31 現実のかけら
805号室は無人だが、開錠する倫太郎の顔には緊張が見える。
ドアノブに手を掛けた倫太郎は、左右に首を振って何度も廊下を確認した。動きが怪しく、見ているこっちがはらはらする。
体が入る分だけ扉をあけて、もう一度左右を確認すると、すべり込むように中に入った。
高志も後を追った。
浴槽に潜むススムを思い、洗面所の扉をきっと睨みつけた。
「高志、どれ?」
呼ばれて振り向くと、倫太郎は靴の詰まった下駄箱の扉を大きく開けていた。
「違う、こっち」
三段ボックスを指さす。
「わかんない、言葉で言って」
三段ボックスを指さしたまま、動きを止めた。
「……」
「ちょっと、早く言ってよ」
倫太郎の声で我に戻った。
「ああ、ごめん。そこのボックスのどこか」
焦りが、一気に込み上げた。
唾をごくりと飲む。
手が……薄い?
三段ボックスの花柄が、手の奥に透けて見える。
倫太郎が、ボックスの一番上を開けた。
高志は、両手を目の前にかざした。
「どれ?」
倫太郎の声にはっとした。
だめだ、今は切り替えろ。
「変なものない?」
「変なものしかない」
引き出しの中を覗くと、城や東京タワーが掘られた鉄のキーホルダー、小さなキューピー人形などが詰まっていた。
江崎が放り込んだ音は、ガチャガチャしたキーホルダーの上に落ちる音とは違い、もっと乾いていた。
次に、二段目を開けた。
印鑑やポケットティッシュだけで、他には何もない。
三段目を開けると、いくつかの鍵が見えた。
ここに、合鍵が入っていた。
小さな金色の南京錠や自転車のスペアキーなどが見える。鍵を見ているうちに、一つ、思い出した。
「そうだ、今使った合鍵、そこに戻しておいて」
「いいけど、出た時に閉められなくなるよ」
「合鍵がなくなっているのに気づかれるよりいい」
倫太郎は、合鍵を引き出しに落とした。
コトリ、という音がして、江崎が何かを入れた時の記憶が蘇った。
あの音だ。
その時、視野の端で何かが動いた。リビング側に目を向けると、ものすごい勢いでホフク前進してくる、血だらけのススムが現れた。
倫太郎は気づいていない。三段目の引きだしの中を覗いている。
「タカシッチ、早く逃げろ!」
くわっと開けた口の中が血で真っ黒だ。気持ち悪い。
倫太郎にも声が聞こえたらしく、弾かれたように廊下に顔を向けた。
「麗奈が来る!」
ずるむけた皮と血で表情は読めないが、かろうじて見えている眼球が、必死に訴えている。
玄関に立ち尽くしていると、ススムはもう一度声を荒らげた。
「麗奈が来るんだってば!」
「まじかよっ」
忘れ物か。
今、外に出れば鉢合わせになるかもしれない。そうなれば通報される。
「靴持って、中に隠れるぞ」
急かすように言うと、倫太郎は靴を脱ぎ、スニーカーを掴み上げた。
二人で廊下に上がった瞬間、ススムが叫ぶように言った。
「違う、逆、逆、部屋から出ていけ!」
迫ってくるススムに押し出されるように、高志は身体の向きをかえた。
リビングの扉の奥から、微かに物音がした。
もしかして、中に麗奈がいるのか!
「倫太郎、帰るぞ、急げ」
言いながら扉を突き抜け、倫太郎も裸足で転がり出てきた。
猛ダッシュで804号室に戻った。
倫太郎は裸足のまま玄関に入ると、上がり口に靴を置き、それを履いて土足で自室へ入っていった。
「いやぁ、まいった。麗奈、今日休んだのかな」
枕が高速で飛んできた。
反射的に腕をかざす。枕は身体を通過して扉に当たった。
腕の奥に、怒った顔が透けて見える。
ああ……さっきより薄い。
そろそろか。
消える前に、せめて別れの挨拶を、と倫太郎の名を呼んだ。
「あのさ、りん……」
「出ていけ!」
呼び終わる前に大声で怒鳴られ、とりつくしまもなく部屋を追い出された。
廊下に出たものの、どこに行けばよいのかわからず、足が止まった。
ふと、空に目をやる。
目の痛くなるほどの青空が広がっているのに、この心は曇ったままだ。
誰にも届かない存在だと思うと、ふっと虚無が広がり、重いため息をついた。
江崎が玄関に何を仕込んだかは、結局、わからないままだ。
合鍵を手放した今、これからどうするか、何ができるかも、浮かばない。
もう、考えるのもしんどい。
青空にかざす手の奥で、ちぎれ雲が浮かんでいる。
あれ?
手を顔の前まで下ろした。
傷が、ない。
全身のどこを見ても、傷や血が見あたらない。
消えたのか。
いや、違う。
傷が見えなくなるほど、薄くなっただけだ。
空を見たまま、一歩前に出た。
塀から下を見下ろし、自殺男のことを思った。
自殺を繰り返すあの男は、いつからここにいるのだろう。飛び降りて一階に行けるのに、なぜ戻ってく るのか。
なぜ、消えない。
背面飛びで落ちていく男の姿が、頭に浮かぶ。
――大空に舞うのは、気持ちいいのかな
――俺も、やってみようか
もう、ここにいる理由が見当たらない。
何もできず、悲しみばかりが積み上がる。いずれ、人の記憶からも消えていく。
そんな日々を耐える必要があるのだろうか。
そろそろ、楽になりたい。
見上げた空の青を目に焼き付け、静かに瞼を閉じた。




