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37 男の目

 いよいよ消えてしまうと察してからは、ススムへの怒りが嘘のように消えていた。

 裏切りへの怒りや嫉妬が、遠いものに感じられる。この姿がなくなる瞬間は、清らかな心でいたい。


 倫太郎の部屋へ入るとすぐに、ススムがホフク前進で現れた。


「あの二人、大丈夫そうだったか?」


「……ああ」


 短く答えて、顔を床ぎりぎりまで下げた。

 考えてみれば、こいつもショックだよな。


「ススムさん、いるんですか?」


 倫太郎が、辺りを見渡しながら言った。


「僕、ススムさんの奥さんに会ってきましたよ」


 その言葉に、ススムより先に高志が声をあげた。


「いつ? なんで?」


 倫太郎は答えず、「ススムさん、どこですか」と言った。


「倫太郎くん、ありがとう」


 ススムが言うと、倫太郎は視線をススムの方に向けた。


「すぐに、奥さんのとこに帰ってあげてください」


「え?」


「僕、お線香をあげに家に入りました。奥さん、すごく落ち込んでいたので」


 ススムは倫太郎を見上げた。血で表情は見えないが、悲しい目をしているのはわかる。

 そんな目をするくらいなら、なぜ浮気なんかした。

 なぜ死後も浮気相手のところにいる?

 今さら後悔しているとでもいうのか。

 自分と同じように裏切られた奥さんの気持ちを想うと、割り切れない切なさが残った。


「でも、妻は俺のことなんて……」


 声を詰まらせて、床に額をつけた。

 その優柔不断な態度に苛立ち、高志はたまらず口を出した。


「ススムッチさ、いいかげんにしろよ。おまえ何がしたいの? 誰といたいわけ?」


 詰め寄るように言うと、ススムも強い口調で返してきた。


「わかんねぇよ」


 この期に及んで逆切れかよ。高志はその場でドカリと胡坐で座り、腕を組んだ。


「子供が生まれてから、俺、ずっと父親だった」


「当たり前だろ」


「じゃなくて、俺は、男でいたいんだよ」


 その言葉で、以前、飲みの席でススムが語っていたのを思い出した。

 こいつは、どっぷり女に浸かる依存タイプだった。


 妻を愛していないわけじゃない。ただ、その奥にもう一人いる。

 満たされないまま残った、子供のススム。

 そいつが、男でいられる場所を、見つけてしまった。


 ススムの中の二人が、それぞれ別の女に恋をした。

 その心の分離は、わからなくもない。

 似たようなことは、今もどこかで起きている。

 だからといって、それで済む話ではない。

 二つに分かれた心が、二人の心を傷つけたのだから。

 

 わずかな沈黙の後、倫太郎が言った。


「ススムさん、早く帰ってあげてください」


「……今さら、帰れない」


 倫太郎は扉の方へ移動してしゃがみ、床に顔を向けた。


「今でも、奥さんのこと大事ですよね」


 ススムは、ゆっくりと顔を起こした。


「前の奥さんのこと、よく知らないけど……すごくやつれて見えました。それに、早く戻らないと……」


 倫太郎は言葉を止めて、右手で後頭部をさすった。


「妻に、何かあったの?」


 血のにじんだ目を見開き、先を急かした。


「奥さん、多分僕と同じで……霊とか、感じる人です」


「そんなの、聞いたことないけど」


「なんか男の声がして。よく聞こえなかったけど、奥さん、返事してました」


「何て?」


「『わかったわ、ススム』って」


「誰だその男は!」


 背筋を測るように、上半身を反らした。


「わかりません。その男をススムさんだと思って話してました。あの家の空気、ちょっと変で」


 高志は、ススムの視線を感じた。

 見ると、餌を求める猫のような、高いものをねだる麗奈のような目とぶつかった。

 ずるむけた顔の直視は厳しいが、目を逸らさずに見つめ返した。

 こいつへの文句は山ほどある。けれど、出てきたのはこの言葉だった。


「ススムッチ、帰ってやれよ」


「でも……俺」


「いいから帰れ。恨まれても仕方ねぇ相手に背中を押されてんだぞ」


「俺、タカシッチにちゃんと謝ってない」


「そんなの、今ちゃっちゃと言っちまえよ」


「本当は、ずっと謝りたかった。傷つけて、ごめん」


「ずっとって、おまえ、死んでここに来たの、俺に謝りたかったから?」


「それは違う。ごめん」


 あ、そう。

 だよな。おまえは、友情より愛情を選ぶやつだ。


「もういいよ。今さらススムッチとやり合う気もないから」


 それに、もう俺は。

 一度、視線を窓の外に向けた。


「ねぇ、倫太郎君」


 ススムが、さらに上体を起こして聞いた。


「妻に霊感あるなら、俺とも話せるよね」


 血だまりの肉の中で、目をクワッと開いた。


「それはわかりませんが、奥さんと一緒にいてあげてください」


「そうだよススムッチ。知らない奴に奥さん奪われるぞ」


「嫌だっ」


 口から血がほとばしった。


「僕、よくわからないけど、声が届かなくても、そばで守られているのは感じると思います」


 言い終えた倫太郎が、「あ」と声を漏らして、高志がいる方に目を向けた。

 こっちを見るな。何も思うな。

 どうせ、俺のは届いてないよ。


 ススムは床に顔を伏せた。数秒して、勢いよく顔を上げた。


「ありがとう、倫太郎君!」


 腹を軸に回り、一度、高志を振り返る。

 高志は、口の端を少しあげて、顎をしゃくった。

 ススムは、小さくうなずき、ホフク前進で出て行った。


「それから、ススムさんの奥さんの声は……」


 倫太郎が話しはじめた。


「あいつ、出てったよ。別れも言わねえでさ、失礼なやつだよな」


 冗談っぽく伝えると、倫太郎が、ふっと小さく笑った。


「で、奥さんの声って?」


「ああ、うん。声きいて思ったんだけど、奥さん、このマンションに来てたかも」


「麗奈の偵察に?」


「生身の身体じゃなくて、ああいうの、生霊っていうのかなぁ。隣から、泣き声とか、おっかない声が時々聞こえてた」


「へぇ、女の嫉妬ってすげぇな」


 言いながら、頭の中で弾けた。


 女! 


 腕枕で麗奈ともめた時や、掃除機に絡まっていた長い髪。


 あれは。


「それ、俺も見たかも。でも、このマンションに来てからで、その前は感じなかったけど」


「高志は、鈍感だから」


 首をかしげたが、うん、まぁそうか、と妙に納得した。


「まったく、あいつは、生霊とばすほどの奥さんの愛を、まるでわかっちゃいないダメ夫だな」


 言った瞬間、自分の棚上げに気づいた。


「何も言うな!」


「言ってないし」


 倫太郎は、薄く笑って立ち上がり、机に戻っていった。

 高志は、そっと手のひらを見る。


 ――ああ、いよいよだ。


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