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30 黒と赤

 桃子が消える間際の笑顔のまま、数秒間かたまっていた。

 真顔に戻せば、泣いてしまいそうで怖い。


 膝を抱えたまま、何も考えられずにいた。

 壁時計が夜の九時を差した頃、ようやく倫太郎が帰ってきた。

 前髪が額にひっつくほどに汗ばみ、息を切らしている。


「遅かったな」


「用事ついでに走ってきた」


 は? 一瞬、いらっとしたが、一方的に頼んでいる手前、文句は言えない。

 優しく出迎える母親のように声をかけた。


「そっか、だから遅くなったんだね。それで、手に入った?」


 倫太郎は、ウィンドブレーカーの右ポケットから取り出したものを、高志の方に差し出した。


「これ?」


 手のひらには、一本の鍵がのっている。


「怪しまれなかった?」


「うん。でも高志のお母さんに変な目で見られた。高志の隠し子だと思われたのかも」


「よせよ」


 倫太郎には、俺の実家に行ってもらっていた。

 事故の日、ポケットに入れていた805号室の合鍵。遺品として残っている可能性に賭けた。これがあれば、江崎が玄関に忍ばせたモノを回収できる。


 入るなら、平日の出勤後がいい。

 今日は土曜だから、明後日には決行したい。


「おまえ、月曜は学校行く?」


「まだ行かない」


「あっそ」


 まだ、か。小さく、ふっと息が漏れた。


「うちの親、元気だった?」


 倫太郎は、畳まれたパジャマとパンツを手にして、歩きながら答えた。


「なわけないだろ」


 軽く口にしたその一言を、激しく後悔した。

 息子が死んで、まだ数日だ。立ち直っているはずがない。ただ、元気でいてほしかった。それだけで良かった。

 頭に家族の笑顔が浮かぶ。胸を切り裂かれるようで、思わず胸に手を当てた。

 父さん母さん、ごめん。声には出さず、唇だけ小さく動かした。


 

 月曜の朝。倫太郎から麗奈の出勤時間を聞かれた。忍び込むつもりらしい。

 なんだかんだで協力してくれる倫太郎が、少し可愛く見える。


 一晩中、幽霊に居据わられたのが気に食わなかったのか、相変わらずのツンデレ君は、朝からすこぶる機嫌が悪い。

 機嫌をとろうと話しかけたが、ことごとく無視され、「着替えるから出てって」と追い出された。


 昨晩、倫太郎は布団の中から「桃子さん?」と何度か呼んだ。

 さすがに隠し通せるとは思わず、彼女が消えたことを伝えた。

 意外にも倫太郎は、「あっそ」と素っ気なく答えたが、布団を被って丸めた背中は、落ち込んでいるように見えた。



 暇を持て余し、803号室の主婦の部屋に入った。

 主婦は、ニュースを観ながら菓子パンにかじりついている。

 テレビでは芸能人の不倫報道が流れている。興味はないが、ソファに腰を下ろした。


 十分ほどで不倫報道が終わり、最近続いている通り魔事件のニュースに変わった。

 CGの再現映像流れだす。棒のようなものを持った黒塗りの人影が、背後から赤塗りの人影に襲い掛かる。画面が切り替わり、被害者の夫がインタビューに答えていた。

 その後も、CG映像が繰り返し流れた。


 見ているうちに、殴られる赤塗りの人影に、麗奈の顔が重なった。

 麗奈は、派手で隙が多い。警戒心が薄く、男の怖さも、力も、わかっていない。

 いつ狙われてもおかしくない。


 急に不安が込み上げ、テレビの前に移動して、事件の詳細を聞こうとした。

 すると、突然チャンネルが変わった。振り返ると、主婦がリモコンをテレビに向けていた。

 ザッピングが始まり、行列ができるスィーツの番組で止まった。

 まじかよ。

 チャンネルすら変えられない不自由さに、嫌気がさす。

 

 主婦を睨んで歯噛みしていると、ふと、引っかかるものがあった。

 麗奈は――俺に守られることを、望んでいるのだろうか。

 生きていた時でさえ、頼られていたか自信がない。

 俺は所詮、浮気相手なのだ。

 自嘲気味に笑い、ソファに戻った。


 何気なく時計を見て、はっと立ち上がった。麗奈の出勤時間をとっくに過ぎている。

 慌てて804号室に戻ると、倫太郎は部屋の中央で腕立て伏せをしていた。

 黒いTシャツに黒いパンツ。額にはサングラス。隣に忍び込むために、一応変装をしているらしい。

 一度廊下に戻り、「入るよ」と声をかけた。


「すっかりニュースに見入っちまった」


 無視された。


「今見てたんだけどさ通り魔事件、あるだろ」


「……ああ」


 倫太郎は、胡坐をかき、鬱陶しそうに答えた。


「あれって、同じ区じゃん。おまえも気を付け――」


 言いながら、倫太郎の黒づくめの格好に目が止った。


 頭の片隅に、小さな違和感が生まれる。

 小さな黒い点。

 気づいた瞬間、それは染みのように広がり、頭を侵食していった。


「だからなに?」


 冷たい視線がこちらを向く。その顔が、CG映像の黒い人影と重なった。


「いや、なんでもない。そういえばさ、おまえ何で身体鍛えてんの?」


 無理矢理話を変えた。


「鍛えてないけど」


「え、筋トレしまくりじゃん」


 明るく言ったが、倫太郎の表情がさっと曇った。


「あのさ、さっさと用事済ませたいんだけど」


 ここで怒らせてやる気をそぎたくない。


「だな。わりぃ」


 笑って言いながら、心で問いかけた。


 おまえ……じゃないよな?


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