誰かと一緒ですか」


 麗奈は背後を振り返り、「いいえ、ひとりよ」と答えた。


「ストーカーは、江崎という男です。トイレのカメラもその男かもしれません」


 麗奈の眉間に、しわがぐっと寄った。


「あんた、前もトイレのこと言ってたわね。霊とかくだらないこと言ってないで、ちゃんと答えて。じゃなきゃ本当に警察呼ぶわよ」


「警察? 是非呼んでください。それで全部はっきりします」


 倫太郎が、高志の方をちらりと見て、言葉を続けた。


「本当に呼んでください。元カレが、お姉さんを守りたがっています」


 麗奈は口に手を添えて、目をうるませた。


「え……ススムが?」


 だから違うって。もうこの痛みには、うんざりだ。

 高志は、肩を落として二人のやりとりを見守った。


「ちょっと、待って。ススムがカメラのことを知ってたの?」


「いや、ススムさんは……」


 倫太郎が言いよどんでいると、麗奈が口を開いた。


「あの人が知るわけないわ」


 麗奈は、鼻で笑った。


「カメラつけたの、私だもん」


「え」


 高志と倫太郎が、同時に声をあげた。

 麗奈が?

 この可愛い顔で変態? 嘘だろ!


「前に、トイレのこと聞いてからカメラ見てびっくりしたわ。レンズの向き変わってるんだもん。あんたあの時、高志って言ったよね? あの人が動かしたんでしょ?」 


 こんなことあるかよ。苦しみもだえたあの無駄な時間を返してくれ。


「お姉さんは、自分の男のトイレ――を盗撮してたんですか」


 倫太郎は、靴底をズリッと鳴らして一歩後退した。


「違うわよ! 浮気チェックよ。ススム、スマホ持ってトイレ行くと長いんだもん」


「それだけで……疑うんですか」


「他の女とやり取りしてる時間、スマホ見て確認したし」


 俺のスマホも、見られていたのだろうか。


「見えないとこで何してるのか、好きなら気になるのよ。君にはまだわからないだろうけど。それにね、ここは私の家よ。カメラつけて何が悪いのよ」


 嫉妬や不安の対象は、全てススムだけに向けられていたのか。落ち込むのも馬鹿らしく、正直、何とも思わなかった。


「あんたね、カメラのこと、彼に言ったら承知しないわよ」


「彼って、ススムさんのことですか」


 高志も同じ疑問を抱き、麗奈の顔を見た。


「違うわよ! 何か勘違いしているようだけど」


 麗奈が強く否定した。

 何が勘違いなんだろう。考えていると、エレベーターのドアが開く音が聞こえた。

 高志は、廊下に顔を向けて戻した瞬間、即座に二度見した。


「江崎が来た!」


 早口で伝えると、倫太郎は背中を反らせて、扉から顔を出した。

 江崎が、強張った表情で向かってくる。

 咄嗟に扉の前に立ちはだかったが、江崎は高志の身体をすり抜けて、開いている扉を掴んだ。

 扉を支えていた倫太郎が後ろによろめく。

 江崎を見た麗奈の口が、大きく開いた。


「成美くん!」


 ――ナルミくんだぁ?

 高志はゆっくりと振り返り、江崎を睨んだ。

 江崎が、倫太郎を横に押しのけて玄関に入った。


「麗奈ちゃん」


 麗奈……ちゃんだとぉ? 


「成美君どうしたの?」


 麗奈は微笑んでいるが、どこか引きつって見える。

 かたまった笑顔のまま視線を下げた麗奈が、ふいに眉毛を上げた。


「そうか、合鍵作ってきてくれたのね。ありがとう」


 麗奈の視線を追って江崎の手元を見ると、見覚えのある鍵が握られていた。


「いや、合鍵はこの間、引き出しに戻しておいたよ。これは俺の」


 俺のって、どういうこと?

 この二人、もしかして。

 「引き出しに戻した」という言葉だけが引っ掛かった。

 この間というのは、江崎の不法侵入ことか。

 あのとき三段ボックスに入れたのは、盗撮でも盗聴の類でもなく、麗奈に頼まれて作った、合鍵?


「でも麗奈ちゃん、鍵がなくなってたんだから、やっぱり鍵ごと変えなきゃ」


 あ、俺が盗んだの、ばれてる。


「うん、でも、成美君が守ってくれるから大丈夫」


 そう言いながら、麗奈は江崎の肩に額をつけた。


「守るけどさ」


 江崎が、そっと麗奈の肩を抱きしめた。

 しおらしく寄りかかる麗奈と、フルスイングで人をぶん殴った女が同一人物とは思えない。

 こうして、か弱い麗奈を目にしていると、公園で見たものがすべて夢だったかのように思える。

 目を逸らさず、抱き合う二人を見つめた。どう見てもこの二人は付き合っている。

 それはいつからか。

 愛した女の肩を、別の男が抱く姿を見るのは、さすがに良い気はしないが、不思議と嫉妬心は湧かなかった。

 これも――あの人のおかげだろう。


 桃子。

 彼女との時間がなければ、この数日で、どれほどに心の傷を負ったかわからない。

 目の前の二人に、自分と桃子を重ね、一度くらい桃子を抱きしめてみたかったと後悔した。


「守るから。俺、麗奈ちゃんを守るから」


 もうわかったよ、しつこいな。

 いつまでもくっついている二人を見ているのにも嫌気が差し、心で悪態をついていると、江崎が続けた。


「だから麗奈ちゃん、公園でのことを正直に聞かせて欲しい」


 麗奈の笑顔が、マネキンのように固まっている。


「な……なにを?」


 指に髪を絡ませはじめた。


「一緒に警察行こう」


 玄関の空気が張り詰め、数秒後、麗奈は江崎から離れた。

唇がゆっくりと開くのを見て、何かを言うのだろうと思ったが、麗奈は、踵を返してリビングへ駆けだした。

 江崎は、靴のまま上がり込み、麗奈を追いかけて手首を掴んだ。


「麗奈ちゃん!」


 麗奈の口から、ヤカンの湯が沸いたような悲鳴が上がり、徐々に声量と音域が高まった。

 江崎は麗奈の頭を引き寄せ、自分の胸に押さえつけた。

 麗奈は拳で叩き、爪を立てて暴れ、身体をよじった拍子に足を滑らせたのか、後ろに倒れ込んだ。

 江崎も覆いかぶさるようにして廊下に倒れた。


「何をしたかわかってるのか!」


 麗奈を床に押し付け、叫び声を掻き消す声量で怒鳴りつけた。

 高志は、はっとして倫太郎に声をかけた。


「扉閉めて。人に聞かれる」


 閉まると同時に、803号室の扉が開き、スッピンの主婦が片目を覗かせた。


「恋人と喧嘩しているみたいで、大丈夫みたいですって言って」


 倫太郎がそのまま言うと、女は「あらあら、大変ねぇ」と、やや残念そうな顔で言い、扉を閉めて施錠した。


「高志、中に入って手伝わなくていいの?」


 倫太郎が扉のノブに手を掛けるのを見て、言った。


「いや、多分大丈夫だ」


「よくないよ。あんな状態で自首するわけない」


「いや、大丈夫だろ」


 あの男なら。

 もし俺が江崎だったら、ああして麗奈を怒鳴りつけることができただろうか。

 公園での行為を見たうえで「守ってやる」と言えただろうか。 

 麗奈の本性にも、怪しい行動にも気づかなかった。

 例え気がついたとしても、「私を信じて」と涙を流されたら、それ以上追及できなかったかもしれない。

 江崎と比較するまでもない。

 

 完敗だ。


「帰ろう」


 今にも中に突入しそうな倫太郎に声をかけると、倫太郎は、扉を見つめて言った。


「せめて高志の想いを伝えようよ。ずっと守ろうとしてきたこと伝えなくちゃ。それに、麗奈さんも高志に謝るべきだ」


 ノブを握る手に、力が入っているのがわかる。


「もういいよ」


「駄目だって。指輪を渡したのだって、高志だって気づいていないんだよ。これじゃあ、こんなんじゃあ高志が……」


 高志は、言葉を詰まらせている倫太郎の後を継いだ。


「馬鹿みたいだよな」


 言った後、不思議と笑えてきた。


「そうだよ、高志は馬鹿だよ。気持ち伝わらないうえ、騙されていた大馬鹿ものだ。江崎って人にも、麗奈さんは浮気女だって伝えてやろうよ」


「その必要はない」


「どうして」


「おまえだって、自分が受けた傷を、他のやつに味あわせたくないだろ。おまえなら、わかるはずだ」


 倫太郎は、唇を尖らせて不服そうな顔をした後、視線を足もとに落とした。

 自分の言葉に、迷いはなかった。

 江崎を傷つける意味はないし、自分と麗奈の間の隠れた真実が明かされなくてもいい。

 最終的に選ばれた男は、合鍵を渡された江崎なのだから。

 それが全ての答えだ。


「本当にそれでいいの? だったらなんのためにここに現れたんだよ。高志……いい奴なのに、それだけは伝えないと、僕の気がおさまらないよ」


 声がかすかに震えている。

 中坊の想いと優しさに胸が熱くなるのを感じながら、小さな肩に手を添えた――。


「いい奴なのはおまえの方だ。サンキューな」


 手は、正確に肩に添えられないほど薄れていた。


「倫太郎、俺、もう時間がないから、お前の部屋で話でもしようぜ」


 805号室の扉の向こうから、麗奈の泣き声が聞こえた。

 甘えたような、子供のような可愛い声。付き合っている時にも、泣き声は何度も耳にしてきた。

 ドラマや映画で感動した本気の涙。

 俺の女友達に嫉妬した時の嘘泣き。

 今聞こえているのは、偽りのない涙だ。


 俺は、女を見る目はなかったが、涙の真偽の判別がつくだけの成長はしたようだ。

 決して麗奈との時間が無駄ではなかったと、微かな喜びを感じ、心に残るわだかまりを自分で処理した。


 倫太郎は、ドアノブからゆっくりと手を離し、自宅へ向かった。

 隣のドアが閉まったあと、805号室の扉に向かって声をかけた。


「ススムッチ、いるんだろ? 倫太郎の部屋に行こうぜ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ