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32 会いたい


 背後から笑い声が聞こえて、目を開いた。

 頭の中が霧に包まれていたように、数秒間の記憶がない。

 自分の立つ位置を見て、後ろにのけ反った。塀から爪先が付きだしていた。

 落ちかけていた。


 背後の気配に振り返ると、803号室の主婦が歩いていた。

 スマホを耳に当てて、大声で笑っている。


「はい、はーい。じゃあまたね」


 主婦はスマホを耳から外し、手で口を覆った。クスクスと声が漏れている。

 幸せそうに笑う主婦をみて、高志もつられて笑った。口角が上がっていることに、そっと安堵の息を漏らした。


 数秒前、確実に、死に引き寄せられていた。


 生きていたら、自分は落ちていただろう。


 自身の弱さが怖くなり、空の青に目を戻した。

 

 俺は――。

 

 空に、一人の女性を描いた。

 この空のどこかに彼女はいるのだろうか。


 柔らかな温もりを求めて、空に手を伸ばす。

 透ける手を見ながら、ふいに桃子の言葉を思い出した。


 そうだ。

 桃子は、薄くなってからマンションを出られたと言っていた。

もしかしたら、もしかするぞ。


 勢いをつけて振り返り、エレベーターの方を見る。

 足早に近づくと、階数表示の10が見えた。

 同時に、エレベーターの稼働音が鳴った。

 高志は走り出した。


 9に変わる表示を見ながらスライディングの体勢になり、廊下を滑った。

 目を閉じて身体に力を入れる。阻まれる感覚がない。


 恐る恐る目を開けると、太腿と白いパンティが見えた。


「やったぞ!」


 仰向けのままガッツポーズを取り、あわてて顔を逸らした。

 乗れた! 乗れたぞ!

 喜び勇んで立ち上がり、おおおおっと声をあげた。


 横には、ミニスカートの女性が階数表示を見上げて立っている。

 高志は、その横でピョンピョンと飛び跳ねて、一階への到着を待った。

 いつもと違う場所に心が弾む。

 8階を離れられる理由はわからない。けど、どうでもいい。

 

 着いた。

 ゆっくりと開きはじめたドアから、細長い光が挿し込んでくる。

 光が広がるにつれ、口も大きく開いていく。

 眼前に広がる懐かしい景色に感動し、ミュージカルのように両手を広げてエントランスに走り出た。

 世界はなんて広いんだ! 素晴らしい!


 マンションを背にして走り、時折振り返ったり立ち止まったりしたが、引き戻される力は感じない。

 どこまでも行ける。


 自由を手にした瞬間、両親の顔が頭に浮かんだ。

 そうだな……最後に会いに行こう。

 走りながら、ふと違和感を覚えた。

 桃子が言っていた通り、今まで重力を感じていたかのような身体が軽くなっている。

 一歩ごとに視界が上下して、バランスがとりにくい。

 この話をしていた桃子は、消えてしまった。自分の残りの時間も迫っている。

 実家は電車で十駅。

 今までと同じように動けるなら、電車にも乗れるかもしれない。


 猛ダッシュで駅へ行き、改札口を通って電車に乗り込んだ。

 動き出す電車と共に、予想どおり身体も運ばれた。

 ドアの前に立ち、流れる景色を眺めていた。

 北へ進むにつれ、ビルやマンションが減り、一面住宅地に変わっていく。

 田畑が増えて実家に近づくほど、切なさが込み上げてきた。


 親には会いたい。だが、それ以上に、あの泣き顔を見たくはなかった。

 行ったところで会話はできず、涙を見るだけだ。それを最後に消えてしまうかもしれない。

 最後に見るものを、両親の泣き顔にはしたくない。


 どうする? 


 迷っていると、ゴウッという大きな音がして、窓ガラスが大きく揺れた。

 外の景色に、反対側の電車が重なった。すれ違う電車をみながら、自分に問いかける。


 どうしたい。


 轟音に思考を掻き乱され、目を強く閉じた。

 下げた両手で拳を作り、拳を小刻みに揺らしながら、強く、強く家族を想った。


 ――父さん、母さん、隆弘。


 下唇を噛んで目を開けた後、逆方向の電車に向かって、大きくジャンプした。


 さよなら。


 上りの電車に飛び移った。

 飛び込んだ勢いで床にくずおれた。

 轟音が消えた後も、立ち上がれなかった。



 元の駅に戻り、ホームのベンチで行き交う人々をぼんやり眺めていた。

 最後の時を過ごす場所が思い当たらない。

 もう、ここでいいやと思い、その時を待っていたが、辺りが暗くなっても身体は消えずに残っていた。

 何人の人が俺と重なってベンチに座っただろう。

 さすがに飽きて、腰をうかせた。

 行き場もなく、仕方なしに麗奈のマンションへ足を向けた。


 マンションが見えた時、エントランスから男と犬が出てくるのが見えた。

 背格好で倫太郎だとわかる。犬を連れての外出とは珍しい。


 時間はわからないが、酒屋やスーパーはまだ営業していたから、八時か九時くらいか。

 倫太郎は、こちらに背を向けて歩きだした。

 犬が四足で踏ん張り、前進を拒んでいるように見える。


 倫太郎はリードを両手で引っ張り、無理やり歩かせながら、なにやら犬に指示を出した。

 内容は聞こえないが、鋭い口調だ。

 その様子に胸騒ぎがして、後を追うことにした。


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