35 走れ
野次馬の輪に戻ると、警察官は中年女性としゃべっていた。辺りに江崎の姿がない。
「ねえ、江崎がいないんだけど」
「麗奈さんのとこにでも行ったんじゃないの」
「何しに?」
「知らないよ」
「俺、麗奈に自首してほしいんだけど、もしかして江崎も……。いや待て、あいつストーカーだぞ。目撃したって脅すつもりじゃ……」
倫太郎は眉を寄せた。
「麗奈さん、通り魔かもしれないんだよ。そんな脅しにびびるほど弱くないでしょ」
確かに。もはや、誰が危険なのか、順位づけに悩む。
「そうだけど、一応麗奈も女の子だし。心配だよ」
倫太郎は、何も言わずに犬をなでている。
「でさ、イラつかれるのわかってるけど、麗奈んとこ、行かない?」
「なんで」
「自首すすめるのと、あと、江崎のことも伝えたい」
もうすぐ消えちゃうから、最後に……。の言葉は、飲み込んだ。
「また、そうやってかっこつける」
「本心だよ。頼む! 麗奈に何かあってからじゃ遅いだろ」
倫太郎は、そっぽを向いていたが、舌打ちをした後に「わかったよ」と言葉を吐き捨るように言った。
「タカシ、ゴー!」
倫太郎の声を合図に、高志とタカシは走りだした。
マンションに走りながら、今夜のことを整理する。
倫太郎は、ススムに頼まれて麗奈をつけていた。江崎も、止ようとしていたのかもしれないが、あいつに関しては、ただのストーカーの延長かもしれない。
とにかく今は、江崎よりも先に麗奈のところへ行きたい。
一応、好きだった人だ。最後くらい、人のために動いてもいい。
だが、倫太郎の背中を見ていると、引っかかるものがある。
自首させる、江崎のことも伝える。
危険な女に、危険なやつの存在を伝えることを、倫太郎に託して良いのだろうか。
その場に江崎がいる可能性もある。
間もなくマンションだが、今さらになって不安が込み上げてきた。その不安が、凶暴なほどに膨らんでいく。
考えている間に着いてしまった。倫太郎がエレベーターの押しボタンを連打した。
エレベーターは8階で止まっている。
江崎が先に着いたのかもしれない。
ようやく降りてきたエレベーターに急いで乗り込むと、誰かが後ろから駆け込んできた。
振り返り、はじかれたように壁際に跳びずさった。
自殺男だ。
男は、倫太郎の背後に移動した。頭頂部の匂いをかぐように、ぴたりとついている。
犬に目を向けると、犬は男ではなく、こちらに犬歯を見せていた。まじでこいつは――。
犬の視線に追いやられるように角に寄り、肩を狭めて階数表示を見上げた。
ドアが開くなり、廊下に飛び出した。
805号室に着いて横を見ると、倫太郎は、自宅の扉を開けて、中に犬を押し込んでいた。犬が扉の前で踏ん張っている。
「倫太郎、早く!」
自殺男がブツブツと言いながら皆を追い越し、我が物顔で805号室に入っていった。
飛び降りないのかよ!
「うぉい!」
男を呼び止めたのだが、返ってきたのは倫太郎の強い口調だった。
「なんだよ!」
説明するのももどかしく、805号室へ飛び込んだ。
玄関に入るなり、チャイムが鳴り響いた。
何度もチャイムが廊下に響く。
高志はリビングに走りながら、ふと考えて足を止めた。
麗奈が出たら、その後どうする?
自首をうながしたとして、倫太郎に見られていたと知ったら、麗奈は――何を考える。
駄目だ、やはり危険だ。
ここは引くしかないと判断し、急いで外に出た。
「一回、家に戻ろうぜ」
倫太郎は、チャイムを連打している。
「そんなことしているうちに、警察来たらどうするの。自首させたいんでしょ」
「だけど、麗奈に何て言うよ」
「それは高志の仕事だろ。麗奈さん出てきたら、すぐ何か言ってよ。僕、そのまま伝えるから。無言は許さないからな」
ちょっと待ってよ。何もまとまってないんだって。何で今日に限って協力モードなんだよ。
「はい」
インターホンから麗奈の声が聞こえた。




